ピロートーク【後編】





 バーナビーは数箇所の打ち身を負っただけで、大きな怪我もなかった。  それもひとえにメカニックの斉藤が開発した、堅牢な檻よりも遥かに丈夫なヒーロースーツのおかげだろう。  勘違いをされがちだが能力を秘めたNEXTとはいえ普通の人間と毛一本ほどの違いしかなく、ナイフで切りつけられれば血は出るし  銃で急所を狙われれば命だって落す。着用者を怪我ひとつなく守り抜いたスーツと斉藤の力に、虎徹は心から感謝した。  あの爆発の瞬間、弾丸のように飛び込んできたバーナビーによって虎徹は外へ放り投げられ、空中で待機していたスカイハイに救われたのだという。  緻密な策を持ってスマートに事を運ぼうとするバーナビーが考えたとは思えない、何とも荒く危険な行為にスカイハイから事の顛末を  聞かされた時には、あまりの非現実さからつい笑ってしまった。だが、そんなバーナビーのお陰で虎徹も、少年も奇跡的に無傷で助かったのだ。  遊覧船に篭城していた犯人は全員逮捕。奪った金は船と共に海の藻屑と化したが、乗組員も抵抗した際に殴られた以外の怪我もなかった。  何より、シュテルンビルド湾を周航する遊覧船は客を降ろしたばかりで乗組員が点検していた最中に事件が勃発した為、人害が最小限に  押さえられたことは運が良かったと言ってもいい。消火栓に隠れていた少年は乗組員の一人息子で、犯人が船へ押し入って来た際に  父親が咄嗟に隠れるようにと言ったそうだ。その機転のお陰で犯人達に見つかることも、火に焼かれることもなかったのだと、父親と共に  礼をしにきた少年が涙の残る頬を丸くさせ誇らしげに笑った。無邪気な様に、虎徹もつられるように笑ったのはついさっきだった。  最後まで身を呈して救助を優先したバーナビーは爆風に巻き込まれるがまま宙を舞い海へ落下した。先のスーツのお陰で怪我も無く、自力で  泳いで海から這い出たバーナビーを迎えたのは虎徹よりも先に、インタビュアーと沢山のカメラだった。自分の身を擲ってまで被害者を  救い出した気概あるヒーローの言葉を真っ先に頂戴しようとするメディアが、男を中心にして円状に取り囲んでは我先にとマイクを差し出していた。  皆一様にヒーローの功績と勇気を褒めたたてバーナビーの無事を喜んでいた。頭ひとつ分は高い男が嫌な顔ひとつせず笑顔を振りまいて  丁寧に対応する様子を、虎徹は少し離れた場所から眺めていた。いつも通りな日常を前に、漸く息をつけた瞬間だった。  ちらりと目線をやった時計は、さっき確認してからまだ五分も経っていない。  能力が切れた身体でまともに爆発を食らった事もあり、駆けつけていた医師の勧めで簡単な検査を受けることになったバーナビーを  虎徹はトランスポーターで待っていた。ソファに腰掛け、アンダースーツの膝頭に置いた拳がぎゅっと握られては力を失う。  時を刻む時計の音に混じって、空気を揺らし開いたドアの音で顔を上げた。 「バニー!」  アンダースーツ姿で金髪を揺らし入って来た男に、ソファから立ち上がった。 「おじさん? まだ居たんですか」  意外そうに目を見開き、すぐに怪訝に染まる。 「おい、大丈夫か?」 「大丈夫ですよ。そもそもスーツを着ているんですから、大袈裟です」  うざったそうに眉を潜めたバーナビーが虎徹を素通りしようとした所で、胸倉を掴んだ。 「離して下さい」 「……お前、何で俺を庇ったんだよ」 「は?」 「あの時、何ですぐに逃げなかったんだ……」  震える声で、それでも最後まで言葉を吐き出した虎徹は、ぐっと胸倉を引き寄せた。  揺れる金髪の合間で輝くグリーンの瞳が迫る。 「俺だってヒーローだ! 別に、お前に助けられなくても」 「僕だってヒーローです! 僕から見れば、あなただって守るべき市民のいち一人だ!」  言葉尻に重なり強い剣幕で怒鳴ったバーナビーに、言葉をなくした虎徹の唇が震える。 「助けたいと思うことの、何が悪いんですか。あなただって逆の立場なら助けようとしたでしょう? バディを組んでまだ間もないですが  僕の知る鏑木虎徹は自分の身より他人を助けようとする人間だ」  「俺は」 「煩いな。気に入らないのなら言葉を変えます。あなたを助けたんじゃない。いち市民である子供を助けたかった。これで十分ですか」  鼻を鳴らしながら吐き捨てたバーナビーは、虎徹の手を振り払いそのまま背を向けた。 (……違う)  ヒーローとしてのプライドを守るために諍いをしたい訳じゃない。 (お前が、いなくなると思ったからだ)  払われた手がくたりと力を失う。バーナビーが虎徹を庇って爆発に巻き込まれたと知った時の絶望が胸を過ぎった。  会社命令とはいえ相棒として組んでからまだ何も成し遂げず、一人の人間としての付き合いもないままに、生意気な後輩との  噛み合わずいがみ合う毎日が、欲求のままに身体を重ねたひとときが、ピロートークに興じる優しい男が、恋縋る瞳が――  バーナビーという存在全てがたった一瞬で消えてしまうのが、怖かったのだ。  失ったと思った瞬間、虎徹の中で強く突き上げてきたのは悲しみと後悔だった。  けして長くはない時間、しかも喜びよりも腹立たしい事の方がウェイトを占めていたというのに、バーナビーは虎徹の中に居座り、  いつの間にか大切な物のなかに混じっていた事に気がついた。  それでも未だ答えは出ていない。男を想うだけで切なく捩れる心が存在していても、恋か愛かと問われれば、ノーと答えるだろう。  その先をゆくにはまだ決着がついていない。しかし、虎徹にとってバーナビーは大切な存在であることはもう確実だった。  遠く離れてゆく背中。一歩は重たく勇気のいるものだったが、チャンスはこれっきりだろう事は、判る。  幾度も握っては力なく広がる指先を、今度はしっかりと握り締める。後悔は一度きりでいい。  鳶色の瞳で背を捕らえた虎徹は、震えそうになる足を視線の先へ向かわせた。  苛立った足音を立てながら更衣室へ通じるドアへ向かう広い背を止められるのなら、何だってやってやる。  空気を揺らし開いたドアの前、虎徹は背中を捕まえた。背後から手を伸ばして逞しい身体に巻きつけると、肩口に頭を預ける。 「もう、あんな思いはさせんな」  男の動揺が肩を通じて、頭を揺らす。  唇から零れた小さな言葉に、バーナビーが足を止めた。 「おじ、さん?」 「お前、死ぬかと……」  バーナビーが振り返ろうとするのを頭で阻止をして、弱々しい呼気をアンダースーツ越しの肌にぶつける。 「お前な、心臓止まるかと思ったんだぞ……」  いくら触れても熱の伝わらないスーツ一枚の距離がもどかしいだなんて、どうして思ってしまうのか。 (喧嘩だっていくらで吹っかけてやるから)  もっと見て欲しい。触れて欲しい。身のうちから突き上がる欲求が、身体を拘束する腕の力を強くする。 「もう、すんなよ」  取り留めの無い独り言のような言葉が少しでも男の足止めになればいい。  指先から通り抜けた金の後ろ髪を、今度こそは掴み損ねることのないように。 「絶対すんな」  すんと鼻を鳴らせば微かに臭う、火薬の匂いが胸を揺らす。  助かって良かったという言葉を一番に言いたかった事を思い出した。 「おじさん」  静かに呼んで、バーナビーは虎徹の腕をスーツごとひと撫でした。 「僕は平気ですから」  頭上から落ちてきた声は未だ硬かった。 「平気です」 「……それ結果論だろ。次もそうじゃねえと限らないことを、言うな」  命の危機に直面したというのに、言い聞かせるように紡がれる冷静な言葉に苛立った。  ぐっと強く頭を押し付ければ痛いと抗議の声が上がったが、生きているという何よりもの証明に深く息をつく。  「おじさん。顔、上げてくれませんか」  懇願じみた言葉に戸惑ったのは一瞬だった。みっともなく歪んでいるだろう顔なんて見せたくはなかったが、既にみっともなく縋っている。  ゆっくりと顔を上げれば、バーナビーのグリーンの瞳と出合った。……やはり、自分の顔は泣きそうに歪んで、みっともなかった。 「……やっと、見てくれましたね」  柔らかい霧雨のように降り注ぐ眼差し――あの夕日の時にもあっただろう瞳が、虎徹を見つけてゆるりと細められた。 「バニー……」  名前を呼ぶので精一杯だった。こんな目を……恋縋る瞳がこんなにも綺麗だなんて、知らなかった。呼吸さえ奪いかねない苦しさが胸を締めにかかる。 「僕も同じ気持ちでしたから。逆の立場なら、そこにいるのは僕だった」  目線を合わせたまま、バーナビーが剥き出しの手の甲を撫でる。あやすようにそっと撫でる指先は久しぶりの感触だった。  少しだけ体温が低くて、優しいタッチのそれはまるで包み込まれているような安堵感を齎す不思議な手だ。  大分触れていない、滑らかで白い指先。そうして、自分のなかの飢えを知る。  バーナビーの部屋で海を見ながらのピロートークがもう大分昔のことのように思えた。  自分の中で巻き戻ってゆく時間は大した長さではないのに、早々に手の届かない場所にあるものだと思い込んでいた。  金の縁取りに彩られたグリーンの瞳、がむしゃらに抱いた後に汗が伝う様を見るのが好きだった整った鼻梁、触れれば柔らかで  でも男臭くシャープな頬――優しい男、バーナビーは一切の変わりなく、ここにいる。自分の前で、自らの足で立っている。  気がついた時には顔を寄せていた。頬に当たる眼鏡の冷たいフレームがかちりと鳴り、持ち主の代わりに非難しているかのようだった。  閉じた瞼の先でバーナビーがどんな顔をしているのかは判らない。重なる唇が息を呑み震えるから、多分、これが彼の心情だ。 「……なんで、こんなときにしちまいたくなるんだか……」  苦笑して唇を離した虎徹は、顔に容赦なく注がれる視線から逃れるように再び肩口へ頭を預けた。  バーナビーは黙っていた。虎徹をそのままにして、手の甲を撫でてくる。 「……僕は、やっぱりあなたが好きみたいです」   深い呼気と共に告げられたのは、あの晩口にしなかった言葉の続きだった。一度言葉を切ったバーナビーが、すっと息を吸う気配。 「頭で考えてどうにもならない問題に、僕も戸惑いました。あなたを想うだけで言葉が出てきそうになる。それを堪えるのに必死でした。  少なくとも、僕にとってのあの時間は真実です。あなたは認めたがらないけれど、僕にとっては確かな感情なんです」 「バニー……」 「これは、あなたにとってどういった感情ですか? あなたを困らせると判っていながら気持ちを押し付ける僕は、優しい男じゃないでしょう?」  虎徹を想い、まだ優しい男でいようするバーナビーのいじらしさが憎い。  触れている身体が、落ちた視線の先にある膝が細かく震えていることに気がついてしまったら、元より逃げる気はないものの  後に引けない思いを一層強くさせる。  そっと腕を外されて、向き合う形にさせるバーナビーに従い、虎徹は真正面からグリーンの瞳と対峙する。 「もう逃げられないから、改めて告白します。僕は、あなたが好きです」  真摯な言葉が、透徹な眼差しが虎徹の耳から瞳から心の奥深くまで入り込んでは掻き回していく。虎徹の全てを揺らして荒らしては  心を変えようと内に存在を刻もうと切り付け引っ掻いて暴れ回る。激しく切り付けながらも、まるで深く抱こうとする優しさまで滲んでいて  自らが切り裂いた傷を舐めるような矛盾した感情――嫌悪がないのは、男の想いが真摯だからだ。痛いのは、虎徹もまた本気で考えているからだろう。  本気に触れれば、互いに無傷では済まないものなのだと、虎徹はぐちゃぐちゃになる心を守るように手を添えた。  アンダースーツの下にある心臓がバーナビーによって荒らされ苦しい。 「……正直、な。俺はお前とどうなりたいかなんて判らないし、お前に対する気持ちもよく判らないんだ。俺には守るものが沢山あって」  衝動的に交わしたキスだって、どんな感情が付随しているのか、自分の事なのに判らない。  その理不尽さが恋だ愛だなどと世間は言っても、虎徹は認めない。自分が納得していないことをバーナビーに返すのは、不義理でしかない。  ただ、失いたくないと思った。これを言葉にするだけでは足りない気がして、虎徹は伝えきれない気持ちに苦しむ。  はくはくと喘ぐように口を開く虎徹に、バーナビーは静かな眼差しを注ぐだけでけして無理強いはしない。躊躇いすらも愛しいと言わんばかりの  柔い瞳のせいで、虎徹の心臓がまたざわめきを増した。 「……でも、な。お前もその中に入ってるんだよ。意味わかんねーだろ? だから、お前とのバディを解消したり……離れるのは、勘弁だ」  ぐっと一歩を踏み出して男の垂れた両手を掴み、抱き締める代わりに強く握った。  何度となく触れてきた指先が視界の先でぶれる。震えるのはどちらの指か、それとも両方か。 「それだけじゃ、駄目か? これが今の俺が出せる真実だ……バーナビー」  真っ直ぐに見つめた先、バーナビーは瞠った瞳で見返して、いきなりくしゃりと笑った。  今まで見たことのない年相応な青年の顔で笑うから、虎徹は思わずまじまじと見つめてしまった。自分よりも背が高くガタイもいい男に  対して可愛いだなんて思ってしまう自分が恐ろしい。手を握っていなければ、きっと揺れる金髪を存分に撫で回していたに違いない。 「……ずっと見たいと思っていたあなたの心を知ることが出来たから、十分過ぎるくらい、です」  笑顔をそのままに、虎徹の言葉を噛み締めるように受け取ったバーナビーと見詰め合って、どちらからともなく顔を寄せ合った。  柔らかく乾いた感触が重なり、同じ熱であることを知る。二度目のキスは少しだけ味わう余裕があり、でも心だけは余裕なく  荒れ狂っていたから、長く触れていればきっと呼吸を忘れて飲み込まれてしまうだろう。  未だキスの意味なんて判らない。それは呼吸のように自然なものだった。  助かって良かった、口付けが解けると共に滑らかに口をついて出た言葉に、バーナビーはヒーローの顔をして笑った。                                                                                    ⇒続き

 

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