ピロートーク【後編】





 私服に着替えトランスポーターを降りれば、夕日が二人を出迎えてくれた。  全ての色を容赦なく一掃し赤で塗り替える、いっそ暴力的な景色に美しさを覚えた虎徹はしばし地平線から目が離せなかった。  アポロンメディアまで送ると言ってくれた斉藤に断りを入れて二人が向かった場所は、事件現場ともなったシュテルン湾だった。  少し前までは数多の人間が入り乱れ緊迫感で満ちていたこの場所も今は誰もいない。夜も間近に迫った時間帯ゆえか、事件現場の  検証に当たっていた警察も必要最低限で済ませ残りは明日に持ち越すのだと、先程アニエスから連絡があった。事件が事件だけに思うように  中継出来なかった本件に対して視聴率命な女史の表情は芳しくなかったが、目敏い瞳が二人の顔を一瞥した後、引き結ばれた唇が緩んだ。  ヒーローを労う言葉を残して、それでも次回こそ頼むからときっぱりと言い放った彼女のらしい様相にはバーナビーと苦笑するしかなかった。  地平線の手前、遊覧船だった残骸がなければまるで事件があったようには思えない、潮騒だけが支配する静かな場所を眺めた虎徹は  すんと胸いっぱいに空気を取り込んで身体中が潮の香りで満ちる心地を味わう。充実感余りある身体には冷えた海風すら心地よく思えて  ハンチングを脱ぎばらばらと髪を揺らす風の好きにさせ鉄柵の側まで足を向けた。  バーナビーも異論はないのか、ブーツの踵を鳴らしながら黙って後を着いて来る。  少し前にも、こうして二人で海を見た。あの時は景観を楽しむ余裕なんてなかったが、恋人同士がロマンティックな一時を求めて  訪れるのも判るほど美しい場所だった。海が見たいと言った晩に、ここは海じゃないと言い捨てたことを内心で撤回する。  鉄柵に腕を絡めて、海を見つめる。――それでも、あの青の美しさには敵わないと、思うのだ。 「バニー、海が見たい。せっかく明日は二人揃って休みなんだ、海見に行こうぜ」  くるり振り返り、策に背を預けた虎徹はバーナビーへ歯を見せる。 「はあ? 駄目ですよ。いくら休日とはいえ、遠出なんてすれば出動要請が」  真面目くさった顔で眼鏡のブリッジを押し上げ、呆れたように溜息を吐く男の鼻先へ、人差し指をつきつける。 「だから、バニーんちに行くんだよ。……また海、見せてくれよ」  瞠った瞳が、眼鏡越しに細められる。  夕日を浴びて色を変える眼差しがどこか淫靡で、虎徹は知らず呼吸が浅くなった。 「……仕方ありませんね。あなたが言うなら仕方ないな」 「嬉しい癖に。来いって素直に言えよ」 「嫌です。……僕は、もう先に言ったでしょう?」  策に手を掛けたバーナビーが腕に虎徹を閉じ込めて、顔を寄せてくる。驚くほどに違和感がない動作。  心は決めかねているのに、身体はすんなりと次に取るべき行動を知っている。  レンズに映り込む自分の顔がバーナビーが向けてくる表情と一緒だったから、虎徹は身体に従って唇を受け止めようと僅か顔を傾けた。  形のよい唇が落ちてくる。柔らかくて体温が低いのにそこだけは熱い、確信をもった唇はじれったい程にゆっくりで、覚悟を決めるには早く。  ほう、とどこかうっとりとした調子の吐息が唇に触れて――。 「……やっぱり、出来ません」 「……はあ?」  ぽつりと漏れた言葉に、虎徹は突拍子もない声を上げる。 「だって、あなたは僕の事を好きじゃないでしょう?」 「え、え、え?」  さっきしたんじゃ? という言葉を挟む間もないまま、眼鏡越しの瞳が優しく細められる。 「もう一度、初めからやり直したいんです。その価値は十分にあると思うから」 「バニー」  真っ直ぐな瞳が、虎徹のそれを捉える。 「もし、あなたが僕に心をくれると思った時には、あなたからキスをして下さい」  ここまで待ったんだから、待てます……あなたが欲しいと恋縋る目をしながらも真面目に言ってのける男に、虎徹は何でハンチングを  脱いでしまったのか、深く後悔した。遠い昔に置いてきた青い春を思わせるようなこの場面、居たたまれなさが、たまらない。 「だーっ! お前、恥ずかしいっつの!」  その場で蹲りたいのをぐっと堪えて、虎徹は目の前の胸を押した。  難なく受け止めたバーナビーは堪えることなく笑って、虎徹が手にしていたハンチングを奪い取り定位置に乗せた。  帽子越しに頭を撫でるように辿る指先があまりにも優しくどこか寂しげで、それでも鍔の間から覗き見た唇には笑みが添えられていた。 「……くそっ、あの海見ながら、お前の家で酒飲ませろ!」 「全く、飲みすぎないで下さいよ」  肩を竦めて見せるバーナビーの中にある、夕陽にちりつくグリーンの瞳。  それは虎徹が今まで見てきたどの海よりも澄んで、綺麗な水面を湛えていた。生命力に溢れ煌く水面に重なる想いが男をより魅力的にしていた。  行きますよと急かすバーナビーの背を、一歩遅れて虎徹は追った。肩を並べて歩く男の完璧なラインを描く横顔を盗み見る。  燃えるような赤い陽を浴びて尚も男は男で、赤に取り込まれることなく存在している。  きっとどこに居たって、虎徹はバーナビーを見つけることが出来る。漠然とした確信が、胸を引っ掻いた。 「……お前は優しすぎるよ」  どこまでも虎徹のことを考え、本当は余裕なんてない癖に急ぐことなく共に歩もうとしてくれる。バーナビーは、優しい男だった。 「今頃気が付いたんですか? でも」  物欲しそうな顔をしているあなたに気がつきながらもキスをしない僕は、意地の悪い男でしょう?  海風に乗って届いたささやきに、虎徹は今が夕方であることに感謝した。  十は年下の男に真っ赤な顔を見せるのは、既に醜態を晒しまくってるとはいえ流石に許しがたいという、大人の男のちっぽけな矜持を  忘れてはいなかったので。ハンチングを直す振りをして顔を隠して、虎徹はぶすっと唇を尖らせた。 「……若いって怖ええ」 「僕はしつこいですよ。諦めて下さい、おじさん」  すっと差し出された手を握る事無く、打ち鳴らすように叩いてバーナビーの一歩先へ進んだ。  触れた掌が熱い。それに色があるとしたら、間もなく地平線の彼方へ飲み込まれる夕日よりも濃く鮮やかな色だろう。  すぐに隣に並んだ男の脇で揺れる手の甲を軽くつついてやれば、仕返しだとばかりに左手を強く握られた。  鼻で笑う男の好きにさせた虎徹は、二人を見送るために留まっているかのような陽を横目に、輝き始めたシュテルンビルドの  洪水の中へ足を踏み入れてゆく。今日も明日も明後日も、今はまだ想像できない未来まで詰まった、我等が守るべき街へ。 (その頃には、自他共に認める名物バディにでもなってりゃいーな)  これからも沢山の喧嘩が待っているのだろう。幾度も衝突して怒鳴りあって、でも時々こうして笑い合えればいい。  この手があれば、自らの思う真実へ迷う事無くゆける気がする。どんな大波に浚われても繋ぐ手があれば、何度だって目指せる。 「もう少しだけ、待ってくれよ……」   返事の代わりに力強く絡んできた指先へ、同じ力を返して。   かけがえのない時を重ねたその先で待つだろうピロートークは、息さえ忘れて溺れる予感が、した。                                                                          「ピロートーク」H24.3.9

 

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