アポロンメディア内のとある廊下。静まり返ったその場所を無遠慮に荒らすのは二つの靴音。 けして重ならないふぞろないな音、けして縮むことのない一定の距離間は二人の拮抗状態を如実に表しているかのよう。 時刻は十時半。お昼休憩には未だ遠いものの、始業時から早々に白旗を揚げていたほどデスクワークが苦手な虎徹は ろくに触れていなかったキーボードから指先を外し、少しばかり休憩しようとフロアを飛び出して休憩室へ向かっているのだが。 金魚のフン、もとい可愛くない後輩で頼りになる相棒のせいで、心落ち着くことすらままならない現状に内心溜息をついた。 (ツレションする女子じゃあるまいし、何でついてくるんだよバニー……) しかも声を掛けることなく黙々とついてくるものだから不気味でしかたない。 思っていることは良くも悪くも口にするタイプだから、沈黙ほど怖いものはなかった。きっと何か言いたいことがあって、一緒にフロアを出たに違いない。 (……なんて、大体想像つくけどさ) 耳の奥から蘇るのは普段よりも甘く舌ったらずな響き。 すぐ目前の出来事であるかのようにはっきりと思い出せる、シュテルンビルドの壮麗な夜景のような、アルコールでとろけ煌くグリーンの瞳。 『あなたが好きなんです、虎徹さん』 コイツ、かなり酔っ払ってるな――虎徹は彼を見つめながら、陶器のようにつるりとした頬の赤さを街頭の白熱灯で知る。 おじさんから虎徹さんと、信頼と情を込めて呼んでくれるようになってしばらく、両の指ではもう数えきれないほどプライベートでも共に過ごす時間が増えた。 バーナビーのお勧めだというやたら美味いイタリアンで腹を満たした後、行きつけのバーへ寄った昨晩もそのひとつであり、互いの住居がある ゴールドステージとブロンズステージへ続く交差点で別れ、いつも通り帰宅の途につくはずだった。 また明日、軽く手を振りブロンズへの道なりをふらふらと辿り始めた虎徹の右腕が不意に動かなくなった。 衣服越しに強く食い込んでくるものが熱くて熱くて、火でも触れたのかと慌てて振り返った拍子に告げられたその言葉。 大量に摂取したアルコールのせいで巡りの遅い頭が一歩遅れて現状を理解すると同時に、いくら態度が軟化したとはいえ 好意を露にしたバーナビーが物珍しく、虎徹はまじまじと彼を見つめた。 時折吹き付ける冷えた風になびく細い金髪、眼鏡越しに伺えるのは潤み輝くグリーンの瞳、肌理の細かい白い頬は朱に染まり――周囲を照らす街灯の元、 今晩はどちらも飲みすぎている事に改めて気がついた。千鳥足かつ無駄に笑い上戸な酔っ払いの典型である虎徹とは違い、しっかりとした足取りや ぶれない眼差しでこちらを射抜く彼もまた酷く酔っているらしい。 たらふく飲んでさえ美貌は霞むことなく更に増しているようで、同性とはいえ見ていられないほど色っぽかった。 「虎徹さん、好きです」 さりげなく視線を外そうとした虎徹を引き止めるかのように、また言葉が紡がれる。 もうすぐ日付を跨ごうとする時間帯。歩道を歩くのは虎徹とバーナビーの二人だけだが、隣の車道を走る車は途切れる事が無く 高らかにエンジン音を響かせ去ってゆく。 舌ったらず気味な声で。とろんとした瞳で。色付く頬で。酔っ払いの戯言だと片付けて笑うことが出来たはずなのに。 雑音にかき消されることのない力強さに満ちた言葉のせいで、彼の想いが紛れもない本気なのだということが伝わってきて 笑う所か口を開くことすら虎徹には出来なかった。腕を掴んだままの掌がやけに熱く、その熱がこちらにまで伝染したかのように じわじわと身体中に広がっていくのを止められない。 視線を外そうとしていた虎徹はいつしか、魅入られたかのように僅か上にあるグリーンの瞳を見つめ続けた。 繊細な金の縁取りで彩られた瞳の美しさをとうに知ってはいたのに、まだそこには虎徹の知らない何かが潜んでいそうで 瞬きすら惜しいほどに離れられなかった。 バーナビーも鳶色の瞳と視線を絡めたままそれ以上言葉を発することもなければ、瞳の奥を覗き込んで何かを得ようとすることもなかった。 掴んでいる腕を引き寄せることも、手放すこともしない。 寒空の下でただ見つめあい熱を通わせ、刻々と更けゆく街の中で立ち尽くしていた。 昨晩の記憶はそこで途切れ、気がつけば自宅のベッドで朝を迎えていた。 着の身着のままで横たわっていたものの、貴重品はベッドサイドのテーブルに纏めて置いてあるし靴もしっかり脱いであることから、無事帰宅出来たようだ。 清廉な朝陽をブラインドの隙間から浴びながら昨晩を反芻すれば、あれはアルコールの見せた性質の悪い夢なんじゃないかと思った。 そうでなければあの完璧を絵に描いた男が既婚者で子持ちのおじさんにあんなことを言うわけがないのだ。 そもそも、彼の言った「好き」はどういった意味を持つのか聞き損ねていた。真摯さに呑まれ、その意味を問うことすら出来なかった。 腑に落ちず、悶々としたものを二日酔いと一緒に抱えながら出勤した虎徹を迎えたのは、普段通りのバーナビーだった。 昨晩同じくらい飲み過ぎただろうに、早々に着席しメールのチェックをしていた彼にその名残は一切ない。 朝からバタバタとフロアへ駆け込んだ挙句、おざなりに挨拶してきた虎徹に丁寧に言葉を返しては「遅いですよ」と毎度恒例の小言つき。 涼しげな顔でパソコンを見つめる横顔も至って普通。一言、二言会話を重ねてもバーナビーはバーナビーなので、元来考えることが苦手な虎徹は 昨晩のことを夢なのだと思うことにした。 そのはずなのに。 「……昨晩の返事を聞かせて下さい」 長い沈黙を破り、廊下に響き渡った誰何の必要もない声。 硬質なそれに背を打たれた虎徹が歩みをそのままに肩越しに振り返れば、眉を吊り上げグリーンの瞳で睨みつけてくるハンサムな男がひとり。 ――昔の自分も、あんな必死な顔をして女の丸い尻を追い掛け回していたのだろうか。 見覚えのありすぎる男の顔に、昨晩の出来事が夢まぼろしではないことを知る。 ついでに「好き」の意味がライクでなくラブな意味であることにも、鈍いと専らの評判な虎徹にも分かった。 「……あー、あれ、本気なの?」 「当たり前です。あなた、かなり酔っ払っていたから覚えていないと思ってましたけど、しっかり覚えてたんですね」 いや、酔っ払ってたのはお前だろ……そう返そうと唇を開きかけた虎徹だが、幾分表情を緩めたバーナビーを見て口を噤んでしまう。 「んー、あのさ、一晩でそうそう答えが出る問題じゃないと思うんだけど、バニーちゃん?」 「なら、僕の顔を見てそう言って下さい。」 「歩きながらでも会話できるだろ」 規則正しい歩みを止めず返せば、バーナビーが苛立ったのが背を向けていても判った。 その割りに虎徹を止めようとも、隣に並ぼうともしない。そのまま黙って廊下を突き進んでゆく。 どうやら若者は本気らしい。本気で虎徹のことを「好き」だという。 思いもしなかった現実の到来に、さてどうしたものかと考える余裕など、四十路を前にしてさえ落ち着きのない虎徹には、 残念ながら持ち合わせていなかった。 確かに嬉しいと思う。これまで反発しあっていた過去を思い出せば、虎徹さんと呼ばれたときと同等かそれを上回る勢いで、好意を向けられるのは嬉しい。 だが、それ以上に若者の本気とやらが怖かった。 どこまでも追い掛け回してくるのがついこないだスカイハイからKOHの座を奪い取り、巷で大人気のニューヒーロー、 バーナビー・ブルックスjrだということも恐怖のひとつである。金も実力も美貌も兼ね備え、女も選り取りみどりで輝く将来を確実に約束されているだろう男が、 何故オチコボレのヒーローと称されるおじさんでしかない虎徹を好きだと言うのだろう。我が事ながら理解に苦しむ。 「で。バニーちゃんは俺にどうして欲しいわけ?」 「あなたが僕を好きだと言って、抱きしめて、キスして、セックスしたらです」 「おま……っ、そんなあけすけに……!」 いくら人がいないからって、ここアポロンメディアの廊下だぞ! 思わず怒鳴りつけたくなる衝動をぐっと堪えた虎徹は勘違いをする暇すら与えない、 はっきりとした答えを前に年甲斐も無く顔が熱くなってゆくのを感じた。 「あなたが知りたいって言ったんでしょう? 数秒前のことも忘れるなんて、どれだけ馬鹿なんだ」 「そりゃないだろ! 必死な顔で追いかけられてみろって、おじさんだってな、怖いもんは怖いんだぞ!」 「おじさんの癖にカマトトぶるのはやめてください、気持ち悪い」 しまいには本当に好きだ惚れたというヤツが使う言葉なんかと、頭を抱えたくなる。 どうしてこうなった! と誰に問いかけようとも、こんなことを相談できる筈がない。 ヒーロー史上初のコンビ二人が男同士のアレコレで修羅場ってますーだなんて、冗談にもほどがある。 将来有望な若者の、天高く聳えるジャスティスタワーにも匹敵するだろう高いプライドの為「おいおいバニーちゃん、どこかに頭でもぶつけましたか?」 と うろたえながらも頑張っておどけてみたが「あなたじゃあるまいし、冗談でこんな事を口にするはずがない」と容赦なく一蹴されてしまった。 何でこんな金も地位もない、子持ちのおじさんに執着するのか。 まっすぐに視線をぶつけてくるグリーンの瞳にそういった欲を感じることがないから、自分自身に対して執着しているのがわかった。 恐らく彼の過ごしてきた孤独な幼少時代が影響しているのではないか。虎徹に失ったものを求めているのではないか――そう結論付けるのは容易いが、 相棒としてまだ間もない虎徹は彼の全てを知っている訳でもないし、昨夜の真摯な言葉を思い返せば、それだけではないと漠然ながら思っている。 しかし、必死な顔で追いかけられることに、少しばかり気持ちよさを感じているのは確かで。 ちょっとだけ――ずるい考えが頭を擡げたって、仕方がない。 少しくらいなら許したっていいか、などと思ってしまうのも、仕方ない。 中身はともかくとして、熱烈と言ってもいいくらいに慕われる事が久々だった。 しかも誰もが憧れ熱望するニューヒーローから求められれば、誰だっていい気持ちになってしまうに違いない。 歩み続けていた足を止める。追いかけてきていた背後の音も同時に消え、振り向けば変わらない距離の先にバーナビーが立っていた。 まるで二人の間に見えない白線が敷かれているかのように、その一線を越えてこない。 強引な癖にたった一歩を踏み出せない、バーナビーの不器用さが虎徹の胸をくすぐってやまない。 大分険が抜けたとはいえかなりの自信家である彼の、年相応の男としての顔をひどく可愛いと思ってしまう気持ちが 父性を伴う庇護欲だと言い切れるのだろうか。 もしかしたら彼のいう「好き」のひとつかもしれない。 どうなりたいか、そんなものは判らないし判りたくもないが。 「……じゃあ、おてて繋ぐ所から、始めてやってもいいぞ」 つい身体の横に垂らされた左手を握ってしまった。滑らかな手の甲へ視線を落せば、ひくりと指先が小さく揺れる。 こんなにもガタイに恵まれた男のくせに、何で可愛いと思ってしまうんだか。 「あなた、子供ですか。今時の子供ですらそんなこと、言いませんよ」 「そうだろうね、今時の若者がこうだもの」 それでもおくびに出さず強がるバーナビーの手を軽く引っ張って見えないラインの内側へと招いてやれば、逡巡を浮かべた瞳がこちらを伺ってくる。 何をするのか、期待していいものか。素直じゃないくせに素直な瞳がまたかわいらしい。 自然と間近に迫った額を指先ではじいてやれば美貌が不満げに歪んだ。その崩れた顔さえ可愛いなんて反則だ。 ほだされた、その一言で済むうちに。若者の暴走でした、そう彼が言い訳できるうちに。 空いている左手でふわふわとした頭を撫でるだけで満足するうちに、どうか目を覚まして欲しい。 ズルイ大人なんだと、バレてしまわないうちに。 「子供扱い、しないで下さい」 「俺から見ればお前だって子供だよ、バーナビー」 ぐしゃぐしゃと撫で回す金の髪の隙間から見えるシルバーの指輪が、廊下の蛍光灯の下できらり輝いた。 その眩さに細めた虎徹の目の意味を彼はどう取ったのか。 眼鏡の下の双眸は弧を描き、どこまでも素直だった。 余裕すらないらしい若者は怖い。若さで何でも超越し、奪いかねない暴力じみた力強さが、怖い。 繋いだ手から生まれる熱の心地よさを知るのが先か、手放すのが先か。 (あーあ、かんわいいもんに懐かれちまったなあ……) 虎徹の口元がバーナビーの瞳に負けじとしなる。 明日からどうなることやら――ぎゅっと握り返してくる力の強さに、やぶさかではない自分がいるから、困る。 「若者の本気が怖いおじさん」H24.3.9