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幾つもの赤い爪痕を残した背中を見るのは、初めてだった。 軍人であるが為に余計な怪我の元とならぬようきちんと爪は切り揃えているものの、セックスの最中につい立ててしまう爪先が 背中にはっきりとした引っかき傷を残すことなど、オリヴィエは今の今まで知らなかった。背を向けている男からも「痛い」という言葉を、一度も聞いたことがない。 白いシャツで乾ききらない生々しい痕が隠されるまで、オリヴィエは視線を逸らすことはなかった。 『これで終わりにしよう、オリヴィエ』 これが陳腐な愛物語ならば、悲劇と相対した主人公は泣いて縋っただろう。 行くなとは言えなかった。「らしくない」と、この状況を前にしてまで縋る己が許せなかったのだ。 愚かならばいっそ最後まで愚かでいようと、ただの女にすらなれなかった。――軍人である己の身を悔やんだのは、これが初めてだった。 「……行くのか」 流石に無言で見送る気にはなれず、無感情な一言だけを吐いた。未だシーツの中にある手が自然と拳を作る。 扉のノブを手にした男の背が揺れた。 「……オリヴィエ。私は、あなただけを生涯愛している」 オリヴィエの問いかけには答えず愛の言葉だけを残して、男は振り向くこと無く去って行った。 扉一枚隔てた廊下の向こう、規則正しい足音が遠のいてしばらく、オリヴィエはベッドから滑るように足を出し生まれたままの姿で路面側にある窓辺へと向かった。 ちょうどホテルから出てきた男の背が見えた。そっとガラスに掌を重ねる。捕まえるように、離さぬように。それは二秒も持たず指の檻から抜け出て行った。 いっそ潔いまでに振り向くことのない背中に、男の強い意志を感じた。 確かな愛の存在がこの胸にありながらも眦から一滴も涙が零れぬ女は、薄情者だと思うだろうか。 ガラスに映った鎖骨に咲く赤い情痕から目を逸らすように見上げた空は、密雲に覆われていた。 あの別れから、オリヴィエが男を想い見上げる空はいつも曇天だった。先で待つだろう美しい紺碧も見えず、涙のように降り注ぐ雨もなかった。 まるで先にも後にもゆけない、己のような空だった。 手の中にある写真には、白い教会をバックに黒髪を撫で付け理知的な額を出したタキシード姿の男と、純白のドレスを纏い頬を 薔薇色に染めた女が腕を組み寄り添った姿が写っていた。誰が見ても幸せに満ち溢れている光の中で、二人はこちらへ笑いかけている。 『結婚しました』 味気ない一言だけが書かれたカードと共に内封してあった写真を、オリヴィエは黙って見下ろしていた。差出人は、ロイ・マスタング。 端正な男の隣に相応しい、しとやかで優しげな面持ちの美しい女性だった。可憐な花々で飾った眩い金の髪は陽が落ちる寸前の海のきらめきに似ている。 無意識に自らの髪に触れていたオリヴィエは、その意味を考える前にたっぷりとした金髪を無造作に払って追いやった。 数ヶ月前に仕事で顔を合わせて以来、写真とはいえ男の姿を見るのは久しぶりだった。 長らく共にいたはずなのに穏やかに微笑むその表情は見たことがない。空白の期間、男にとっては安寧に包まれた素晴らしいものだったに違いない。 一見して世界中の誰よりも幸せなのだろうということが判る写真の、白亜の教会の上に広がるのは見事な晴天だった。 天すらも二人の愛を祝福していたのだろう。あの日は陽が昇り星の瞬きが現れるまで、雲ひとつ見られなかった。 オリヴィエは手にしていた写真を書類が乱雑に散らばる机へそっと置き、手近な窓へと歩みを向けた。 常に掃除の行き届いているアームストロング家の私室。窓越しに見やる空は重苦しい黒雲で覆われていた。 『私は、この国を変えたいと思っています』 突如、脳裏に蘇った掠れ気味の低音に、唇が僅かにわななく。 いつものように身体を重ねた後、気だるく甘さの滲む雰囲気を蹴散らした無粋なその言葉。 今思えば、現在を予感させる重たさを孕んでいたようにオリヴィエは思う。 『お前に出来るものか。……この国は想像以上に、腐っているんだ……』 何も知らなかったオリヴィエは行為後の酷いだるさから声の主に背を向けたまま、まともに取り合わなかった。 青臭い熱情を一言で斬り捨てたが内心、若くして地位を確かなものにしているこの男ならばやりかねないと密かに思っていた。 あの時、怠惰に任せず袖にしなければ、きっとまだ隣に男はいたと――漠然とした確信はあった。 たが、あそこでどう答えていれば先の未来まで寄り添っていたのかは、判らない。 『少将らしいお言葉だ。……だが変える。変えなくてはならない。俺は、一人で歩いている訳ではないからな』 ふと声の調子を変えた背後の男に、オリヴィエは寝返りを打った。 静かながら燃え滾る焔を宿す黒い瞳は、窓枠で切り取られた深い闇を覗き込んでいた。月光の輝きすら届かない眼が、闇の奥へ奥へと踏み込んでいた。 その瞬間、オリヴィエはどうしたって入り込めぬ男だけの道を見てしまった。 男の進むべき道の先にいる、喪った親友の姿までをも一瞬のなかに見出す。約束と共に生きる男の、すぐ近くにある手を握ることすら、躊躇ってしまった。 不意に振り返った男の今にも泣き出しそうな笑顔の真意は今でも判らない。 翌日、男はオリヴィエから背を向けた。――大層な荷物の中身すら広げず、一人背負って。 『オリヴィエ。私は生涯、あなただけを愛している』 甘ったるく疑う余地のない愛を孕む言葉を残して希望さえ見失った日。 あの時と同じこの濁った空の下で、男を失った。 「若造が……」 突然、窓を叩く盛大な音に思考を奪われ、オリヴィエは心もとない指先で肩を覆う紺色のストールを掴んだ。 ガラス一枚隔てた向こうで勢いよく雨が降っていた。まだ陽が落ちるには幾ばくか早い時間帯だというのに、部屋には薄闇の気配が漂い時の感覚を危うくさせる。 少しでも騒々しい雨音から遠ざかろうとカーテンを手にしたオリヴィエは、土砂降りの雨の中、白くけぶる視界に現れたものに目を見開いた。 滑らかなストールの表面に、数多の皺が走る。 「マスタング……?」 雨の中で佇む、黒で覆われた男の姿を見間違うことはない。 こちらを見上げる影を帯びた黒い眼差しに、オリヴィエの心は荒れた。ドクドクと、まるで警告音のようなその心音は雨に打ち消され、露と消えゆく。 「今晩は、嵐になりそうだな……」 この先の未来さえ、嵐に巻き込まれるだろう予感に身体が震えた。 甘い言葉に縛られたままの心の疼きに追い立てられるように窓から背を向け、オリヴィエは室内を飛び出した。 羽織っているストールを強く掴んで廊下を慌しく駆ける。少しでも早く先へ、急く気持ちとは裏腹に足に絡むロングスカートが邪魔で一歩が重たい。 玄関までの道すがら、いつしか男とのセックスに避妊をしてこなかったことを思い出した。 がむしゃらに抱こうとする腕を操りながらも、冷めた瞳の男は何かに縋っているかのようだった。 それが男にとって快楽だけではないものをかけていたのかもしれない。遊戯に興じる際、時にダイスを振るように、自身の人生を決めていたのだろうか。 そうして何らかの結論を導き出し新たな人生を踏み出した。誰よりも側にいたオリヴィエに何も言わず、一人で。 一際高く響いた靴音を最後に、辿り着いた玄関ホール。呼吸が胸が乱れ、息が整わぬうちに扉の引き手に手をかけた。既に馴染んでいる筈の金属がやけに冷たく いくら強く握ってもそれは熱を変えなかった。いつだって温かく迎え入れてくれたオークの扉も今は堅く閉じられ威圧感すら漂う。 開くことすら躊躇いかねない重い扉は、最後の審問のようだった。しかし開く以外の選択肢はオリヴィエの中になかった。 もう動き出した足は心は止まらない。飢えていた。もう、恥も外聞も捨て置いて、男に触れたかった。――オリヴィエは、ただの女となっていた。 重いと感じた扉は僅かに力を込めるだけで呆気なく動いた。軋む音を立てながら開いた先、幻ではない男が立っていた。 「……愛している。それだけは嘘じゃない」 色を失った唇から滴る雫が光の加減か、虹色を帯びていた。その美しさに目を奪われ行き先を辿っていると、屋敷内から漏れる明かりに左の薬指が煌いた。 燦然と輝くその存在を揺らして愛を言う男の、雨水滴る黒髪の合間から覗く表情は、あの晩に見た今にも泣き出しそうな笑顔だった。 何故ここに? 問いかけようとした唇が、言葉を失う。 「……、……男はみんな、そう言うんだ……」 羽織っていたストールで男の濡れた頭を覆い、そのまま指先を滑らせ布越しに撫でる。じゅんわりと染みる冷たさにこれが現実であることを認める。 途端、抱き締めてくる腕に服が濡れるのも構わずに身を任せたオリヴィエは、違和感に眉を顰めた。 腰に巻きつく腕の位置が高く、勢いのわりには壊れ物を扱うかのように柔らかだった。 確かな女の存在――背に回そうとした腕が空で止まったのも、一瞬だった。 失ったものは二度と戻らない無常さを突きつけられながら、オリヴィエは冷えた男の身体を強くかき抱いた。 「……おかえり」 猛威を振るう風雨の中、冷えた指先に顎を掬われた。 小さく名前を呼ぶ声が、かちあう黒の瞳はあの頃のままで錯覚してしまう。 一時の甘い妄想にすら惑えないほど深い孤独を過ごした心の叫びをぶつけるように、唇を押し付けた。 熱も甘さも柔らかさも、昔のまま。 「オリヴィエ……」 (……名前なんか呼んでくれるな) 明日になればまた背を向けるだろう男を、手放せなくなる。――そう、男の目はマトモじゃない。 何も映すことの無い深淵の瞳。手を掛けて覗き込んだって伺えない底のなさに、恐怖すら覚える。 「……あなたを、忘れたことはない……ずっと、あなただけを、愛している……」 身勝手な愛しい男の言葉をこれ以上聴きたくなくて、オリヴィエは口付けた。 そこだけにある「昔」が飢えた己を甘く癒して酔わせてくれる。 燻り続ける枯れぬ愛も怒りもやるせない悲しみすべてを練り合わせた唾液を、送り込んだ舌と共に男の口腔へ流し込んだ。 余さず喉を鳴らして飲み干した男を更に貪ってから、オリヴィエは濡れた頬に頬を重ねた。 とろりと掠めるあたたかな雫に、肌寒い季節すら忘れる。 「ロイ、愛して、いる……」 言葉に出してはじめて未だ胸に掬う感情の大きさを知る。どれだけ男を愛していたのか、思い知らされる。 明るい陽の下を歩くには、不釣合いな暗い瞳をしている男――澄んだ青空であれば、きっと帰って来なかった。 「愛している、オリヴィエ……」 互いの唇を繋ぐあやうい想いの銀糸のように、脆いことを知っていたのだろう。 壊れたテープのように繰り返し呟かれる愛の言葉以外、男は何も言わなかった。女も何も言わなかった。 埋めることの出来ない空白ごと、昔のように抱き合った。 違和感は、拭えぬままで。 密雲を待つように想いを馳せれば、男は雨を背負いやってくる。 滝のように降る雨に身を隠しては愛を囁く。「愛している」と鳴き声のように。 晴れやかな空を求めることは、もう出来ない。 「偲ぶ空」H23.10.10