目隠遊戯【前編】





 乱暴にレストルームの扉を開いた虎徹は、真正面に位置した二つの個室、その右側へ飛び込んだ。  けたたましい音を立てながら後ろ手でドアを閉めて鍵を掛ける。閉ざしたドアに背中を預け、しかし立っていられなくてずるずると蹲った。  元はターコイズブルーだろうタイルの酷い汚れや、鼻をつく饐えた臭いを気にする余裕もなかった。 (っは……、みっともねーな……)  存在を押し隠すように大きな身体を丸めて判った。小刻みに震える身体、扉の向こうにまで届きそうな鼓動、コントロール出来ない呼気  今まさに額から顎へと流れた嫌な汗――まるで恐怖を体感したような自分の反応に、膝の狭間にある顔が笑いで歪んだ。 (……バニーちゃんに、殺されるわけじゃあるまいし……)  そう、バーナビーは唯一無二の相棒。命だって預けられる、信頼できる相棒だ。  何故、彼は下手な変装までしてこんな所にいるのか。何故、見知らぬ男を抱いていたのか。  湧き上がる疑問はとめどなく、どっと溢れては思考を食い散らかして、まともに考えることも出来なくなる。  どうにもならない感情をぶつけるように胸元をめちゃくちゃに掻き毟った。ここが痛くてたまらない。苦しくて、呼吸すらままならない。  いっそ止まってしまえばこの苦痛から逃れられるのに、いくら掻いても深爪気味の指先では皮膚どころか、衣服を破ることすら出来なかった。  そのうち丸い先っぽは力を失い、タイルの上に放り投げだされた。――ああ、あの時。このしどけない掌に、白い手が絡んでいた。  眼球に焼きついて離れないシーンから逃れるよう、虎徹は瞼を閉じた。されど、薄い膜の向こうで愛しげに身体を見下ろす男は消えてくれない。  そっと肌に触れる指先は労わりに溢れ、淫ら。愛を性を丹念に与え、縋りつく腕を振り払おうともしなかった。  相手の好きにさせて、長い腕で抱き寄せる。まるで犬がじゃれ付くように尖った鼻先で髪を掻きわけ、耳元で何事かを囁いた。  その瞬間、男の身体はびくりと撓り、一気に弛緩した。くたりと垂れた指先、沿うように絡んだ白い手に、確かな感情が見えた気がした。 (何で、俺じゃねーんだよ……)  自覚はあったが、それ以上の想いをこんな所で思い知らされるとは、考えもしなかった。  真紅のソファで横たわるのがもし、自分だったら。  衆人観衆の前で愛され、誰もが熱望するあの男を独り占めしている。嫉妬や羨望の眼差しは互いの興奮を高め、見せ付けるよう大胆に  身を寄せ合うのだろう。――あまりの身勝手さからいっそ吐き気を催すのに、浅ましい妄想は止まらない。  繰り返し頭を巡る忌々しいシーンを、塗り替えるように。 「……、……あんなの、バニーじゃねえ……」  渇いた言葉がレストルームに反響する。認めたくない現実を前に、虎徹はそう結論付けた。  幸いにも、今晩は飲み過ぎている。あれはアルコールが見せた悪夢、いやそもそも潔癖じみたバーナビーがこんな下劣な店にいるはずがない。  だって彼は仕事があると、今晩の誘いを断っていたではないか。あの男は他人の空似、きっと本物のバーナビーは自宅で休んでいるはずだ。  後で連絡してみればいい。疲れて寝ている所を起こすのは忍びないが、怒られたっていいから声を聞けば、相棒である自分が  彼を間違うはずなどないのだから。  のろのろと頭を上げた。もう、一秒だってここには居たくはない。  どうしたって笑ってしまう膝頭を両手で包みこみ、虎徹はゆっくりと立ち上がった。湿り気を帯びた臀部が不快でスラックスを  脱ぎ捨ててしまいたかったが、下着姿で帰宅する訳にもいかず堪えた。みっともなく震える指先で鍵を解除し、やけに重く感じるドアを手前に引いて――。   「……やっぱり、虎徹さんでしたか」 「……バニー……」  自分を呼ぶ声はあまりにも聞き慣れていて、反射的に彼を認めていた。   ただでさえ薄暗い個室の中。立ち塞がるように聳える逆光の彼は黒く塗りつぶされ、まるで影のようだった。                                                                                    ⇒続き

 

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