「虎徹さんがおしっこしてる所、見たいです」 「……は?」 唐突な言葉だった。 虎徹は彼のたった一言を瞬時に理解できず、尻を預けている革張りのデザイニングチェアから側を見上げた。 どうぞ、と目の前に差し出されたステンレスのマグカップを受け取れば、淹れたてのコーヒーの馥郁とした香りが鼻腔をくすぐった。 揺れる褐色の水面に何ともいえない間抜けな表情の自分が映りこんでいる。 富裕層ひしめくゴールドステージの中に、バーナビーが居を据えるマンションがある。 既に何度も訪れているここはいっそ無機質なほどに無駄なく整頓され、どこへ行ってもきっちりとした主を髣髴とさせる。 趣味のよさを伺わせるインテリアの一つ一つに彼の拘りが見え隠れし、深呼吸すれば清々しくも甘い柑橘系の香水とバーナビー自身の匂いで 満たされるそこは、虎徹にとっても心落ち着く場所のひとつだ。 隅々まで恋人の存在を強く感じ、抱かれているような心地にさせるバーナビーの家を好きだと言った事は、絶賛蜜月中でありながらも未だないが。 熱いコーヒーで喉を湿らせながら、目線だけでぐるりとリビングを見渡した。 すぐ手前にある丸テーブルには幼少時のバーナビーと両親の写真、誕生日に貰ったというおもちゃにテレビのリモコン、壁面には大きな ハイビスカスが咲き誇り、今は黒く塗りつぶされた巨大スクリーン、シュテルンビルドの眩い夜景を一望できる大きなウインドウ―― 前回訪れた時と一寸の違いも見当たらない。 では二人の関係はどうだろう。記憶を掘り返してみてもここ数週間の間は虎徹とバーナビーの間で大きないざこざもなく、普段通り上手くいっていたはずだ。 はて、先程の台詞に起因する出来事は何かと、思考の深さに比例して虎徹の眉頭はぐぐっと中心に寄ってゆく。 「……聞こえませんでしたか?」 「あー、聞こえてた聞こえてた。でも、意味がわからん」 確かに、ションベンしているところが見たいと聞いた。 明日も晴れますかね? なんて何でもないノリで告げられた言葉は聞き違いではなかったのだと、チェアに胡坐をかきながら 真意を測り損ねていると、頭上から溜息ひとつ。 「だから、あなたがどういう顔をしておしっこするのか、見たいと言ったんです」 コーヒーを飲みながら、殊更ゆっくりと丁寧に言い募ったバーナビーの言葉は一字一句間違うことなく、真実として虎徹の耳へ入り込んだ。 だからこそ、とびきり美味いコーヒーを啜るタイミングを逸してしまった。 手元のマグカップの中で荒ぶる液体は利尿作用がある飲み物の代表選手のようなもの。 既に半分以上は飲み干してしまったせいで、傾けると底が見え隠れする。そういえば、バーナビーの家に着いて仲良く夕飯を平らげ、 食後のコーヒーを嗜む今の今まで、トイレへ行っていない事に気がついた。 意識すれば、急に込み上げる尿意――こういう時に限って、身体は欲求を思い出すから困る。 ゆったりとしたチェアの中心を占領していた虎徹は端に寄り相手に席を勧めながら、脱力していく指先からマグカップを非難させようと床に置いた。 もう飲まないんですか? という言葉は、さらりとを無視する。 「……なあ、どったの、バニーちゃん……」 「僕、変な事を言いましたか」 「おい、天然で逃げるのはよせ。とんだ爆弾発言を落しといて、俺にどうしろと」 「恋人同士なら当たり前のことなんでしょう」 「お前ね。世間知らずな所も可愛くておじさん好きだけど。変なものにすぐ影響されるのは、どうかと思うぞ」 「これはファイヤーエンブレムに言われたんですが。恋人だったら、何でも見たいし見せたいものよね、と」 「規格外の野郎の言葉を真に受けるな、バニー……」 うへえと唇をひん曲げた虎徹の脳裏に、バチンと音がしそうなウインクを寄越すヒーロー仲間の顔が過ぎった。 同じヒーローとしてシュテルンビルドを守るファイヤーエンブレムは二人の関係を知る唯一の存在だった。 妙に聡い男で、彼、もとい彼女いわく「女の感だけど」と公私共にバディとなった翌日早々に見透かしてきたほど。 周囲に二人の関係を漏らす気はないのか、彼女以外から関係について突っ込まれたことはないが、それからというもの機会があれば ネイルを施した爪先を向けからかってくる。守るべき所は守る、弁えるべき所は外さない彼女は信頼に足る人物だし、ぱっと見は軽薄そうに見えても 情に深く分け隔てなく人と付き合う様は尊敬もしているが。 (今度はこいつをターゲットにしたか……) くねくねとシナをつくり官能的な唇を尖らせてはしたり顔で恋愛講座をしたんだろうなと、笑えない状況を作り出した愉快犯に舌打ちする。 どんな顔をしてバーナビーはそれらに耳を傾けていたのか気にはなったが、今は暗雲立ち込み始めた身の上を心配する方が先決だ。 一方バーナビーはチェアを軋ませながら空いたスペースに腰を下ろし、至って普通にコーヒーを飲んでいる。 薄い唇がステンレスの縁に触れ、開かれた口内の赤さにドキりとした。なんでもない動作でも様になるんだから、ハンサムというのはずるい生き物だ。 他人との付き合いを前向きに考えるようになったバーナビーは、虎徹以外のヒーローとも接点を持つようになった。 控えめながら笑いを滲ませ会話に花を咲かせる彼の変化を好ましく思っていたのに、少しでも目を離すとこれだ。 幼い頃に悲惨な事件で両親を失い、ただひとつの目標を掲げて二十年生きてきた彼は若干世間とズレている節がある。 何事も完璧にスムーズに物事をこなす優等生ではあるけれど、驚くほどに無垢で肝心な所で脆い部分は危なっかしくて見ていられない。 「なー、あいつお前からかってんだって」 「でしょうね」 あっさりと言いのけたバーナビーは、最後の一口を飲み干してマグカップを床に置いた。 「下らないと、その場で言いました。でも、虎徹さん」 「お? え、うおっ……」 節高な指先が伸ばされ虎徹の顎をすくう。ほんのりと温かいそれがまるで猫をあやすようにくすぐってくるから、むずがゆくて堪らない。 やめろと腕を回し払おうとするも、しつこく追いかけてくる指先の戯れは一向に止まる気配がなかった。 つい気持いいと目を細めてしまいたくなる掻痒感。その奥に潜むものに身体が我慢ならないのを自覚しているから、虎徹は眇めた瞳で非難した。 「見たくなったんですよ。あなたがおしっこしている所。あの狭い空間であなたがどんな顔しているのか、無性に知りたくなったんです。だから、見せて下さい」 特徴的な顎鬚を爪先で撫でたのを最後に、今度は唇に触れてきた。 まるでドアをノックするように閉じられた唇に触れる指先は乱暴にこじ開けることはせず、お伺いを立てるように繰り返される仕草が甘くて甘くて。 いつしか周囲に満ちる恋人としての空気が素面の虎徹には居たたまれず、僅かでも距離を空けようと尻を後退させるも 長い腕に腰をホールドされ叶わない。視界いっぱいに美貌が迫るのを、ただ見ていることしか出来なかった。 久々だった。こうして抱かれゼロ距離で彼をめいぱい感じることが久々で、より強く感じる嗅ぎなれた匂いにくらくらとして、 嫌だあほかやめろという頭を占める言葉がひとつもでなかった。少しでも唇を開いてしまえば、悪戯をしている指に欲望を秘めた舌先を捕らえられ 甘えられてしまいそうで――そうなれば、もう何でもしてやりたくなるのが、目に見えていた。 どれだけ相棒のことが好きなのか、こんな危機的状況でも自覚してしまうくらいの余裕は、あったはずなのに。 「善は急げといいますし、今すぐ見せて下さい」と畳み掛けるように言い放った彼に、抵抗すら忘れてしまった。 ⇒続き