ピロートーク【前編】





 照明を落したベッドルームには、ミッドナイトに相応しい闇で満ちていた。  天井に向けてだらり伸ばした指先すら捉えられない、濃密でとろりとした闇にずぶずぶと埋もれていくような感覚が、満ち足りた身体に恐怖心を植えつける。  それはどうってことのない、たったひとかけらの違和感。  しかし身も世も忘れるようなセックスの後には、大きく受け止めきれないものとして、身体は異物感を訴える。  こういう時は隣に横たわる、少しばかり低い体温の持ち主に擦り寄るのが虎徹の常だった。 「まだ、足りない?」  闇の奥から掠れ声で伺い立てるのは、この部屋の主であり相棒のバーナビーだ。  後処理を済ませてベッドに潜り込んでしばらく、規則正しい呼吸以外、身じろぎすらしなかったから眠ったとばかり思っていた。  熱情の名残りある身体を寄せたせいで行為の催促だと勘違いした男が、こちらへ顔を向ける気配がした。 「いや、もう勘弁」  心底疲れてんだわ、そう返せば僕もですという同意の声が間髪入れずに返ってきた。  若いだけあって何時までも付き合わせようとする男にしては珍しいなと思ったが、今日は通常の事務処理に加え取材が一件、出動要請が二度も  入ったうえでセックスへ雪崩れ込んでいる。体力気力十分な若者も流石に堪えたのだろう。  はふ、となんとも可愛らしいあくびが、腕に張り付く虎徹の前髪を揺らした。  バーナビーとのセックスは若さがある分、激しくて長い。挿入に至る前、しつこい愛撫で余すことなく身体に触れてくるから前戯の段階で  互いに二度は射精するし、挿入後も何度となく抱かれて数えることを失念するほど絶頂を迎える。最後のほうは水っぽい精液しか出ないことも  しょっちゅうのハードな行為を週に二回は求めてくるから、若さほど怖いものはない。  今晩も例に漏れず激しいセックスをこなしたせいで尻の内部が未だじゅくじゅくと濡れ疼いているような気さえするし、高々と  上げていた腰が痛くてたまらない。幸い乱暴に抱くことはしないから身体に傷ひとつないが、もう心身ともに限界で、事後のシャワーすら  バーナビーの手伝いなくしては浴びることが出来なかった。 (でも、眠れないんだよなあ……)  頭を預ける枕のふんわりとした柔らかさ、大の男二人を受け止めてなお余裕ある大きなベッドは寝心地抜群、替えたばかりで  フローラルの香りがする清潔なシーツ、離れがたいぬくもりの人肌。加えて酷い倦怠感と眠気だってある。  すぐさま入眠できる要素は十分すぎるほど。しかし、一向に眠れなかった。 「じゃあ、眠れない?」 「もしかして起こしたか」  眠れないからと寝返りを打ってばかりいた虎徹は、今更ながらにベッドを共にする男に対しての気遣いの無さを詫びた。  大丈夫です、返ってきた言葉に苛立ちはなく、むしろ労わりに溢れていて知らず肩に入っていた力を抜いた。 「……僕も。疲れてるんですけど、眠れない」  スプリングを鳴らしながら身体ごとこちらへ振り返ったのが、より近づいた体温で判る。  動いた拍子に洗いたての少し湿った金髪が頬をくすぐり、虎徹は目を細めた。  細い猫っ毛のふわふわとした金髪は日頃から手入れが行き届いているだけあって実に触り心地がよく、言葉にしたことはないが  密かに気に入っている部位のひとつだ。セックスの時くらいにしか触れられないそれをたっぷりかき乱してやれば、行為後には  鳥の巣のようにぐしゃぐしゃで、でもそれが妙に色っぽいから笑ったことは一度だってない。ハンサムな男はどんなに乱れても様になる。  互いの呼気が触れるほどの距離にいても、バーナビーの表情は黒く掠れてよく見えなかった。  熱情を交し合っていた際に潤み媚光を孕んでいたグリーンの瞳は今、どこを見つめているのか。  普段ならば気にならないことも眠れないだけで気にかかり、余計に眠気から遠ざかっていく。  会社命令で組まされたパートナーに、未だ互いの納得はない。  口を開けばおじさんやら古いやらと、もう聞き飽きた台詞を容赦なく飛ばしてくる男とどうしたって上手くいった試しはなく、衝突は日常茶飯事。  ここの所大きなトラブルはないが細かいミスが目立つと、二人の上司であるロイズから説教されることもしばしば。  笑みを交し合うのは取材の最中のみ。売り言葉に買い言葉で言い争い、年上だから折れてやろうなんて気にすらならない憎たらしい後輩である  バーナビーの事は、筆舌に尽くしがたいほど腹が立って仕方なかった。  自他共に認める最低最悪なバディが、何故身体の関係を持つようになったのか。  張本人である虎徹ですら答えを教えて貰いたい問題だった。  もう幾度となく抱き合っているものの、頭で理解出来るような答えを未だ持ち合わせていなかった。  敢えて言葉にするなら身体が引き寄せるから、なんてふざけた理由で虎徹はセックスしている。  きっかけとなったのはいつもと変わらない喧嘩だ。ミスを連発しながらも無事犯人逮捕、ポイントもゲットしたが、連携が上手くいっていないと  ロイズに渋い顔で説教された後のトランスポーターで、虎徹は初めてバーナビーと関係を持った。  ロイズが帰宅し二人きりになった途端、勃発した喧嘩の果てにアンダースーツ姿のまま迫ってきたバーナビーに突然壁に押し付けられ、  事態を把握できぬまま唇を塞がれた。情を介し性感を高めようという接触ではなく、平行線を辿る言い合いに辟易していると言わんばかりの  不快感を纏った表情が癇に触った。何でキスという手段を持って鎮圧にかかるのか、男の思考回路が全く解せず振り払おうともがき  怒鳴るつもりで唇を緩めた瞬間、言葉を乗せた舌先が男のそれに絡め捕られてしまった。  キスが思いのほか心地よい――互いの舌先が不恰好ながら重なり、襲われた刺激は今でも忘れられないくらい衝撃的だった。  薄い唇はとにかく柔らかくてすべすべで、舌先は肉厚で熱く、虎徹の口腔を知り尽くしているかのように大胆に嘗め回すかと思えば  優しく撫でてきて、注ぎ込まれる唾液が果汁のように甘くて啜ってしまうほどに、何故かしっくり来てしまった。  それは相手も同じだったのか、開きぱなしだった瞳が驚愕に見開かれていた。  腹立たしい男とキスしているのに嫌悪感なんてなく、ひたすらに気持ちが良くて。ただでさえ事件収拾後は身体が昂ぶりがちで  クールダウンを兼ねシャワー室で抜くことだってあるのに、キスひとつでその先の熱へ繋がってしまうのに時間は掛からなかった。  そして、互いにそれを求めていること、止めるという選択肢がないことを、重ねあう舌先と瞳で知った。  何でこういう時に意見が合ってしまうんだか、苦虫を噛み潰したような顔で組み敷く男と同じ顔を浮かべて、虎徹は  アンダースーツに包まれた背中へ腕を回した。  男同士であるとか、仕事仲間であるとか、そういう当たり前な戸惑いもなかったと虎徹は記憶している。  愛のない接触なんてデメリットしかなく、非生産的な関係を非合理だと言いそうなバーナビーでさえ手を止めず、二人とも最初から  当たり前のような顔でアナルセックスに挑み、極め――何度となく、続けている。  それからは「今晩空いてるか?」と予定を伺うのがセックスへの誘い文句で、頷けば交渉成立となる。  虎徹から誘いをかけることもあれば、バーナビーから声を掛けてくることもある。声を掛けた者の家へ赴くことが当初から暗黙のルールで、  ドアを開いたと同時にセックスは始まる。会話も食事もすっ飛ばして、争うように互いの身体に触れ口付けながらベッドへ直行するのが  お決まりのパターン。荒々しい熱情を込めた吐息、みっともない喘ぎ声、肉打つ音に潤滑ジェルの生々しい音――それだけが最中に  許される音で、漸くの会話は行為後から始まる。  最中はほぼ無言を貫いてはいるが、事後のバーナビーは驚くほどに優しかった。  おじさんと皮肉に呼んでいた生意気な後輩面はなりを潜め、あなたと呼ぶ声は掠れて甘い。触れてくる指先は無理をした身体にとっては  くすぐったいほどに柔らかく、熱っぽさの残る瞳で調子を伺う表情は恋人に対するかのよう。  まるで女にでもなったような心地だった。こんな四十路前のヒゲ生やしたオッサンを可愛がるなんて有り得ないだろうと、  薄ら寒い行為はいまだに慣れない。散々嫌だやめろと言っても相手にされないので、やりとりに飽きた最近では百歩譲って好きにさせている。  巧みに虎徹の身体に触れ快楽をコントロールする手管から伺えるように、バーナビーは色事に手馴れていた。  その手腕と優しさが身に着くまで、どれほどの女を抱いてきたのか――見えぬ女の影が気に掛かるくらいには、男に対しての興味はあると思う。    恋か愛かと問われればノーと答え、今晩空いているかと誘われれば、用事がない限りはイエスと答える。  ただの性欲処理、苛立ちの鬱憤晴らし、度の過ぎたコミュニケーション……思い浮ぶだけの理由をあげてみたがどれも合致するには至らなかった。  中身なんて一切ない。人間的な思考の外にある、そんな爛れた軽薄な関係。――それでいいじゃないかと深く考えることを放棄して、  身体の欲求を肯定することにした。まさかこの歳でバックバージンを失うことになろうとは思わなかったが、得られる快楽は悪くない。  バーナビーには一度だって尋ねたことはないが、悪い気などしていないことは繰り返し抱こうとする様子から伺える。  虎徹よりも複雑かつ繊細に出来ている後輩はどう自分と折り合いをつけて夜を共にしているのか、いくら触れてもはっきりと掴めたことはなかった。 「でも、セックスはする気ないですよね」  考え事に耽っていた虎徹を、バーナビーの声が呼び戻す。 「もう無理。これ以上したら明日出勤できない自信があるし、とにかくケツがいてえ」 「色気ないな……では、何かアルコールでも飲みます?」 「おじさんにんなもん期待すんなっての。酒はむしろ眠りが浅くなるからしんどい」 「同意します。……じゃあ、どうします」 「このまま寝るしかないだろ」  しばし無言の時が流れ。 「……眠れます?」 「……眠れません」  二人同時に溜息が漏れた。寝ようと思って眠れるなら、明日の為にもとっくに夢の中だ。  不意に身体をくるむシーツを揺らしたバーナビーが枕元で何かを探し始めた。  シーツを何度も引っかいた後、目当てのものを見つけたのかカチ、というスイッチを押す小さな音ともに、暗闇が薄れていく。  室内がぼんやりとした淡く青い光のゆらめきで満ちた。ゆっくりと波のように満ちては引いていく明かりは、こちらの眠気を  妨げるような明度ではない。控えめな輝きは部屋の片隅から放たれ、こちらへ向かってなだらかに暗くなり、美しいグラデーションを描いている。 「すっげえなぁ……」  男が拘っているといつかの取材で言っていた間接照明だろう。  光の元を辿れば、円筒形の間接照明が穏やかな青い光をもってゆったりと煌いている。  まるで自分が深海に漂う魚にでもなったかのような気分だった。無駄な調度品のない、殺風景な部屋だからこそ日常と剥離した不可思議な空間が  目の前に広がっている。虎徹は素直に感嘆の息を漏らし、満ちる青の光に釘付けとなった。 「海みたい、でしょう」  唇を緩めたバーナビーの逞しい腕が、枕と虎徹の首の間に差し込まれ肩を引き寄せてくる。  眠れない時はいつもこうしてるんです、耳朶を噛むような囁きに、男が抱く背景が頭を過ぎって胸がしくりと締め付けられた。  何かを口にしようと咄嗟に唇を動かした虎徹はしかし、結局は吐息すら出なかった。何かを望んで口にしている訳でなく、  事実を淡々と述べただけの相手に言葉は必要ないだろう。いくら今が事後とはいえ、基本的に馴れ合いを好む男ではないことを、  短い付き合いながら熟知しているつもりだ。 「そういや、海なんてだいぶ行ってねーなあ」 「すぐ近くに海があるのに?」 「あんなのじゃねーんだよ、海はもっとこう、ほらあれだ」 「あなたの頭の中が見える訳じゃないんだから、もっと具体的に話してください」  苦笑しながら腕枕をしているほうの指先が、顎鬚をくすぐってくる。 「でも、言いたいことは判ります。……今度、行きますか? 僕も、海なんて長いこと行ってないので」  覗き込んでくるバーナビーの薄く水の張られた瞳、ブルーのひと刷毛を得たグリーンの色合いが唐突に眠っていた記憶を浮上させた。  虎徹が幼い頃に友人から貰ったポストカード、稚拙な文字で家族と外国へ旅行中だと書かれたそれを裏返せば、海の写真が目に飛び込んできた。  晴天の下、白くきめ細かな砂浜から臨むコバルトブルーの海は、オリエンタルタウンから一歩も出たことのない虎徹にとって、  初めて見た遠い外国の海だった。深度の違いで色を変える海は青といっても何色も塗り重ねられたような緻密な色で、透けて見える珊瑚礁には  色鮮やかな魚達が群がっているんだろうなと想像もした。子供心にも美しさに胸打たれ、兄の村正や母親に自慢したものだ――  手にした時の感情まで蘇り、虎徹の唇は自然と弧を描いた。 「そんなに嬉しいんですか?」  約束が嬉しいのかと、意外そうに瞳を見開くバーナビーに間違いを指摘することなくくしゃりと笑ってみせる。 「いーだろ、別に! ガキみてえとか言うな」 「言ってないですから。怒らないでください」  所詮、今晩限りの約束だ。多分、持ちかけた本人だって守るつもりなどないはずだ。  真偽はどうでもいい。ただのピロートークのひとつなら、楽しいほうがいいに決まっている。 「……あなたの瞳は、深い海の底のようだ」  暗くて、でも堆積された底に宝物がありそうで探したいけど、どうしても犯しがたい領域があって、踏み込めないでいる――  覗き込んできたバーナビーの思わぬ真摯な眼差しが、青の光を伴い深く深く胸に食い込んできた。  呼吸すら奪いかねない真っ直ぐな視線に一瞬息が止まる。  心を踏み荒らすような無体な真似をしようものなら、跳ね除けることも出来たのに。裡を知ろうとする眼差しはけして乱暴ではなかった。  行き交う視線のなかで、バーナビーはバーナビーなりにこの関係について、虎徹よりも考えていることを初めて知った。  見なくても身体の作りをぱっと思い出せるくらい触れていて、普段はおじさんと馬鹿にするくせに事後は言葉も接し方も豹変し  ベタベタに甘い男と、居たたまれない気持を持て余しながら甘受し時には甘えてみせる自分。  しかし明日になれば熱烈に口付け愛撫した唇が「おじさん」と皮肉と苛立ちを込めて呼び、後輩の生意気で人を人と思わない  見下した態度に腹を立てて怒鳴る、普段のバディに逆戻りで。  身体は深く繋がったって前進も後退もない、初めてセックスした時と変わらない位置にいる。  それでいいと思っていた。  視線を合わせて外さない目の前の男だけは浮薄を許してくれない。甘く爛れてしまった現状をはっきりさせたい、そんな意味合いに取れた。 「急に、どうしたんだよ」 「少なくとも僕にとっては、急なことじゃない」  このままじゃ見えない、ひとりごちたバーナビーが虎徹の前髪をそっと指先で掻き揚げ、青く発色しているかのような端整な顔を寄せてきた。  輪郭も見事なバランスで配置されたパーツも曖昧に滲むのに、長い金の睫のまたたきとグリーンの瞳だけはやけにクリアだった。  逃げたい、ふと浮んだ感情は男に対して抱いたことなどなかった。  瞳が望んでいるものが何であるか、年齢に応じた経験上、知っているのだ。  でも身体は動かない。全く言うことをきかないから、シーツに横たえたまま。 「……何で。意味もなく始まったこと、だろ? それ以外に何があるんだよ……」  心の中で呟いたつもりが口に出ていた。  バーナビーはただ静かに睫をしばたたかせ、僅かに伏せた。白い肌に落ちる青い影が、こちらの頬にまで零れそうなほど長かった。 「人の気持ちは時と共に変わるものでしょう? 僕も例外じゃなかった、それだけです」  でも、言葉を区切ったバーナビーが、虎徹の剥き出しの額に額を重ねてきた。  すり、と擦り寄る肌は慣れているのに、まるで今までと違う質感を帯びている。 「あなたは望んでいないからこれ以上は言いません。だから」 「バニー?」 「一度だけでも、あなたとキスがしたい……駄目ですか?」  キスなんてさっきまでべっちょべっちょにしてただろ? なんて、軽口を叩けない。  ただキスがしたい訳でないことは明らかだった。  キスを強請る少し甘えた調子の響きはいつだって耳にあるものと同じなのに、瞳だけは知らない。  恋すがるような目なんて、今まで露ほども見せなかったくせに。 「……っ、さん」   間近にある唇が動いた。そっと舌先で味わうように告げられた言葉が、生まれた頃から最も慣れ親しんだものだとは、思えなかった。  何故バーナビーは抱こうとするのか、何故自分は抱かれるのか。  ゆっくりと、ゆっくりと落ちてくる唇に突破口がある。それ以上に意味のある事実が、そこにはある。  ――受け止めたい。  ――受け止めきれない。  唐突に現れた分岐点に心の準備もないまま、まるで客観的に事態を見ていることしか出来なかった。  いつだって瞼を閉じて迎えていた唇に嫌悪感はないのに、慣習的なことすら忘れたまま湿った吐息が触れて――。 「……やっぱり、出来ません」  唇に触れたのは、溜息交じりの言葉だった。 「二人じゃないと意味のないことを一人でしたって、空しいだけだ」  伏せた瞼が持ち上がり露になった表情は、バーナビー特有の皮肉めいたそれだった。  バニーと、虎徹しか呼ばない名前を紡ごうとした唇を冷たい視線で遮ってから、再び瞼が閉じられる。 「……な、あ。何だよ、どういう意味だよ、おじさんに詳しく説明して……?」  我ながら白々しい言葉だと思った。普段の調子付いた口調を装ったが、上手く言えなかった。  沈黙が怖かった。本気で向かい合おうとする男を知ってなお自分が与える沈黙を、目の前の男がどうとるのか、想像つかないから怖い。  反面、語尾の震えに乗っかる戸惑いを知られてしまうくらいなら、無意識に噛み締めていた唇に従い黙っていた方が  良かったのではないかとも思った。  バーナビーは閉じていた瞼を引き上げ、言葉なく虎徹を見つめた。責める色も縋るような色もない、澄んだ深いブルーグリーン。  どんな鈍感なやつだって嫌でも気付かされる。かわそうとするズルさを許せるくらいには心を寄せ、虎徹を想うからこそ距離を  取ることも縮めることもせず、判断を誤るような事のない余裕という名の覚悟すらある。そして、優しい男だということ。 (少しくらい責め立ててくれれば、罪悪感なんてなかったのに……)  付け入ってしまいたい程の優しさが、呼吸すらままならない胸の痛みを呼び寄せる。  せめて、落ちてくる視線だけは受け止めようと思った。バーナビーがひとり抱え込む感情を今の虎徹にはどうすることも  出来ないから、精一杯を込めて見返した。  けして重ならないタイミングで呼吸を繰り返しながら見詰め合う。  何を介する事無く、色の違う瞳に差す青を追いかけた。  随意的なまばたきの果てに、バーナビーの面にはピロートークに興じる男の顔が戻ってきた。  止まっていた時が氷解し流れ出すのに身を委ね笑った顔は、いつも通りだっただろうか。  自分だけ置いてけぼりを食らっているのだと、引き攣った頬で判る。  しかし、このときばかり意見が合うのだ。互いの瞳に宿る軽薄な色が常のピロートークを望んでいる。  慣れた空気の到来にゆっくりと強張っていた頬が緩んで、滑らかに唇がうねるり出すのに任せる。  相当の場数を踏んでしまったもんだと、虎徹は内心で苦く笑った。   「……お前の目は、写真でしか見たことがない海の色してんぞ」 「また曖昧な言葉を……会話する気があるんだから、ないんだか」 「俺の相棒なら察しろよ」 「かのレジェンドですら、難問だと思いますよ」  くすりと笑いを漏らす薄い唇が拗ねたように尖っていく。最近可愛いなと思うようになった仕草がたまらず唇を寄せようとした虎徹は、  シーツの中にある指先に自分のそれを絡めるだけに留めた。もう先程の流れは払拭されているとはいえ、流石に唇には触れられなかった。  温度の違う体温が染みゆく心地を肌で感じながら仰ぎ見れば、綺麗な瞳と出合う。  バーナビーの瞳には海がある。虎徹の胸にある写真の記憶よりも鮮やかで生を強く感じる水面は美しい。瞬きをする度に凪いだ海、  荒れた海、陽光をふんだんに抱え輝く海、陽を生み受け止める朱の海と様々に表情を変えるそれから目が離せない。  そうして、ああ、と気がついた。この、素直な瞳を好ましく思っているのだと。   普段は睨み蔑んでくる瞳も、かなぐり捨てるように眼鏡を外して身体を繋げベッドの上で戯れる間、様々な感情を露にする。  絶えず表情を変え見るものを魅了してやまない海のような目に、惹かれていたのだ。 (……受け入れ続ける理由は、ちゃんとあったか)  バーナビーも同じように続ける理由にあたったのだろうか。  その果てに行き着いたのが――考えて、止めた。 「……もう、眠ってください。そんなに見つめられたら、また変な気分になりそうだ」  ふと、視界を大きな掌が覆った。ほんの少しだけ体温を増した指がそっと瞼を降ろしにかかるから、虎徹は抗うことなく従った。  苦笑交じりの声を聞きながら、青の残光揺らめく柔らかな闇に身体が弛緩してゆく。 「……あなた、暗い所が苦手でしょう」  掌が離れると同時に囁かれた言葉に返事はせず、瞼を閉じたまま絡んだ指先に力を込めた。  どう取られたって良かった。見ていないようで自分の事を見ていたこと、ちょっとした気遣いが嬉しかったこと、いい歳のおじさんが  暗闇怖いなんて情けないこと、今はもう平気なこと、唇よりも饒舌な瞳に惹かれていること、バーナビーの心はすぐ隣にあったこと――  明日には全て無に帰すのが常だからだ。  この青い波のように全てを飲み込んでは更地に戻して、再びここへ何食わぬ顔で戻ってくる。  虎徹が望む限り続くのだろう。昼間は最低な後輩でも、夜のバーナビーはとても優しい男だった。  閉じた瞼の隙間からたゆたう波間が見える。穏やかな波にゆっくりとゆっくりと意識が遠ざかっていく。 「海には、行きますから」  潮騒のような呼吸に混じり密やかに囁かれた言葉が首筋に触れた。約束だと吸い付く癖に、たった一夜で消える淡い口付けを施す。  瞼の先でいつまでも微笑むのは優しい男か、最低の後輩か――既に夢うつつの虎徹には知りようがなかった。                                                                                    ⇒続き

 

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