目隠遊戯【前編】





 煮詰め過ぎたカラメル色のテーブルに手の中のロックグラスを預ける。つるりとしたガラスの表面をいくつもの水滴が転がり落ちた。 「……あーあ。こんな店、やめときゃ良かった……」  カウンターの向こうでグラスを磨く無愛想なスキンヘッドのバーテンダーに構わず、虎徹は唇を尖らせた。  頭上にある大きなスピーカーはかしましいBGMを流し続け、店内の盛り上がりに一役買っている。流行の音楽であることは  辛うじて判ったが、一切興味のないそれはただの雑音でしかない。曲に合わせて薄闇の中を走るライトが色彩を変え、虎徹の横顔を  毒々しいレッドが舐めるように照らしていった。何気なく視線で赤い尾っぽを追えば、中央に設けられたダンスフロアで  腰をすり合わせて踊る若いカップルが目に入り、思わず顔を顰める。 (ここ、変な店じゃねーだろうなあ……)  今にも下着が見えそうなスカート越しに尻を揉み始めた男の手に気付き、視線を戻した。スツールに置いた尻がムズムズして落ち着かない。 (素直に真っ直ぐ帰ればよかった……)  心地よい酩酊感まで吹っ飛びそうだ。今更な後悔はこれで五度目だった。  それでも店を出ないのは半分意地のようなもので、目の前の一杯を飲み干したら出ようと決めてはいるものの、猥雑な店内で  飲む酒の不味さといったらない。一口啜ってからは、先のアルコールで熱い身体を冷ますようただ握っているばかり。  素面であればまずセレクトしない類の店だったとは、落ち着いた外装からは想像もしなかった。  身体を包み込む擦れた熱気がまた一段と濃厚なものになる。派手な曲調のBGMに合わせて更にヒートアップしたフロアの雰囲気  靴先が触れる床は始終細かく振動し、時折突き上げるような揺れを感じる。数えきれない程の人達が蠢いている闇の中を  ブルーとピンクのライトが疾走していく。飲み足りない虎徹が適当に選んで足を踏み入れたここは、所謂クラブらしい。  四十路前のオヤジが一人飲む姿は、かなり浮いているに違いない。  極力乱れた空気から遠ざかろうと肘をついて、深く被ったハンチングごと右耳を塞ぐように掌を押し当てた。  重低音で轟く曲に合わせて、ウィスキーの海に浮ぶ丸い氷の塊が、ころんと動いた。 (独身ビーフの癖にさっさと帰りやがるから、こんな目に遭っちまったじゃねーか……)  今晩飲みに行こうと誘ったのはお前の方だろお……ちっと舌を打つ。  飲めればどこでもいいと、ブロンズステージいちの歓楽街からこの店を選んだのは誰でもない虎徹で、完璧な八つ当たりであることは承知している。  が、これからだと意気込んだ矢先で早々に帰宅したロックバイソンへつい毒づいてしまう。まだ飲み足りないと駄々をこねてはみたが  侘しい独身男の癖に何があるというのか、まさしく猛牛のような勢いで虎徹を振り払い「どうしても飲みたいならバーナビーでも誘え」と  吐き捨てられてしまえば黙るしかない。 (そりゃ、同じ飲むならむさくるしいお前よりも、可愛いバニーちゃんがいいっての)  言われなくても、虎徹はバーナビーを誘っていたのだ。  終業後、ロックバイソンから連絡を貰った直後に、隣で帰り支度をするバーナビーに声を掛けた。しかし個人での仕事が多い彼はこの後に  取材が一件入っているのだと、酷くすまなそうな表情で断った。誘いのひとつやふたつでしょげるなと肩を叩き、急ぎ足で  ヒーロー事業部を後にする広い背中を見送った。 「……今度は必ず、行きますから!」  今しがた飛び出したドアから顔だけを覗かせたバーナビーに、忘れ物かと首を傾げた時に投げられた言葉。  はいよと手を振り浮かべた表情は、我ながら気持ち悪いほど緩んでいたに違いない。  初めこそ衝突ばかりで噛み合わなかったが、相棒のバーナビーとはジェイク事件以来すっかり打ち解けていた。  彼の抱く凄惨な過去は決して払拭されるものではないが、あの事件がひとつの区切りにはなったのだろう。  時に凸凹コンビとしてお茶の間に笑いを届けていたタイガー&バーナビーも、抜群のコンビネーションで魅せるバディヒーローとして日夜活躍している。  クソ生意気なルーキーだと揶揄していた後輩は、今では安心して背中を預けられる頼もしい相棒だ。 (俺だって、お前と飲みたかったんだぞ、バニー)  最近バーナビーと飲む楽しみを知った虎徹とて、今晩のことを残念に思っている。バディヒーローとして波に乗るにつれ  プライベートでも一緒にいることが増えていたからか、逆に一人の時間が落ち着かないほど。 (んで、気付いちまったんだよなあ)  食事や飲みに誘うのは楽しくも美味しい口実で、もっと彼を知りたい、もっと自分を知って貰いたいと願う口寂しさは、どんな極上の  アルコールでも誤魔化せないことを。バーナビーを一つ知るたびに好ましく信頼に足る青年であること、一歩近付くたびに  シュテルンビルドの女性達を虜にする理由が判った。そして何より――バーナビーに対して抱く想いが、相棒以上のものであることを。  いつからだったのか、気が付いた時には既に当たり前となっていた。男同士という戸惑いは勿論あれど、それは虎徹の中に違和感なく居座っている。  バーナビーを見つめるだけでは物足りない程に強く、生々しい接触を望むにはまだ弱い。  意識していなければ想いを重ねた目で追い、熱の籠もった指先で触れてしまいそうになる感情は、虎徹にとって確かに恋だった。 「まあ、言うつもりもねーけどさ……」  諦念を乗せた声が、背後を行く男の笑い声に掻き消される。ちらり流した視線の先、隣を歩く仲間と肩を組んだその男は恐らくバーナビーと同年代だろう。  いっそおどろおどろしい熱気を放つ輪の中へ、驚くほどスムーズに混じり合った。  軽妙な足取りで地面を蹴り、今を楽しむ姿には過去も未来も怒りも憂いもない。 (今があるだけなら、なあ……)  バーナビーが歩む先には無限の未来が広がっていて、きっとこの想いは妨げになる。男同士の恋愛なんて不毛でしかない。  幸い、年齢を重ねた分だけの分別と落ち着きは持っている。相棒として背中を守り、一人の人間として友人として側で見守るだけでもいい。  どうしたって払えない寂しさと物足りなさは、まだ自分で慰められる位置には、いる。  それに、この気持ちがバレて避けられでもしたら立ち直れそうにない。冷たい目で睨まれ、背を向けられる想像をしただけで胸が引き千切られそうだ。  ――オッサンの癖に乙女か。自分で突っ込みたくなる女々しさを、口元だけで笑う。  虎徹自身、彼に伝える意思などないのだから、無駄な想像で胸を痛めるなんてどんなマゾ野郎だ。 (……もー仕事、終わってる頃か)  ふと、声が聞きたくなった。ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、時刻を確認すれば午後十一時。  そのまま滑らかな動作でパネルに触れて、ソラでも言える番号を呼び出す。こっそり撮った寝顔の写真が表示され、二マリ、と笑ってしまう。 (……アイツ、疲れてるよなあ)  日々仕事に忙殺されているバーナビーは若いだけあって難なくこなしてはいるものの、時々疲れた様相を見せる事がある。  今日だって朝一緒に取材を受けてから出動要請が入り、事務処理の後に今度は一人で取材をこなしている。  今一番注目を浴びている期待のニューヒーローを、誰もが放っておくはずがない。  外出をすれば顔出しヒーローの宿命か声を掛けられるのはしょっちゅうで。自分で選択した道とはいえ、常にバーナビーであることを  強いられている彼がひといきつけるのは、物寂しいとさえ思ってしまうだだっ広い自宅のみだろう。 (……やっぱ、やめとこ)  虎徹は取り出したばかりのスマートフォンを戻して、再びグラスを手にとった。大粒の水滴が掌だけでなく手首までをも  濡らす心地に目を細め、縁に口付けて喉奥へ流し込む。粘膜を熱く焼いて落ちるアルコールの味はけして悪くないのに  やはりそれを美味いとは思えなかった。さっさと飲み干して、さっさと帰宅するに限る。  最後の一滴まで舐め、空のグラスをテーブルへ預ければ中に居残る氷が軽い音を立てた。  それを合図にスツールから立ち上がり、ポケットの中に手を突っ込んでくしゃくしゃな紙幣を取り出す。カウンターの向こう  バーテンダーの凛々しい眉が八の字型になるのを見て、自分にゃスキンヘッドは向いてないだろうなと思いながら、出口を目指した。  途端、クラブという名の箱の中で、ぶわんと反響するBGM。凄まじい音の渦に巻き込まれた虎徹は慌てて両耳を塞いだ。  一層熱を帯びた店内。足元を揺るがす振動と、狂乱じみた数多の咆哮は同時だった。 「っあ……? 何だ、何が始まるんだ」  ぐるり周囲を見回す。さっきまでダンスに興じていた人達は誰もが虎徹に背を向け、一方向を見つめているようだ。  団子状態に集う群衆の先はこちらから伺えないが、どうせ大した催しでもないだろう。この煩わしいばかりの場所から早く離れたいと、歩みを進めた。 「っ、あああ……ッ!」  響いた悲鳴に、足を止める。  「今の……」  考えるよりも先に身体が動いた。身を翻した虎徹は雑然とした輪の中へ飛び込み、悲鳴の元へ駆けた。  ぎゅうぎゅうに詰まった人と人の合間に手を差し入れ、身体を滑り込ませるたびにいきり立った罵声や拳が降りかかるも、気にしている余裕すらない。  ハンチングを死守しながら、中心へ向かうにつれて酷い熱さを孕む人込みを幾度も掻き分けた。突き刺した腕が、ずっぷりと飲み込まれる身体が熱い。  ほうほうから上がる蜂の羽音のような喚声のせいで、既にBGMも聞こえなかった。  ぐっと強く右腕を前方へ差し込み払った先、漸く視界が開けた。  容赦なく突き刺さる光のナイフに瞼を閉じた虎徹は、薄い膜を持ち上げるにつれ露になる光景に、我が目を疑った。 「え、ああ……? なに、やってんだ……」 「ああっ、もっと……っ!」  呆然とした呟きにかぶさった、あまい金切り声。それは助けを呼ぶような代物ではなかった。 (お、おいおいおい……これって……)  咄嗟に掌で口を覆い、吐き出そうな叫びを堪える。うろたえ立ち尽くす虎徹を、我先にと身を乗り出す人々が再び飲みこもうとする。  邪魔だ、野太い声が腕と共に虎徹のジャケットを引っ張り、されるがままに背後へ追いやられ揉みくちゃにされた。  埋もれていく視界、それでも目に焼きついた強烈な一瞬は離れなかった。  群集の一番前――フロアの中心に設置されている、大きな円状のソファ。真紅の革張りに一際明るいスポットライトがいくつも向けられ  まるで晴天の下にいるかのような場所で行われていたのは、紛れもなくセックスだった。しかも何人もの男女が着衣を乱しある者は  裸で入り乱れ、中には同性同士で絡んでいる者達もいた。一斉に悦びの声を響かせては身体を貪り合う、非現実な光景が広がっていた。  アルコールとは別の眩暈に襲われ、どうにか踏ん張りながら虎徹は周囲を見渡した。  自分以外の人間は皆一様に狂乱じみた表情を浮べ昂ぶった声を上げながら場を煽っている。  忙しなく身体を揺らし寄せ合い、隣に居合わせたというだけで側にある肌を撫で回すいくつもの手、手、手……卑しい熱気は  いつしか箱の全体を侵食し、今まさにこの場もライトの下と同様になりつつあった。 (ここ、ハプニングバーか……)  何ら変哲のない外装はありがちなカモフラージュで、その実は公に出来ない店というのは数限りないが、まさか偶然足を踏み入れた店が  ハプニングバーとは予想外だった。けして表立って商売していい類の店ではないだろうに、一見である自分があっさりと入場を許されていいものだろうか。  とにかく、この場に長居は無用だ。いくらプライベートとはいえ、ヒーローが立ち入っていい場所ではない。虎徹は今しがた見た映像を  払おうと頭を振って、前へ前へと群がる人波に逆行する形で来た道を戻りかけたが。 「ねえ、あれバーナビーじゃない?」 「は? ヒーローがこんな所にいる訳ないだろ。ただのそっくりさんだって」  すぐ近くにいた男女の会話に身体が動かなくなった。 (バニー、だって?)  勿論、バーナビーがこんな所にいる筈がないのは判っている。  よく見知った人物の名前を、不釣合いな場所で聞きとめてしまい、思わず足が止まっただけだ。  それでも、虎徹は自然と振り返って、光の中心へと向かう集団に混じった。不穏に逸る胸元を宥めたかったが行く道を作るのに必死で  急く気持ちに応じて強行に身体をめり込ませていく。 「っ……!?」  噛み潰した悲鳴。僅か漏れた音は喧騒に飲まれる。鳶色の瞳を見開いたまま、虎徹は前方から目が離せない。  淫らな情景の一部と化した円状のソファ、真正面に立つ虎徹から左側の場所でまぐわう男女のその向こう、着衣を乱した男に  圧し掛かる黒いコートの男――逞しくすらりとした長躯をもって男をソファとの間に挟み込み、拓かれた胸元に伸びる白い指を、知っている。  黒の帽子から伺える、持ち上がった口元の角度がいいなと思っていた。首元へ顔を寄せた拍子に、束ねられた豪奢な金髪から  垣間見えるうなじの色っぽさに、何度そそられたか。  すっと面を上げて、ゆっくりと振り向いた顔は深く被った帽子のせいで曖昧だった。  黒いサングラスに塗りつぶされている眼差しすら、見えないというのに――小さな頭を傾げる動作が、頭の中の彼と重なった。 『虎徹さん』  音もなく、黒コートの男は虎徹を呼んだ。ゆるりと、唇が綺麗な弧を描く。 (ああ……最悪、だ……)  悪い冗談だなんて笑える要素がどこにもない。乱れた場を見回して、この悪夢のような現状を打破するきっかけをいくら探しても、見当たらなかった。  だからこれは現実だ。受け入れ難い、そう思ってもここから連れ出してくれるものは、何もない。  込み上げる不快感と頭がぶっ壊れそうな酷い頭痛で立っているのも辛い。辛いのに、虎徹はぶるぶると震える頬が上がってゆくのを止められなかった。  ――冗談にしようとして失敗した今の自分は、どんな醜い表情で男を見つめているのだろう。  虎徹の眼差しを浴びながら、黒コートの男はまるで見せ付けるように相手を抱き締めて、下から伸ばされる腕に身を預けた。  笑っているのか細かく揺れる肩、尖った鼻先が茶褐色の髪を掻き分け耳朶を愛撫した果てに、目下の男が震えて弛緩した。  くたりとソファへ落ちた指先、そっと重なった白い掌の中に確かな感情が見えた気がした。 「っ……!」  身の奥から沸いた衝動のままに地面を蹴り、人にぶつかりながら現実から男から逃げ出した。  何も考えられない。ただがむしゃらに足と腕を動かして、この卑しい泥濘から一刻も早く立ち去ることしか頭になかった。  込み上げる訳の判らない感情を何度も飲み下し、それでも漏れるものは気が触れたような声の塊が奪ってゆく。  熱の渦巻く輪から飛び出した虎徹を迎えたのは、カウンター向こうでグラスを磨くバーテンダーだった。  虎徹の蒼白な顔を見て、無愛想な男の口元が大きく撓った。ぽっかりと開いた口腔の黒い穴に物狂わしい恐怖を掻き立てられ、すぐ側にある扉を開いた。  あと数メートル先の出口まで、持たなかった。                                                                                    ⇒続き

 

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