真夜中の誘惑





「マース」  突然背後からかけられた声には、嫌と言う程に聞き覚えがあった。  真夜中の静かな廊下に響くその声は一度聞いたら耳から離れない、魅力的な低音。 その声で脳裏に浮かんだ端正な親友兼恋人の顔に、ヒューズは自然と頬が緩んでしまいそうになったが、ここは神聖なる病院である。  不謹慎な私情を持ち込むような場ではないと軽く頭を振り男を追い出すと、自らを戒めるように咳払いをし、ついでに眉を顰めた不機嫌顔を装い首だけで振り返った。 「って近っ!」  振り返ってすぐ側にあったのは、つい先程頭から追い払った男の顔。  思わぬ近距離にヒューズは素っ頓狂な声をあげ、驚きのあまり背を仰け反らせ距離を作ろうと試みたが。  予期せぬ出来事に動転していたが為に足がもつれ、更に運悪く磨かれた床の上を靴先が滑りバランスを崩してしまった。 「おわっ!?」 「マース……!」  倒れる!――来る衝撃に歯を食いしばり瞼を閉じた瞬間、男の切羽詰った声が耳を貫いた。  常に冷静沈着な男の滅多にない大声が珍しく、重力に身体を任せたまま再び開いた視界に飛び込んできたのは真っ白なモノ。  それが男の白衣であることを意識するよりも早く、ヒューズの身体は衝撃を持って固い床に転がった。 「っ……大丈夫か? マース」 「そりゃお前だろっ、ロイ! 医者の癖に怪我したらどうするんだ!」  下からこちらを伺う声にヒューズは怒り交じりで返事をすると、バランスを崩した身体を咄嗟に庇おうとして下敷きになった男――ロイの  身体から慌てて立ち上がろうと床に手をついた。  が、背に回された腕の拘束が強まり、ヒューの意思とは反してロイの胸元へ引き寄せられてしまう。  身じろぎすらも許さない横暴めいた腕に何度か逃れようとするも、上半身は元よりいつの間にか下半身までをも  相手の足に巻き付かれ、成すすべなく捕えられる。  ヒューズ自身、力がないわけではない。しかも然程変わらない体格のロイと、力も変わりなかったことを記憶している。  だが、もがいてももがいてもこの状態から逃れられなかった。どこにそんな力が潜んでんだと、長年の付き合いの中でも  知りえなかった事実を前にヒューズは悔しげに唇を噛み、力技で抵抗することは諦めて直接抗議しようと唯一自由になる頭を上げた。 「おい、腕を……ん……っ」  文句を紡ごうとした唇を、不意に柔らかい感触が塞ぐ。  抵抗の間も与えずそのまま強引に顔を寄せられて、口元から漏れた濡れ音を合図に深く唇が重なる。  柔らかいロイの唇の奥に潜む、熱くぬめる粘膜がヒューズの唇に触れ、その甘く心地よい感触に身体が疼いた。  もっと欲しい、頭に響くもう一人の自分の声。共鳴するかのように身体の奥底に灯ったのは悦びの焔。  揺らぐ内なる興奮が唇を割り侵入してきた柔い舌先に煽られ、鮮やかに燃え盛るまま自らも舌を伸ばし、受け止めるように絡んでゆき。 「!?」  ねっとりと戯れる舌先が生み出す卑猥な水音が思いのほか廊下に響いたことで、ここが病院内の、いつどこの誰が通るか  判らない廊下だという事を思い出して、ヒューズの酩酊じみた快楽が一気に吹き飛んだ。 「っ……!! 駄目、だっ……!」  寸での所で頭を出した欲望を押し止めると、必至に首を振って口付けから逃れる。  時間にして僅か数秒口付けていただけなのに反応し息の上がってしまった自分を情けなく思いながらヒューズは  何度も胸を喘がせ呼吸を整える。 「マース、やめていいのか?」  そんなヒューズの耳元を、吐息を絡めた艶のある低音が掠めた。  ゾクリと奥底が震え落ち着こうという努力が一言で跳び、忙しない鼓動を身体全体に響かせながらどこまでもからかおうとするロイへ、  ヒューズは恨めしげに相手を見下ろした。 「……!」  対峙したのは――心の底までをも見透かす力強く、淫靡な輝きに満ちた黒い瞳。  甘く激しい時間へと誘う熱視線。脳裏に幾度も濃密に身体を重ねてきた記憶が蘇り、身体が見知った疼きに囚われる。  吹き飛んだと思っていた快楽の再来を、熱く潤みゆく瞳で知る。  目の前の男によって刻み込まれる甘美な快楽を知っているヒューズには、誘いかける眼差しから逃れる術を知らない。  震える身体が、欲求に揺れる心が黒い瞳に絡まれ逸らせない。 「お前の心音、異常に早いな? ほら、頬も熱い……」 「ロイっ……悪ふざけは、よせっ!」  重なった身体から心音を聞き取り、ひんやりした右手で頬を撫でられ初めて、自身の頬が熱を持っていたことに気がつく。  知らず内に紅潮していた頬を見られていたのだと、更なる羞恥がヒューズを襲い相手の白衣を握った手が縦横無尽に皺を作る。 「悪ふざけ? 私は医者だ、オカシイ所があれば診る、それが仕事だ」 「んな……やらしい顔して、たら……おかしな医者にしか、見えんっ」  内で滾り始める興奮でかすれる声がうっとおしい。  これ以上は流されまいと堪えようとするも、ヒューズは男の色香に抗えない。 「やらしい顔をしているのはお前だろう? どうして目を潤ませている? これはしっかりと診察する必要があるな」 「そんな、こと……」  ない、と咄嗟に否定しようとした言葉も、自らの身体へ意識を向ければただの嘘にしかならない。  上手い反論が浮かばぬ悔しさから唇を噛み締めて、無言で不敵に笑むロイを睨みつける。  睨みつけられたロイは怯む事無く、挑発するかのようにさらに笑みを深めてゆく。ただ、それだけのことでも、ヒューズは追い詰められたかのような気分だった。  自分自身の身体をヒューズ以上にわかっているロイにはもう、弱みを知られている。  初めから、勝ち目がないことは判っているのだ。この男を愛した瞬間からもう、自身の負けは決定付けられていた。  ただ、素直に認めるのが癪だから抗う。男からみたら他愛無いことなのだろうかと、わかっているのに、だ。  ニヤニヤと笑う相手の唇に歯を立てる。  この医者として優秀でモデル真っ青なツラした男を心の底から拒否するなど、誰が出来ようか? (少なくとも、俺は出来ん……)  自身の口から今にも飛び出そうになる一言を予見しているかのように、確信的な瞳でまっすぐに見つめる男を裏切る時は  きっとこの恋愛が終わりを告げた時だろう。 「っ……診て、くれ……っ」  羞恥心やプライドを堪え、震える唇の合間から降参という愛情を伝えれば。  途端、綺麗に微笑む恋人にヒューズの心臓はあっけなく限界を迎え、真っ赤になった顔を隠そうと目の前の広い胸へ頭を預けた。 「ああ、勿論。……しっかり触診した上で、お前の好きな私のぶっとい肉注射で熱を払ってやるよ、マース」 「はあっ!? この変態が……!!」 「結構、私は一筋縄でいかない患者の相手も心得ているよ。しっかり見てやろうな、マース」  無精髭の浮いた頬を両手で包み込み視線を合わせたままふわりと笑んだロイに、ああそうかこれが些細な症状でも患者が  押しかける原因かとこの病院で一番の人気を誇る医者の無敵スマイルを間近で食らい見慣れていたはずの恋人であるヒューズも落ちてしまった。 「あとで仮眠室に来るように」甘い囁きと共に降りてきた唇を、ヒューズは瞼を閉じ男の柔らかな肉に酔った。  朝を迎え皆のマスタング先生になるまで、時間は十分にある。  闇夜のベールで全てを覆い隠している今は目の前の男を一人で独占し、たっぷりと愛したって許されるだろう。  キスの合間に「今すぐだ」と注文をつければ、嬉しそうに目を細めた男から熱烈なキスをもってヒューズの願いにイエスと答えた。  長年の付き合いとはいえ、ヒューズにはまだ知らないことがある。  誰が通ってもおかしくない廊下で一回戦を始めようとした男の、海よりも深い愛を。 「マース、お前には私の白い薬がすぐに必要だ。上の口がいいか? それとも、欲しがりな下の口がいいか?  愛するお前に選ばせてやろう。特別に両方でもいいぞ」  そして、愚かさを。                                                      「真夜中の誘惑」H20.10.2

 

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