目隠遊戯【中編】





 扉を開けた途端、けたたましい音が耳元で爆ぜた。  金属を擦り合わせたような酷いノイズが耳の奥まで突き刺さり、地響きめいたBGMが内臓をシェイクする。  せり上がる嘔吐感を堪え、眩暈にも似た浮遊を味わいながらどうにか踏み止まり、脂汗が滲む額を手の甲で拭う。  動いた拍子にシャツで隠された肌が粟立っている事に気付いて、唇に歯を立てずにはいられなかった。  こうして訪れる事は初めてではないのに、一歩足を踏み入れただけで生理的な嫌悪に苛まれる。  顕著な反応を示す腕をもう片方の手で撫で諌めながら、渦を巻く生々しい熱気を前に虎徹は立ち尽くしていた。 「……このまま、帰ってしまえばいいじゃねーか……」  乾いた喉元から搾り出した言葉が、女性の甲高い叫びで掻き消される。  弾かれたように顎を上げた虎徹は、しかし、自分が思うような状況を孕んだ声色ではないと知り吐息した。一際大きな笑いが  外にまで広がり、不快な余韻を残して濁った夜気に溶けてゆく。早合点した胸はばくばくと早鐘を打ち、先ゆく足は引っ込んでいた。 (ビビリ過ぎだっつの……みっともねえ……)  ハンチングごと頭を抱え、怯えを遠ざけようと臭い空気を深く吸い込んだ。  気を抜けば膝が笑ってしまうほど怖気づいているというのに、どうしても引き返す気にはなれない。  引き返そうとちらとでも思えば、見ず知らずの人間を抱く白い手が頭を過ぎり、ゴミの散らばった地面からいっそう動けなくなる。 (今晩こそ……アイツは、バニーは……)  その先を想像して心が冷える。呼吸が浅くなる。はっ、と空気を求めて顔を上げた先、店名を描くブルーのネオンがチリッと明滅した。  喧しい羽音を立てて飛び回る無数の虫達がほうほうにばらけ、再び光に向かって群がる。  瞼を閉じればあの晩の醜い情景が浮き上がってきそうで、一瞬のまばたきすら躊躇した。  身体は心に比べて正直だ。誤魔化しがきかないから、虎徹のなけなしの決意を容赦なく揺るがしにかかる。  怯者な自分の背を押してくれるような輩はいないものかと辺りを見渡すも、歓楽街とはいえ時間が時間なだけに人通りは  まばらで、みな素通りするばかり。突然の降雨で雨宿りがてらと仕方の無い理由を拵えようとも、入り組んだ階層の隙間から見る夜空は  砂粒のような白い光が散らばっているだけで雲ひとつない。 (……もう、バニーん家に、行く事もねえのかな……)  星には疎い自分ですら知っている三ツ星を真上に見つけて、酒で赤らむ整った横顔がひらめいた。  あれは久々の宅飲みで浮かれていたこともあって、相当なスピードで次々と酒瓶を空っぽにした夜のことだ。  バーナビーが腰掛けるチェアの横で辛い焼酎を満たしたグラス片手に寝転がり、街の明かりを流し込んだ輝く天井を指差しながら、  知りうる限りの星座を挙げて故郷を想った。かなり酔っていたから細かな部分まで覚えちゃいないが、故郷の歌を  口ずさみながら自身の生い立ちや田舎に住む家族のこと、最愛の一人娘や亡き妻のことまで色々な話をした気がする。  酒のせいで呂律の回らない言葉は聞き難く、さぞバーナビーを惑わせただろう。  秀麗な眉を顰めた呆れ顔でグラスを煽る姿がまざまざと蘇り、くくく、と虎徹は小さな笑いを漏らした。  一度は田舎に遊びに来いよ、なんて素面ではそうそう出来ない誘いをかました夜を、バーナビーは覚えているだろうか。 「ないか」  彼はどう答えを返したのか、虎徹ですら覚えちゃいないのだ。  ただ、天井を指差す虎徹につられて天井を見上げた彼の、意外そうな表情だけはよく覚えている。  思ってもみなかったと、ぽつりと零した台詞の無垢さが印象的だった。 (……ここにも、まだ俺の知らないバニーがいる……)  引っ掻き傷が目立つ木製のドアを暫し見つめた虎徹は、怯えを払うように太息を吐いた。  全身を巡る血の流れを意識しながら何度も呼吸を繰り返して、身体を心を空っぽにしようと努める。ここまで来たからには、進むしかなかった。  持ち上げる足は重く、次の一歩を踏み出す動作はぎこちない。まるで錆ついた車輪のようだと虎徹は自嘲し、軽妙なダンスナンバーに  合わせて身体を揺らす人々の合間を縫いカウンターへと向かった。一番奥、前回も尻を預けたスツールへと腰を下ろす。  そこはどんなに混雑していても必ず空いていて、今晩も六席のうち五席は埋まっているものの、虎徹の為に誂えられたかのように空席となっていた。  左隣に座る若い男女の明るい会話から逃れるように肘をついて間もなく、目の前にロックグラスが差し出された。  芋虫のような太い指の中にあるグラスは茶褐色の液体で満たされ、浮遊する氷がからんと涼やかな音を立てる。  深く被ったハンチングの隙間からゆっくりと引っ込んでゆく指を追えば、隆々とした体躯をブラックスーツで包んだ大柄な男へと行き着いた。  頭髪と眉を剃り落とした厳めしい面貌の彼はこの店のバーテンダーで、寡黙で無愛想な男だった。こちらから振らない限り  会話どころか目も合わせてこない。現に今も客の存在を他所に、黒い瞳を伏せて黙々と手元を動かしている。  無関心、という訳じゃない。どう見ても客商売を生業としている雰囲気ではないことが、時折店内を走る視線の鋭さから判る。  光沢ある生地を押し上げる逞しい筋肉だって伊達じゃなく、それなりの装備も袂に隠しているはずだ。  ここが真っ当な店でないことは、身をもって知っている。  だが、こちらから藪を突付かない限り男は虎徹を客とみなし、こうして酒を振舞ってくれるのだろう。  引き寄せたグラスの中、縁にぶつかったロックアイスに何とも言えぬ表情の自分が見えた気がして、確認する間もなく赤い光射に塗り潰された。  毒々しい色がぐるりとグラスの中を這い、虎徹の背後へと真っ直ぐに伸びる。  知らず詰めていた息を吐いて、冷えたグラスを握り締めながら背を丸めた。 (……もう来ねーって、って毎回思うのになァ……)  入り口に立っただけで足が竦む癖に、もう何度この店に出入りしているだろう。  休息の時間を削ってまで胡散臭い店へ赴き、決まった席に腰掛ければ頼まずとも同じ酒を提供される。  常連、という訳ではないが、そこは居心地悪くも虎徹の居場所のひとつとなりつつあった。  ここで夜を過ごすのは、誰でもないバーナビーが来るからだ。  バーナビーは恋をしている。打ち明けられて初めて、バーナビーの心に想い人がいることを虎徹は知った。  仕事上のパートナーである虎徹は、誰よりもバーナビーの側に居て、誰よりも共に過ごす時間が多い。分刻みのスケジュールに  忙殺される彼に恋人がいるとは露とも思わなかったし、そんな素振りも一切見せなかった。  バーナビーの当たり障りのない応答のひとつに「仕事が僕の恋人です」という言葉がある。  今一番この街で注目を浴びるバーナビーにとって色恋の質問は避けては通れないものらしく、雑誌の取材やTV出演をする度に  必ずと言っていいほど恋愛事情が問われる。衝撃的なデビューを経て、数々の事件をスマートに解決へと導くバーナビーは老若男女関わらず  絶大な人気を誇っていたが、特に女性からの支持は圧倒的だった。  すらりとした長身に引き締まった身躯、鋭角なラインを描く頬は男くさいのに端整な顔立ちはどこか中性的で甘い。  整った容貌ゆえに一見クールで気位が高そうに思われがちだが、ひとたび笑顔を浮かべれば気安さと親しみが滲みでる。  スーツを脱いだバーナビーは男としての価値も明らかで、そういった需要も当然だと言えた。うち一人には虎徹の大事な大事な  愛娘である楓も含まれていて、バーナビーの発言に一喜一憂しては逐一電話で報告してくるものだから、父親として正直面白くはない。  本業であるヒーロー業は勿論のこと、広告活動にも差し支えてはならないと、ロイズからは常に適宜な応対と身辺を  クリーンにしておく事を求められている。会社の為であり、ひいては自らの将来を守る為だとバーナビー自身も理解しているのだろう。  今が楽しい盛りの若者にとって制約の多い毎日は窮屈だろうに、彼の口からは愚痴ひとつ聞いた事がなかった。  カメラの前では常に笑顔を絶やさず、挙げ足を取られないよう発言の一字一句に気を配り、瞬きのタイミングすら律するバーナビー。  そんな彼にはハエのように群がり、ゴシップという美味い汁を吸おうとするマスコミの影が日々ちらついている。  バーナビーの毒にも薬にもならない言葉には飽き飽きだろうマスコミの、次なる行動が危惧されるというのは、ロイズの談である。  件の言葉の他には「このシュテルンビルトが僕の恋人です」だったり「相棒が恋人です」という性質の悪過ぎる冗談もあって、  やましい想いをひた隠しにしている虎徹を幾度と無くやきもきさせた。  バーナビーとは沢山の時間を過ごしてきた。多くの事件を共に解決しては喜びを共有し、時には意見を食い違わせ、  取っ組み合いの喧嘩も何度だってしてきた。プライベートも連れ立って出掛けたし、互いの家を行き来しては朝まで  飲み明かしたことだって数えきれない――そうそう思い出しきれないほど、虎徹は彼の側にいた。バーナビーの隣以外に  居場所は考えられないほど、ずっと一緒だったのだ。  今思えば、誰よりも共にいたというだけで彼をよく知ってるだなんて、根拠のない妄想でしかない。  愚かな自惚れのせいで盲目になっていた虎徹にとって、バーナビーの告白は青天の霹靂だった。 (これで相棒か……友情だって言ってたテメーが何も知ろうとしなかった)  そんな虎徹の慢心を、輝石のような瞳で見抜いていたに違いない。だから、あなたが信じられないと言われてしまったのだろう。  あれから状況は何も変わっちゃいない。どう対応するのが正しいのか、決めあぐねている。  如何せん、バーナビーの胸にあるものと同じものが虎徹の中にも存在しているから、シンプルに物事を考えることすら難しい。  ただ混沌とする頭を抱えて何一つ答えを出せぬまま、内でうねる感情が身体を揺り動かして、今、ここにいる。  相棒だからと身勝手に彼のプライベートを覗き込み、詮索するのは許されることじゃない。  自分が彼の立場ならば、相棒の行過ぎた行動に腹を立て、軽蔑だってするだろう。  彼を想う気持ちを密かに抱えているだけで、相棒としてバーナビーの隣に立ち、背中を預かるだけで十分だったのに。  彼の身体に触れ、内側から焼きつくすような熱を知った心は、堪える事を放棄してしまった。  虎徹の知らない顔で、虎徹が聞いた事の無い甘い声で、想い人を一心に愛するバーナビーがいる――何度だって妄想した彼が、ここにいる。  狂おしい感情に振り回されるどうしようもない自分に嫌悪し後悔しながらも、夜毎まだ見ぬバーナビーを求める足を止められはしなかった。  醜い感情から逃れるように、虎徹は店内を見渡した。相変わらず雑多で、煩い場所だ。照明を絞っているせいで個々の顔が  黒く潰れはっきりとは確認出来ないが、いくら目を凝らしてもバーナビーらしき人物はいないかった。 (今晩は、来ねえのか……)  シャツを捲り上げて時刻を確認すれば、午前二時を回った所だ。  グラスを握り締めていたままの指先がぐっしょりと濡れていることに気付いて唇を寄せた。溶けた氷のせいで薄まったアルコールが  粘膜を熱くさせる。鼻へと抜ける馥郁とした香りは決して悪くはないが、ゆっくりと堪能する気にもなれず、水を飲むようにして一気に空けた。  幾度か通ううちに判った事がある。あの狂気じみた催しは毎晩行われている訳ではなく、不定期らしいということ。  表立って日を決めている訳ではなく、突発的なイベントらしいということ。  あれを目当てに訪れる客も中にはいて、今日がその日でない事が判るやいなや、不満を吐き捨てながら店を後にする姿が何度も見受けられた。  この時間まで何も起こらないとなると、恐らく今晩も例に漏れず、何事もなく朝を迎えるパターンだろう。 (……もう、帰っちまおう。明日も早いし)  バーナビーが来ないのなら、ここに居続けても仕方が無い。  そうと決まれば早く帰って休もうと、ポケットに手を突っ込みドル札を捻り出そうとした時だった。 「……っ! ……来たか」  空気がうねる。密やかなざわめきが潮騒のように広がり、肌に触れる空気の温度が上がった。  じりじりと肌が焦げる音がしそうなほど、それは狂喜めいた熱気となってとぐろを巻き、カウンターに座る虎徹をも飲み込んだ。  飛び火したかのように虎徹の胸もまた昂揚し、アルコールで湿る唇がわななく。はあ、と無意識に漏らした呼気の熱さは、酒のせいだけじゃない。  濡れた指先でハンチングを被り直しながら、ゆっくりと背後を振り返った。  虹色の照明が疾走する闇の中、一人、また一人と群れに加わり、黒い人だかりが出来ていた。  激しい調子で場を盛り上げるBGMすら遠くのものとする熱狂が、見る見るうちに大きく膨らんでゆく。  その中心、頭一個分は抜きん出た男の姿がゆらりと、蜃気楼のように揺れた。 (バニー、だ……)  瞠目した虎徹は、心のなかで独りごちた。まごうこと無く、それはバーナビーだった。  青の光射が浮き彫りにしたバーナビーは、以前と同様に黒のスーツを纏い、同色で揃えた帽子に豪奢な金髪を隠して、  目元をサングラスで覆っていた。顔が殆ど隠れているというのに、端整な雰囲気が滲み出ていて視線を奪われる。どこからどう見ても  やっぱりバーナビー以外の何者でもないが、あれだけの格好で周囲をうまく誤魔化せているのは場所柄、誰と特定しない雰囲気のおかげだろう。  ぱっと見は近寄りがたい、どこか危なげな風情を漂わせているのに、今にも埋もれてしまいそうなほど黒い影が集っている。  シルエットから女性は勿論のこと、男性も数多くいるようだ。  バーナビーを中心に輪を成している人達以外にも、突然現われた男をほうほうで伺っているのが判った。  バーナビーは誰彼構わず、親しげに喋っては笑っているようで、小刻みに身体を揺らしている。  来たばかりだというのに即座に場に溶け込んで、もう笑い合うなんて――彼は何度、この場所を訪れているのだろうか。  もう何度、自分の知らない「バーナビー」を他人に見せているのだろう。  ちくりと、胸が痛んだ。ヒーローとして、相棒として虎徹がよく知るバーナビーはここにはいない。  ここに居るのは、過去も未来もなく現在だけを楽しむ男の姿だった。 「あ……」  誰とも知れない今時の男がバーナビーへと腕を伸ばした。  長年の友達だという風情で広い肩を抱き寄せては、帽子から覗く耳へと唇を寄せて――見ていられず、虎徹は身体を戻した。 (なっさけねーの、俺……)  そのままテーブルに力無く突っ伏して、組んだ腕に顔を埋める。  凶暴になる胸のうちを煽り立てるかのように、背後はいっそう盛り上がっていた。  甲高い口笛が飛び交い、女の黄色い声が次々と上がって何やらよからぬ事が起こっているらしいが、確認する気にもなれなかった。  目を閉じて自分だけの白い手を想像する。男らしく筋張った甲の割に、すらっと長く綺麗な指をしている。  おそるおそる手を伸ばせば届くよりも先に絡まってきて、恐れを払拭するように強く握り締めてくれる。  そのまま力強く胸に抱かれて、耳元で甘く呼んでくれるのだ。虎徹さん、と。  ふる、と虎徹はスツールに預けた尻を揺らした。腰の奥から甘いというには刺激の強すぎる熱が生まれ、身体が痺れる。 (あれが、ずっと欲しいんだ……)  今でも夢に見る、バーナビーの赤い舌先――口元へと巻き戻るそれに奪われた、最後の白濁。  飲めと言ったのはバーナビーの癖に、なぜ最後の一滴をくれなかったのだろう。心残りが執着となり、虎徹を離してはくれない。  未だ引かぬ喧噪はガンガンと響くBGMに混じり、頭を殴りつけてくる。  忍び寄ってきた酩酊感に身を委ね、虎徹はバーナビーを想った。  あの晩、彼は言っていた。ここは相手を、今を守る術なのだと。容赦ない行為を強要しながらも触れる手は優しく、疑いようの無い愛情が滲み出ていた。  表情は見えなかったが、あえかな呼気を交えてにこうも言っていた。『決して相手に知られてはならない感情を押し隠すのも限界だ』と。  バーナビーの双肩には一人で背負うには重いだろう皆の期待が圧し掛かっている。  しかし、苦しい顔を一切見せずにこの街のヒーローであることを選び続け、人々から喝采を浴びている。  そんな彼が、現状を脅かしかねない危険を冒してまで、夜毎店に来るのは何よりも大切な者を守る為だという。 (……いい加減、諦めねぇといけねえのは、判ってんだ。初めから見込みがあるなんて、思ってなかったし……)  コツ、と小さな音がすぐ側で鳴り、テーブルが僅かに揺れる。  のっそりと頭を上げれば、空っぽのロックグラスがペットボトルのミネラルウォーターに変わっていた。  確かに喉が渇いていたし、今はアルコールよりも冷えた水が欲しいと思っていた。――これではもう、常連と呼んでも差し支えないではないか。  ポケットに手を突っ込み、あるだけの金を引っ張り出してテーブルに広げた。  黙々と仕事をこなすバーテンダーがちらりと視線を向けては、また手元へ目線を落す。  今回のサービス料は高くつくようだと、虎徹は釈然としないながらもうひとつのポケットに手を突っ込んだ。    

 

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