Nudist 2





 心の準備をする間もなく目の前の扉が開いた。 「どうぞ、入って下さい」  深呼吸のひとつでもさせてくれと恨めしい気持ちで部屋の主を見やった虎徹は、すぐにその気が失せた。  目が合った途端、眼鏡の奥にあるグリーンの瞳が細められ、会えて嬉しい、早くあなたに会いたかった――そんな言葉が聞こえてきそうな  とろけた笑顔を向けられてしまえば敵うはずが無い。  年甲斐も無く胸が高鳴るのを感じながら、虎徹はおざなりに頷くだけで精一杯だった。  顔が熱くてたまらない。恋に恋する年頃の娘じゃあるまいし、いちいち反応するような年齢でもないというのに、  注がれる視線が甘すぎて居たたまれない。ハンチングを被り直す振りをして、熱を持った目元を覆い隠した。  目聡いバーナビーは虎徹の心情を汲み取り、悪戯っぽく微笑みながらもからかう事なく夜更けの訪問者を鷹揚に招き入れた。  勧められるがまま室内へと足を踏み入れた虎徹は先行く背中を追いかける。  ゆったりとした足取りで廊下を進む彼からはソープの香りがした。  終業後、個別での仕事が入っているからとロイズと共に早々に退社したバーナビーも、つい先程帰宅したのかもしれない。  よくよく見ると、シャツの所々に水滴と思わしき色濃い染みがあり、くるんと跳ねた毛先もどことなく重たげだ。  彼に追い付く間際、ゴツと重量ある音を立てて赤いブーツが歩みを止めた。 (……今日も、ここまでか)   白い天井に等間隔で設置された照明、玄関から四つ目の灯りを見上げながら虎徹も足を止めた。  背中に衝突する、というヘマはもうしない。何で急に立ち止まるんだと文句を言ったのは最初だけだ。 逞しい背に鼻っ柱を強かにぶつけた虎徹ががなり立て、勿体ぶるように振り返ったバーナビーを見てから、それ以降は責め立てる事もしなくなった。  先程と打って変わり、心臓が不穏に騒ぎ出す。自らを奮い立たせるように手指を強く握りこんで、せめて視線だけは逸らす事無く  受け止めたいと微動だにしない金の頭を見据えた。  音も無く彼は動いた。揺れる髪が爽やかな香りを振りまきながら白皙の美貌を露にする。  やけにゆっくりと目に映る動作は、されど時間にして僅かでしかない。呼吸をも忘れて、彼の一挙一動に見入った。  精悍な頬を持ち上げ唇に甘い微笑を湛えたバーナビーが、虎徹を真正面から見つめてくる。  だが、怖いほどに透徹とした瞳だけは冷ややかだった。  瞬きや唇の小さな戦慄きすら見咎められるような緊迫感が、決して狭くは無い廊下にじわりと侵食してゆく。  ぴりぴりとした空気が肌を粟立たせ、足元から忍び寄ってくる震えをどうにか堪える。身じろぎすら許さない鋭利な視線の針が、虎徹をその場に磔にした。  バーナビーは寄る辺無く立ち竦む虎徹の頭から足先まで、もれなく検分するように素早く視線を走らせた。  ネクタイの歪み、シャツの皺、綻びまでをも見逃さず、果ては見えぬ肌までをも推し測ろうと眉根が寄り、睨める瞳で射すくめてくる。  矯めつ眇めつ虎徹を眺めたバーナビーはひとつ頷いてから、瞳を和らげた。 「……お帰りなさい、虎徹さん」  大きく広げられたバーナビーの腕が虎徹を待っている。 「うん……ただいま、バニー」  ただいまという言葉ひとつで彼の顔に笑みが広がって、ふっと身体が軽くなった。  ぎこちなく口元を持ち上げて、虎徹は逞しい身体へ両腕を回した。  ぽんと背を軽く叩けば絡まる腕が強まって、筋張った首筋へと頬を寄せる形になる。この体勢になるたび、すぅ、とバーナビーの香りを  探ろうとするのは無意識だ。鼻先で白い肌を撫でるようにして、何度も鼻をひくひくと蠢かせる。邪魔としか思えない  清潔な香りの中で微かに彼の匂いを見つけて、強張っていた心と身体がゆっくりと弛緩してゆく。 「動物みたいだな」 「っ、うるせ……」  彼から見えないのをいい事に、にゅっと唇を突き出した虎徹は、グーにした右手で背中をコツンと叩いてやった。  痛いと抗議の声を上げながらもバーナビーは笑っていて、お返しと言わんばかりに強められた腕のせいで、今度は虎徹が痛いと言う番になる。  我ながら可笑しいとは思っていても、なんせ無意識の産物だ。  当のバーナビーも悪い気はしないのか、そんな虎徹に嫌がる素振りも見せず好きにさせてくれるから、止めようにも止められない。 「からかってすみません。許してくれませんか?」  くすくすと笑いながら、じゃれるようにバーナビーは頬へ口付けてきた。  チュッと甲高いリップ音を立てた柔い唇が宥めるように何度も皮膚を滑り、時折吸い付いてくる。  キスの応酬に居心地の悪さを感じながらも、心地よい感触につい頬が緩んでしまう。  こうも甘えられてしまえば、頑なに意地を通す方が難しい。ただの相棒では収まりきれない感情を向けているから、尚更だ。 (俺はお前が可愛いよ、バニー……愛してる)  バーナビーの頬に手を添えて、迂闊に口には出来ない言葉を込めたキスを鼻先へ落とした。  そっと触れるだけで音の無い静かな口付けだ。整った高い鼻梁を辿るように唇を這わせてから、精悍なラインを描く頬へ。  繊細な感覚器官でもある唇で触れると、彼の滑らかで弾むような肌の質感がよく判る。 「ふ……虎徹さん、くすぐったい……」  バーナビーは突然のキスに一瞬瞳を見開いたものの、すぐに瞼を閉じて身を委ねてくる。  くすぐったいと鼻に掛かる声で甘える姿は幼げでいて、しかし、薄っすらと上気した頬は艶を纏っている。  降参だと肩口へ額を預けてくるバーナビーのつむじに口付け、虎徹も彼の頭に頬を寄せながらそっと吐息した。 「営業」後に顔を合わせるたび、バーナビーは甘える振りをして情事の名残を探そうとする。  営業について訊ねてくれば包み隠さず話してはいるが、彼は言葉以上のものを自ら確認しようとする。  無邪気に甘えてみせる今がそうだ。抱き締める腕は衣服の下に隠れた肌を暴こうとし、頬へのキスは間近では隠せない表情を伺う為で、  額を寄せる仕草は抱いた男の形跡を探ろうと鼻を利かせている。  事が終われば即座にシャワーを浴び、身体の隅々までスポンジを這わせ皮膚が赤らむまで洗い流しているが、バーナビーを  誤魔化せたことは一度だってなかった。自分では気がつかなかった名残を見つけ出しては「……今晩は整髪剤臭い男か」と、  苛立ちを露わにぴたり当ててくる。虎徹に出来るのはバーナビーに身を委ねる事と、頷くことだけだった。  暫く虎徹を抱き締めていたバーナビーは気が済んだのか、ゆっくりと頭を上げた。  苛立った気配は既に遠のき、面映いほどの愛情を滲ませた顔がすぐそこにある。  虎徹さんと呼ぶ声までもがあたたかい情に満ちていて、自分はこの男に心底惚れて仕方が無いのだと思い知らされる。  ふわりと肌の温度が上がる。  セックスの快感でさえ届かない深み、バーナビーにだけ許した心の奥深くが酷く疼いて、今すぐにでも彼にむしゃぶりついて  愛し、愛されたいという強い欲求が湧き上がり目が眩みそうになる。 (……キス、してぇなあ……)  少し角度をつければ届く距離に唇がある。薄く形の整ったそこは、安寧と慈しみを欲しいだけ与えてくれる。  でも、それだけだ。バーナビーの優し過ぎるキスしか、虎徹は知らない。  互いの押さえ切れない衝動を肌で感じる距離にあっても、半端な形で睦み合う最中でさえ唇を重ねた事は一度だってなかった。  隙間無く肌を寄せ合っても、物欲しげに見詰め合う唇はいつだって遠い場所にあって届かない。   僅か開かれた唇から漏れる呼気が艶を呼び、皮膚がしっとりとした熱を帯びる。  押し付けあえばさぞ心地よいキスが出来るだろう――知らず、自らの唇を舐めようとした舌先を慌てて引っ込めた。  居たたまれなさを感じるのはこういう時だ。身に染みついた淫らで醜い慣習が、自らの暗い軌跡を強く意識させる。  そして、バーナビーを傷付ける。  清廉潔白、真面目で心根の優しい彼は、他の誰かに教え込まれた所作を目にするたびに酷く傷ついた顔をした。  彼が知らない虎徹の過去をも背負い、虎徹が厭うことをさせてしまった己に対して失望するのだ。 「……虎徹さん、シャワーをどうぞ」  ホテルで浴びてきた事を確認した上での言葉に否は言えない。  彼に許された距離――寝室には遠く、浴室に程近いこの距離がバーナビーの言葉にしない気持ちの表れだろう。 決して強要されている訳ではないが、虎徹もまた営業の名残を引きずったまま彼に触れる事は躊躇われた。  それに、廊下を煌々と照らす灯りの下、淡く輝く瞳の奥で揺らめく本音を見てしまえば、尚のこと。 (俺だって、早くお前のものになりたい……)  欲に染まるみっともない顔を見られたくないと切に思うのに、目を逸らす事が出来なかった。  早く、と急かしながらもバーナビーは抱擁を解いてくれない。一層強く、腕の中の存在を確かめるように抱き締めてくる。  彼の密やかな執着を垣間見た気がして、ひくりと疵が疼いた。

 

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