ピロートーク【後編】





 身体中にこびりついている生々しい体液を熱い湯で流し、バスタオルでおざなりに水気を拭きあげる。  バスルームを出ると同時に流れ出る湯気を蛇腹のドアで食い止めた虎徹は、洗面所に設置された鏡の前で身体を眺めた。  逞しい体躯を覆う褐色の肌にはどこを見ても朱が散らばっている。今宵のセックスの激しさを物語っているかのような情痕は、  互いに明日が休日ということもあって容赦が無かった。触れられた事に気がつかなかった場所にも痕を見つけてしまい、思わず溜息が  漏れた表情は我ながら情けなく、疲労が色濃いものだった。だるい四肢を叱咤し、新しい下着に足を通してゆく。  とうに日付を跨ぎ、夜の気配が色濃い時間帯。眠らない街シュテルンビルドの煌びやかな光の洪水の一角、ブロンズステージに  虎徹のアパートがあった。三層から成り立つ都市の最下層に位置するブロンズでも比較的治安の恵まれた区画だからか、夜間ともなれば  昼間の喧騒もなりを潜め辺りはひっそりと静まり返りっている。  照明のない静謐なリビングを滑るように横切って、ロフトへと続く階段に足を掛けた。極力足音を立てぬよう気を払いながら、  一歩また一歩と惰性で足を動かした先――開けゆく視界の中、床に散らばる衣類や雑誌、物が山積しているサイドテーブルよりも  真っ先に目に飛び込んできたのは、ベッドに横たわる男の横顔だった。  ブラインドの隙間から零れる街灯の光で浮き彫りになる整ったライン。陶器のように滑らかな白い肌は自ら発光しているかのような  輝きを放ち、シーツに広がる蜜がかった金色の髪が一層美貌を際立たせている。どこから見ても、いつ見ても隙のない相貌に  虎徹は改めて男の魅力を思い知らされ、無意識のうちに見蕩れていた自分に苦笑した。  健やかな寝息とゆっくりと盛り上がっては沈むブランケットから、ベッドで仰向けに眠る男が熟睡しているのが見て取れて、  最後の一歩と踏みしめた床がぎしっと盛大に軋んだ。 「ぐっすり眠りやがって……」  手にしていたタオルを無造作に放り投げた虎徹はそっとベッドの縁に腰かけた。  微かに響くスプリングにゆっくりと体重を掛けていきながら、眠る男を覗き込む。  さっきまで虎徹だけを見つめていたグリーンの瞳は長い睫が縁取る瞼に隠され、あなたと甘く呼んでいた唇は呼吸の為に薄く開かれている。  僅かに覗く赤い舌はぴくりともせず、ただ存在しているだけで――そこにいるのは紛れもないバーナビーだった。  虎徹を抱き、ピロートークに興じていた優しい男の姿は、跡形もない。  喧嘩の果てに始まった肉体関係は、バーナビーが心に秘めていた感情を露にしたあの晩以降も続いていた。  昼間は喧嘩ばかりの相容れない相棒、夜はまるで恋人同士のように戯れる様も変わらなかった。欲求には素直に従い、同じ性を持つ  身体を食らい果てる軽薄な行為に、二人は未だ溺れていた。  しかし、ひとつだけ変わったことがある。ふとした時に、バーナビーの無防備な視線、恋縋り求める瞳がちらりと現われるようになった。  確かな感情をグリーンの瞳に乗せて虎徹を見つめてくるのは、セックスの最中、ピロートークの合間に限らず、日常にまで及んでいた。  何気なく重なった視線の中に、いつものように言い争いをして苛立ちの残る表情の中に……一滴の違和感がどろんと侵食していた。  ゆらゆらと浮いては沈む感情を男も持て余しているのだろう。時にしけた海を連想させる危うい激しさを言葉なくぶつけてきた。  色事には手馴れている癖に、感情ひとつをコントロール出来ない不器用さがグリーンの水面に波紋を描くたび、虎徹の肌をちりと焼いた。  何の意味もなかった行為から男なりに出した答えと同じものを、虎徹は持ち合わせていなかった。  軽薄な行為だと思っていたが故に、互いの温度差を見せ付けられると苦しくて仕方が無い。どうしたって、自分には受け止めきれないのだ。  生きてきた年数、命を賭してまで守りたい家族に亡き妻との約束、仕事という言葉以上に大切な使命をこの身体で担っている。  受け入れる余裕などないに等しいし、それ以前に、バーナビーから吐露された感情は思いもしなかった色合いで困惑の方が強かった。  だが、受け止めきれないとは思いながらも、嬉しくない、とまでは思わなかった。  幾度も眼差しを受け止めてきて、男の感情は嘘偽りのない真摯なものであることに気がついたからだ。  だからこそ、無視することも茶化すことも出来ず、真正面から注がれる瞳をそのまま受け止めるしか術がなかった。 (もし、俺が女だったら)  あの柔らかな身体を持っていれば、また違った形で男を受け止め癒すことも出来ただろう。  そんな途方もないことを考えてしまうくらい、虎徹の手に余る現実。将来有望な若者を傷つけぬように感情をかわし、  一時の気の迷いだと真っ当な道へ背を押すような方法を、長い人生を振り返ったとて思い当たらない。 「……お前は、どうしたいんだよ」  柔らかな前髪を掻きあげ、白い額に自らのそれを重ねた。  ひんやりとした肌に熱を分け与えるように擦り合わせれば、じわりと、熱を上げたのは虎徹のほうだった。  胎内でくすぶる熱の在処から目を逸らし、鼻先にキスを落してから顔を上げる。 「俺は、どうしたらいい……」  眠っているのをいいことに、バーナビーにまでこんな事をしてしまう自分も、どうかしている。  けして男にはぶつけられない、日常には出せない戸惑いという澱を交えて吐き出した。まっすぐに視線を寄越し、ぶつかってきた男に比べて  ズルいのは承知している。しかし、抱えるものが多すぎる虎徹にとっては安易に答えを出せる問題ではなかった。  男に触れる嫌悪感なんてないから、更にややこしい形になっているのも自覚している。  どこで道を違えたのだろう。始まりに意味などなかったはずなのに、どうして胸が苦しいのか。 (海、か……)  バーナビーの寝室で見た青が恋しいと思った。瞼を閉じるだけで浮かび上がる深いブルーグリーン。  全てを飲み込み浚い、いちから始めることが出来れば、この関係もまた違ったものになるかもしれない。  無意識に触れていたバーナビーの唇、端整な形を辿る自分の指先は名残惜しげで、熱を強請るような甘さがあった。  あれからセックスの最中ですらキスはしていない。浅ましい身体から目を逸らすように腕時計で時間を確認した虎徹はブランケットの端を掴み、  バーナビーの隣に身体を横たえた。そのまま男の身体から背を向け、目を閉じる。  仕事とセックスに溺れた身体は意識していた以上に疲労困憊で、呼吸するたびにベッドへ深く沈み込んでいくようだった。 「……僕だって知りたい。……苦しいのに、あなたを抱きたくてたまらない」  境界を失いとろけゆく意識のなか、眠りの淵から引き上げるようとする囁きが背に触れた。 「……」  もう、会話はおろか瞼すら開けられない虎徹は、ただ言葉を聞いていた。 「触れるだけではもう、満たされないのに……それでも、あなたが……、が」  名前だけは耳にしたくないと、聞くことを放棄した意識があっけなく快い安寧へと向かっていく。  ベッドのなかほど、楽な場所はなかった。  ただひとつの欲求だけを追及し上り詰めて全てを吐き出す。身も世も忘れるようなセックスが今はもう、ただ苦しい。  背に触れる甘い吐息をかわして、少しでも長くこの関係を続けようと思う気持ちの根本には、何があるのだろう――  苦い想いは、遠い昔に味わった切ない痛みによく似ていた。 (抱えきれない癖に、なあ……)  綻びには気付いている。矛盾なんてとうに手の中だ。  次はバーナビーから誘いがかかるのだろう。虎徹の答えは、ただひとつだけ。  そっけなさを装った『イエス』。それが、曖昧な二人の日常だった。                                                                                   ⇒続き

 

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