Love pool





「これで、あなたと二人きりだ」 「こーんな暗い部屋におじさんを監禁して何すんだよ、バニーちゃん。まだ仕事中だろ」  ほれほれ、時間判る? これ見よがしに腕時計を見せ付け渋面を作る男は、本当に恋人なのだろうか。  がさつな虎徹にロマンティックなんてひとっ欠片も求めてはいないが、たまに物悲しい気持ちになる。  ドアの前で仁王立ちするバーナビーに臆する事無く、立ち塞がる身体を片手で押し退けた虎徹はドアノブへ手を掛けた。  一回それを回し、施錠されていることに気がついて舌打ちをする。報告書がまだ残ってんだよ、体のいい言い訳を吐いてガリガリと頭を掻くシルエットが  ロックを解除しようとした所で、バーナビーは動いた。無情を見せる広い背中を捕まえて、柔らかく抱き締める。 「こらっ、バニー! 離せ、ここ会社!!」  軽くドアへ押し付けるように深く抱きこんで、止めろ離せと暴れる恋人の耳の裏で名前を呼んでやった。  こうすると彼はすぐに大人しくなる。今回もそうだ。一言「虎徹さん」と呼んだだけで、腕を払おうとする手がぴたりと止まった。 「ね、虎徹さん……その指、離して」  もう一度「虎徹さん」と、懇願を響かせ呼んだ。腹を抱いていた右手を伸ばして、ドアノブを握り続ける手の甲に触れる。  腕の中の身体がぶるりと震えて、バニーと、衣擦れの音で消えてしまいそうな声で呼ばれた。  俯き気味の顔は髪が邪魔で伺えないが呼ぶ声に非難の音もなければ、逃れようとする素振りもない。  嫌な時は嫌だとはっきり意思表示はする人だから、そのまま身を委ねるということは、そういう事だろう。 (……可愛いな、本当に)  今だけは無駄な口論を避けたいバーナビーは心の中でひとりごちる。可愛い、この言葉を口に出すと彼は必ず嫌そうな顔をするのだ。 「オッサンに可愛い言うな」とくしゃっと顔を顰めてそっぽを向かれると、気分を害して申し訳ない気持ちと、もっと可愛いと口にして  苛め倒したい気持ちが胸の裡でせめぎ合う。Sの気はないが怒る表情もまた可愛くて、バーナビーは彼を想いながらいつも煩悶する。  だが、拗ねた横顔の中には言葉以外の感情が含まれている事を知っている。  健康的な褐色の肌でも隠し切れない、照れ臭さだ。当人の言葉通り嬉しくはないだろうが、実は嫌でもないらしい。  体裁を気にして肯定しない虎徹も、バーナビーのことを無碍に出来ない虎徹も愛しくて仕方が無かった。  彼を想うだけで高鳴る胸は、バーナビーが虎徹に抱くものが紛れも無い恋心であることを教えてくれる。  現に、こうして抱き締めているだけで胸が騒がしい。密着しているから荒々しい鼓動が伝わっているかもしれない。  されどバーナビーは虎徹を手放す気にはなれなかった。未だノブを握る手の甲を指先で撫でて、爪先で軽く引っ掻く。  ふ、と短い呼気が頬の近くでして、バーナビーは虎徹の顔を覗き込んだ。 「虎徹さん?」  呼ぶ声に揺れる髪のせいで表情はよく見えなかったが、小刻みに震える肩から笑いを堪えているのが判った。  同時に、肌の熱が少しばかり増していることに気がつく。きゅっと握って、確かめようとした所で。 「……仕方ねえなあ」  ぽつり呟いた虎徹の手が勿体ぶった動作でドアノブから離れた。自然な流れでバーナビーの手からもするり逃れ、掌には彼の手の感触だけが残される。  身体の横へ垂れた手を追いかける事はしないが、このまま終わらせるつもりもない。バーナビーは一旦両手を解き、虎徹の身体の向きを変えた。  成すがままになる虎徹の背中が扉に当たり、とんと軽い音を立てる。  照明の落ちた薄暗い室内の中、ゆっくりと顔を仰ぐ虎徹と真正面から向き合った。  ひたり、間もなく重なった鳶色の瞳は碌な光源もない場所で輝いて見えた。ぱちり、ぱちりと瞬きをする度に輝きを増して色を変える。  バニー、言葉なく投げかける唇よりも雄弁に語る瞳を前に、バーナビーの口端が持ち上がる。 (……今は、もっと近くに寄れ……って所か)  甘過ぎる瞳の命令に、意地悪すら出来そうにない。バーナビーはドアに両肘を預け、虎徹に顔を寄せた。  暗すぎてあなたの顔がよく見えない、言い訳じみた事を囁いて、子供っぽい意地を見せ付ける。  先程までバーナビーの行動にケチをつけていた彼が、もう一歩、踏み込みやすくなるように。時には年下を武器にすることにも、慣れてしまった。 「……まあ、俺だってな。その、あれだ……」  気まずげに言葉を揺らす虎徹にバーナビーは長い腕を回し、二人の間にわだかまる埃っぽい空気を押し出すように抱き締めた。  途切れた言葉の続きが判るから、抱く腕に遠慮なんてない。 「バニー、痛いって」  苦笑する虎徹も身体に巻きつく腕を引き剥がそうとせず、バーナビーの好きにさせている。 (久々の、虎徹さんだ)  頬に頬を寄せて、ざりっとした顎鬚の刺激に吐息が漏れる。  女性のようなまろやかな感触とは程遠い、細身ではあるが無駄なく鍛え上げられた身体は硬い。  これでいて抱き心地は悪くない、というか良かったりするから不思議だ。もう虎徹以外の身体を抱くことなど、考えられないほど。  どうしてこれを我慢出来ていたのか、自らの忍耐力を褒めてやりたい。腕の中の身体を堪能しながら、バーナビーは恋人の香りに酔いしれた。  暫く仕事が忙しかったせいで、二人きりになるのは本当に久しぶりだった。  個別での仕事以外、相棒であるバーナビーと虎徹は一日の大半を共にすることが多い。朝オフィスで顔を合わせ、終業まで始終一緒に過ごすのが常だ。  しかし、プライベートではそうはいかない。ここの所は取材や出動に忙殺され、仕事が終わっても翌日の為を考えて即帰宅の毎日。  一緒の時間を捻出しようと努めても、どうしたって皺寄せが生じてしまう。  シュテルンビルドを背負う身の上として、仕事に支障が出ることだけは避けたい――それは虎徹も同じだった。 「仕事もだけど、お前との時間も妥協したくないからな」  時間が出来たらゆっくり二人で過ごそう、面映そうにしながらも恋人の顔で笑った虎徹の言葉は、バーナビーにとって唯一の慰めになった。  が、それも今日までの話だ。諸々限界だったバーナビーは先程、廊下の向こうから歩いてきた虎徹を見て、自分の中で張り詰めていた我慢の糸が  ブッツリと豪快な音を立てて切れた。バニーと明るく笑って手を上げる虎徹とは、朝のオフィスで顔を合わせて以来だ。  淀みない足取りで真っ直ぐこちらへ向かってくる彼を抱き締めたい、頭を占める欲求に抗う事が出来なかった。  バーナビーは早足に近付いて虎徹の腕を掴んだ。  どうした? 顔を覗き込んでくる彼にキスをしたくなったがひとまず堪えて、手近な場所にある部屋の扉を開き背を押した。  わわわっと大仰な悲鳴を上げながらたたらを踏んだ虎徹を尻目に、バーナビーはドアを閉めて施錠した。  鼻につく埃と紙の匂いに一瞬眉間が寄ったが、おかげでこの部屋が過去に訪れた事のある場所だというのが判った。  バーナビーが虎徹と入り込んだのは、ヒーロー事業部と同じフロアにある資料室だった。  膨大な量の資料を敷き詰めたラックが所狭しと並べられた室内。照明を落としたままの部屋は、壁のように立ち並ぶラックを進んだ奥に  窓があるとはいえ昼間でも薄暗い。素早く視線を走らせて自分達以外の存在がない事を確認したバーナビーは、思わぬ幸運を天に感謝した。  偶然足を踏み入れた資料室は使用頻度が低い部屋であることを心得ている。  あえて照明は落としたままだから、派手な物音さえ立てなければ誰も来ることはないだろう。 (我慢、出来るか)  好きで堪らない恋人との、秘密の逢瀬。  あれやこれやと妄想逞しくなるのは仕方がない、シチュエーション。 「……虎徹さん」  ワザと低めた声で虎徹を呼ぶ。 「ん、何?」  平然と返して髪を撫でてくる指先は他愛なくて、出鼻を挫かれた気持ちになる。擽ったくなるような軽い接触だって嫌いじゃない。  嬉しそうな顔をする虎徹にもうこれでいいかな、いいや萎えるな僕! と奮起した所で、はあ、と柔らかい呼気に耳朶を擽られた。  バニーちゃん、どこか安堵を孕んだ声音で呼ばれてしまって、嬉しいような切ないような気持ちが胸に去就する。 (これも無意識、なんだろうな……)  いっそこれが意識した行動ならば、どれだけ気が楽か――甘く打ち震える心裡で嘆息した。 「お前と二人きりになるの、ひっさびさだなあ」 「そうですよ。こうでもしないと、あなたに触れることすら出来なかった」 「ふーん? そーんなに俺に触りたかったんだ、バニーちゃん」  目尻に皺を作って屈託なく笑う虎徹の瞳は、もう恋人のそれだ。  同じ瞳を眼鏡の奥で返せば、バニー、バニーちゃんと何度も呼ばれて抱き締められる。  ゆったりとした温かい抱擁に、今度はバーナビーの口から安堵が漏れた。 (……ん?)  一瞬、背を抱く力を強めた虎徹の手がいつもと違う。背の筋肉の隆起を辿り、背骨へ到達した指先が骨のラインを伝ってゆっくりと腰へ落ちてくる。  マッサージのような手付きとは言い難い、どこか艶かしい指先のタッチに何らかの意図が透けて見えるようだ。  ……いや、まさか有り得ない。都合のよい現実が頭を過ぎって、咄嗟に否定する。  あの虎徹から誘ってくる事なんて、今までなかったではないか。それに、こちらから誘ってもすげなく断るのだ、目の前の男は。  普段にはない愛撫を与えられて、バーナビーは喜ぶよりも先に困惑した。  バーナビーの惑いを知らない指は尚も動き続け、ジャケットの裾で止まった。終わりであることを確かめるように裾を引っ張ってから  黒いシャツ、ボトムとベルトの間をさらりとひと撫でする。戯れの延長線上のような所作に、残念な気持ちとホッとする気持ちが複雑に交じり合う。  これは、虎徹の気紛れのひとつだろう。腰を抱く腕に身を任せながら、先走った自身に溜息を吐き――熱が、触れた。 「っ……!?」  灼熱の鉄棒を押し付けられたかのような刺激に、バーナビーはおののいた。  熱い。触れた所から焼けてしまいそうな熱いそれが肌を撫でて、尾骨に乗る肉を揉みしだいた。ぐっと肌に食い込むたび腰がざわついて  落ち着かず、バーナビーは短い呼気を漏らして耐えた。窮屈なボトムの中、我が物顔で肌に触れるものなど考えなくても、判る。 「こて、虎徹さん……っ!」  肩口に顔を埋める虎徹のつむじに向かい、狼狽を露に名を呼んだ。躊躇なくボトムに突っ込んできたのは、虎徹の指だ。  それは既に下着へ潜り込み、伸縮性のある布を好き放題伸ばしながら際どい肌をなぞっている。  臀部を撫で回して揉む指には、大雑把な虎徹のものとは思えない繊細さと艶かしさがあった。同じ男だから知っている、男の身体を刺激する動きだ。  焦らずにはいられない状況だった。一旦落ち着いて貰おうにも虎徹は聞き入れず、悶着が長引けば長引くほど指はやけに熱心な動きで肌を撫でてくる。  好きで堪らない相手が、あんなに先を拒んでいた相手が身体に触れている。  身体の奥底から湧き上がる見知った雄の欲望が、虎徹を押し止めようとするバーナビーの抵抗を奪いにかかる。  耳の側で繰り返される虎徹の呼吸が熱い。肌を撫でまわす指が熱い。都合のいい現実だと否定したものが、今バーナビーの目の前にある。  喉が鳴った。ここまでされて、期待などしない男がこの世にいるだろうか。  身体を寄せて触れてくる彼に、許されたと思った。やっと許してくれた、と。  興奮で身体が打ち震えた。虎徹の全部を自分の物にできる。妄想じゃない虎徹を抱く事が出来るのだ。  バーナビーは虎徹を阻んでいた腕をほどき、今度は強く抱き締めた。すかさず背を抱く手を尻へ這わせようとして。 「……え。は、あの、虎徹さん?」  がっしと、止められた。  虎徹の尻まであと数センチという所で、バーナビーの指先が何度も宙を引っ掻く。  ぱらぱらと指が動くたび手首に走る激痛に呻きながら、バーナビーは依然として肩口にある虎徹のつむじへ引き攣った声を掛けた。 「ん、何バニーちゃん」 「あの、今の雰囲気、GOって感じじゃなかったですか?」 「え、そうだったか? 俺、お前に甘えてただけだぞ」  伏せていた顔をぱっと上げた虎徹は、バーナビーに向かって歯を見せた。  先程の雰囲気はどこえやら、バーナビーの身体に触れていた手を目前に掲げて「バニーのスケベ!」と笑う彼の変わり身の早さについていけない。  何だ、これは。何が起こっている? 戒められたままの手首の痛みが、容赦ない現実を押し付けてくる。 (ああ……そうか、今日も、そういうことなんだな……)   暫くして、また拒まれたのだと気がついたバーナビーは、怒りよりも脱力しそうになった。  あんなに厭らしく触っていたのに「甘えたかった」なんて理由は無理がありますよ、と突っ込んでやりたかったが、その気力も湧いてこない。  今日だけは違うと思っていたのに「今日」もお預けらしい。急速に萎んでいく心と身体、バーナビーは底の見えない深い深い溜息をついた。 「おい、バニー?」 「……もう、手、いいでしょう?」  項垂れるバーナビーを覗き込もうとする虎徹の前へ、掴まれたままの手首を差し出す。  虎徹はすぐに握っていた手の力を緩めて、今度は指同士を絡めてきた。  所謂、恋人繋ぎというスタイルだ。重なる掌の熱は明らかだというのに、彼はどうしてこれを誤魔化せると思ったのか。  肌を擽る甘ったるい指先に絆されそうになったが、虎徹の顔を見て気が失せた。 「……何、ほっとしてるんです」 「あ? んな顔してねーよ」 「してました。あなたは腹が立つくらい鈍いし鈍いけど馬鹿じゃない。自分の心くらい、判ってるでしょう」  トドメに眇めた瞳を向けてやれば、今まさに文句を言おうとしたのか、大きく開かれていた口がすぐへの字型に閉じられた。  しかし貝ほど上手く閉じこもる事は出来ないらしく「んな意地悪言うなよ、バニー」と、言い難そうにもごもごと喋る。  挙句、むにっと尖った唇で不機嫌を表して見せるが逆効果でしかない。  つんと唇を突き出されても、キスをしたくなるだけだというのに。  バーナビーはさり気無く虎徹から視線を逸らした。ここでキスをしてしまえば彼の手中に落ちるのが目に見えている。  年下を甘やかす事に関しては天性の才能がある虎徹だ。残念ながらそれに抗う術も忍耐力もないので、ここでの正解は沈黙のみ。 「……なあ、バニー怒った?」  むっつりと黙ったままのバーナビーに虎徹は擦り寄る。  元来大人しく出来ない性質の彼は少しでも沈黙を打破しようとなあ、なあと身体を擦り付ける様にして気を引こうとする。まるで猫だ。  バーナビーが虎徹に甘いことを知っている上でやっているのだから、本当に性質が悪い。 「はあ……怒ってはいませんけど……あなたはいつだって、応えてくれない」  彼の目論見通り、結局は折れてしまう自分が情けない。 「あー……うん。あの、別に嫌って訳じゃねーんだって」 「別に、あなたの気持ちは露ほども疑っていないので安心して下さい。僕が好きだと十回言って一回返してくれるだけで満足ですし、所構わず  キスするなと押しのけられても一回だけは許してくれる。僕の虎徹さんへの愛は燃費いいみたいで」 「やめろ、なんか申し訳なくて土下座したくなる」 「土下座よりも、僕はキスが欲しい」 「……バニーちゃん」  ぐっと眉を下げた表情で見上げてくる虎徹に、バーナビーは目を閉じた。薄い瞼の向こうで息を呑む音がして、幾度か深呼吸をする様子が伝わってくる。  恋人に対する普段の行動を省みたのか、取り合えずこれは拒否される事はないようで密かに胸を撫で下ろした。  たかがキスひとつで大げさな、と思った所で気付いた。 (そういえば、虎徹さんからキスしてくれる事って、あまりないな……)  記憶を振り返り――バーナビーは考えるのをやめた。まだ付き合ったばかりなのだ。ゆっくりでも、こうして回数を重ねてゆけばいい。  そっと頬を両手に包まれる。確かめるように触れてくる指が肌のうえで震えて、ぴったりと張り付いた。 「バニー」  囁きが唇に触れて、柔らかい熱が重なる。  すぐに離れてしまったが、この一回で全てを流して許してしまいたくなるほど、愛しいキスだ。  我ながら虎徹に関しては簡単過ぎる。それでも、相手から離れる事など考えられないのだから、この恋は相当重症な部類だろう。 「……本当に、俺はお前が好きなんだ」 「判ってますから。あなたは口にしなくても、行動に表わさなくても、素直な人だから」 「は?」 「僕しか知らない事がひとつくらいあっても、いいでしょう」  怪訝を浮かべる瞳の縁へキスを返して、バーナビーは微笑した。 「でも、深く抱き合いたいと思うのは、間違ってますか? ……そろそろ関係を深めたいと思ってるのは、僕だけ?」  改めて向きあい、虎徹に向かって腕を伸ばした。  男にしてはやけに細い腰の後ろで手を組んで身を寄せても、彼は逃げるどころか同様にバーナビーの腰へと腕を回し、引き寄せようとする。  互いの呼気が頬に触れ、温度の違う体温がゆっくりと絡み合うこの距離は、二人にとって息をするように自然なものだ。                                                                                    ⇒続き

 

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