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「うわっ」 「馬鹿者。イイ酒なんだ、零すんじゃない」  心地よい酩酊感に身を任せ空いたグラスへ何杯目かのおかわりを注ごうとした際、目測を誤りグラスを支えていた指ごと テーブルへワインをぶちまけた俺を咎めるのは、聞き触りのよい低音。  聞き惚れる間も与えられぬまま「勿体無いことをするな」と続けたロイが、べったりと葡萄色で濡れている俺の手を捕えた。  ギシ、と些細な動作にも関わらず大人二人を受け止めているソファが甲高い悲鳴を上げる。 「……悪かったって。そんな睨みつけることかよ、ロイ」  ワインで濡れる手を黒檀の瞳に映しては一向に離そうとしない、常には見られない様子のロイに内心首を傾げる。   コイツは小さいことを気にするような男じゃない。たかがワインを少し零したくらいなら、叱責一つで済む状況だ。  それとも、俺が思っている以上にこの酒が年代ものでかなりの価値があるのだろうか?  確かに、今飲んでいる酒は俺なんかじゃ入手出来そうにない代物だが、若くして大佐の地位を射止めたロイは  かなりの高給取りな上に自由気ままな独身貴族。今までもこうして価値のある酒を振舞ってくれたことから下世話な話、かなりを溜め込んでいるとみる。  ……とまあ、所詮は俺の下らない妄想だ。いくら親友とはいえ、お互いの財布事情など話したことはない。  身じろぎすらせず熱心に指を見つめるロイにムクムクと罪悪感が込み上げ「悪かった」と何度も謝罪をしたものの。  言葉が届いているのかいないのか、その単純な判別すら伺えないロイはまるで、腕の良い彫刻家が魂を込めて作り上げた  見るものを魅了してやまない麗しい彫刻のようだ。見慣れているはずの俺でさえつい見蕩れる相貌はまさに眼福。  とはいえ、こいつは今俺の手を握っているわけで。 「なあ、本当に悪かったって、ロイ。いい加減、腕を放してくれないか?」  時を重ねるにつれ同じ姿勢を強いられている腕が痺れを帯び始め、いくらワインを零した張本人とはいえ流石に  文句のひとつも言いたくなるのは仕方がないと思いたい。  離そうとする気配の見られないロイに焦れて腕を引いた途端、逆に腕を引っ張られ――少しの躊躇いも見せず、ワインで濡れそぼった指をぱくりと食われた。 「お、おい……んッ!」  やめろ、続けようとした制止の言葉を、ザラついた舌に指を包まれたことで阻まれる。  キャンディを転がすかのように俺の指を舐めては柔らかく絡んでくる舌はどこかエロティックで、尖った舌先に触発されて  込み上げる吐息を漏らすまいとして唇を噛み締める。ぬめる温かい頬の内側の肉に挟まれて吸い付かれれば、よく見知った刺激が背を走り抜けてゆく。  生温かい口の中の居心地は正直悪くない。むしろ、気持ちがいい。  神経の詰まった指先から全身へと流れる甘い痺れのせいで、身体から力が抜けそうになる。 「ロ、イ……ッ、ぅ……」  いつもより熱っぽい瞳は、アルコールでとろけているせいか。  黒檀の瞳で見据えながら赤い舌をチラつかせワインを舐めとる挑発的な仕草に、心臓が大きく騒ぎ出す。ズキンと、  痛みにも似た感覚が身体の奥底から突き上げてきて、思わず隣に座るロイの肩へ体重を預けてしまう。  何時の間にか、ワインの被害を受けなかった指さえもやらしい舌の餌食になっていた。こちらの反応を全て見逃さないと  言わんばかりに視線を逸らさず舌を蠢かせるその所作に、俺の心と身体は昂る。 「っ……、ん。……んなたけえ酒、お前だけで味わうなんて……ずるいぞ」  気がつけば、ロイの手元にあった自分の指を引き寄せ、たっぷりと唾液が絡んだソレを口に含んでいた。  ここで止めろなんて言う気にはなれなかった。あてつけるように指を舐めていたロイの色気に、ヤラれてしまったのだ。  既に十分すぎるほど清められた指からはもうワインの味はしない。代わりに広がったのは、自分の指を舐めている俺を見つめる男の味。  ほんのりと甘さが滲んでいるように思えるロイの唾液は一種の媚薬だ。たった一口でも口にすればその美味さに身体が悦びに目覚める。  口にしたものを淫らに狂わそうとする催淫じみた唾液を、俺は夢中になって舐めた。  普段の自分なら、こんなこっぱずかしい真似なんてしない。  俺レベルじゃ滅多にお目に掛かれない高い酒がもたらす最高の酔いと、ロイが見せた淫靡なショーのせいで  呼び起こされた淫情に――幸せな夢が終わる間際の切ない甘さが、いつもの俺を砕いているのかもしれない。  はしたない水音を鳴らしながら指をしゃぶり上目に端正な面持ちを伺えば、男の喉が大きく上下した。  ロイのいやらしい変化に気がついた俺も、同じように喉を鳴らして応える。 「ッは……ロイ~、お前やらしいこと、考えてるだろ?」  ぬるんと吐き出した、唾液が滴るほどにベタベタな指先でロイの薄い唇をなぞりつつ面を覗き込む。 「下品なことを言うお前が、だろう? ……来い、ヒューズ」  押し付けた指先を甘噛みし唇を撓らせたロイが、両手を伸ばし抱き締めてきた。  空いている片方の腕で同じようにロイの身体へ腕を回して抱擁を受け止める。  酒を飲んでいるからか常よりも熱い吐息に絶妙なタッチで首筋をくすぐられ、たまらず服の上からでも判る逞しい身体へ擦り寄った。  こうして親友以上の振る舞いも今晩だけだと思うと、離れ難い気持ちになる。  終わらせようと言ったのは、俺からだった。  ロイは上へ行くべき男だ。男同士の爛れた関係なんて、上を目指す男の前では厄介な問題でしかない。  万が一にも俺達の関係が露呈してしまえば、ロイを憎からず思っている奴らがこれをネタに今の地位から引きずり下ろそうとするだろう。  異例のスピードで出世街道を驀進するロイは憧憬の的である反面、駆け足の昇進を訝しく思い敵愾心を持つ奴も少なくはない。  虎視眈々と、あわよくば失脚させようと狙っている者がどこに潜んでいるか判らない現状で長く付き合えば付き合うだけ、発覚する危険性も高まる。  何がキッカケだったのか思い出せぬほど長い長い享楽的な関係を今日に至るまで引きずってしまったのは、ロイと二人きりで  過ごす時間があまりにも楽しかったから、だけではない。  たかが身体の関係だと割り切り、ライトな付き合いをしていたはずなのに、いつしか俺はロイを親友以上の目で見るようになった。  親友として誰よりも近しい間柄では物足りず、もっと深く懐に潜り込んで俺のものにしたい。既婚者の癖に、ロイを愛してしまった。  組み敷く時に見せる、獲物に食らいつかんとする雄の本能を纏ったロイがたまらなく欲しかったんだ。  この感情は関係が始まった当初から胸に居座っていたのだろう。芽生えた欲の小さな産声に気がつかないまま  ロイと過ごす淫欲の日々がゆっくりと、大きな感情に育て上げてしまった。  他意のない些細な触れ合いやアイコンタクトに、心と身体が歓喜に震えてしまうほどに。  肉体的な接触はあれど、ただの遊びでしかない関係。元からロイに気持ちを伝えるつもりなどなかった俺は必至に押し隠してきた。  ただ側でロイが欲しいと願い、僅かな間でも独占出来るだけで満足だった。  自身の醜いエゴを無視して欲に溺れていた俺が目の前の大きな問題に向き合おうと思ったのは、他の誰でもない愛しいロイがきっかけだった。 『俺は今の軍を変える。覚悟は決めたよ、ヒューズ』  ロイは二人きりになるたび未来を語った。無駄な血を流し合ったイシュヴァールの悲劇を繰り返さぬように、と。  同じ戦場を駆け抜け悲惨な戦争で大切な仲間を失ってきた俺だって、軍をこの国を変えたい、そう考えたことは何度だってある。  強く変えたいと思う反面、俺にはその力がないことを感じてきた。  変えると言うのは簡単だが、ロイが生半可な気持ちで口にしている訳ではないことを、仕官学生時代から連れ添ってきた俺には判る。  一言一言、言葉の重みを噛み締めるように語る男の瞳は、若かりし頃に青臭い理想を語り合ったものに酷似していた。  真っ直ぐに、目の前にある道を望む淀みのない瞳。俺の目も負けじと輝いていたんだろうと思う。  あの頃は自らが飛び込もうとしていた世界の大きさも知らず、胸のうちに秘めたいっぱしの理想や野望を語ることが楽しかった。  未来を語る様に二度と戻れない青い春を見出してから、理想主義めいている所もあるが宿願を秘めた瞳で自らが描く未来を  昂然と説く男に、深い興味を持ってしまった。  ロイ・マスタングという人物が牙を剥き、どこまで上層部に食らい付くか。  圧倒的な権力を前に、成し遂げる力を持ちえている男はこの軍の中でも恐らくロイしかいない。理想を堅持しゆるぎない強い焔を  宿す男の行き先を、コイツの側でずっと見ていたいと――願いを抱く一人の軍人として同じ男として人間として、惚れ込んでしまったんだ。  上に食らいつこうとするロイのことを一番に考えた結果、重荷にしかなり得ない関係を解消しようと思った。  身体を、言葉を重ねるだけが愛じゃない。持てる力でサポートし、側で男の行く末を見つめるのが、俺の愛だ。  元より一方通行の愛、目指すべき形と何ら変わらない。   不埒な関係にピリオドを打つのは早ければ早い方がいい。  今ならば酔っ払いが起こした火遊びと言い繕うことも可能だろってことで、無粋にもセックスの最中に「次で最後にしねえか?」と  上に乗る身体をきつく抱き締め、ロイの柔わらかい耳朶を食みながら囁いた。  俺の首筋に顔を埋めていたロイに何か理由を問われるかと思っていたら、ただ一言「ああ」であっさりと別れを受け入れた。  いくら決意をしたとはいえ無味な一言で了承するなど予想外で、正直俺はその程度の存在だったのかと、揺  さぶられながら内心ショックを受けてみた。遊びの関係でありながらもけして短くはない時間を二人で共有し、俺はロイを  愛してしまったとはいえ生粋の女好きであるロイにとっちゃ俺は、身体の付き合いも含めたただの「親友」だったんだろう。  その後の態度も変わりなく流れていくのは普段と同じ日常。  仕事で顔を合わせたり誰もいない所でちょっかいかけてみたり、退屈と刺激に溢れた日々を越え、いつものように  ホテルの一室を借りた俺達は普通に最後の逢瀬を迎えた。  特別なことなど何もなかった。俺からも特別なアプローチはしなかったし、ロイも何も言わなかった。  ――いや、最後だからいつもと同じであることを無意識に望んでいたのか。  最後だからこそ、変化のないことがより大切に、愛しく思うのかもしれない。  ロイの愛用する香水の香りが鼻をくすぐる。変わらない嗅ぎなれた香りに触発され、押し留めていた愛情がどっと溢れてくるのを止められない。  別れを決心した癖に直前になってまた揺れ出す情けない感情から逃れるように、唾液で濡れたままの指先をテーブルへ伸ばし  中身が残っているロイのグラスを取った。荒っぽい所作のせいで不安定に揺れる葡萄色を一気に呷る。  喉を焼く強いアルコールが、胸の淀みを一掃し至上の幸福を齎してくれた。 「……あー、さすが大佐殿が選ぶ酒に間違いはねえな。やっぱ美味い!」 「だろう? お前は今、世界一幸せな男であることを私に感謝するんだな」 「へいへい、感謝してますよマスタング大佐。ほれ、この通り」   酔っ払いよろしくな振る舞いで悲鳴を上げる心音を誤魔化しながら、密着しているロイの頬へ軽いキスを送った。  くすぐったいぞと笑う男の精悍な頬に差す赤みから、良い具合に出来上がってることがわかる。  軍務についている男のくせして色白で優男タイプの野郎がうっすら赤みを帯びるっつーのは、大層な色気を伴う。  こいつと長い仲である俺ですら、いくら経っても慣れずすぐに欲情してしまいそうになる。 「どうした、マース? ……何が欲しいんだ?」  覗きこむ確信に満ちた黒い瞳が、甘やかそうと優しく細められた。  目の前の男が俺をファーストネームで呼びかければ、甘やかすという甘えたが出た何よりもの証拠。  俺が何を望んでいるかなんて感情の機微に聡いロイならば見透かしているくせに、いちいち口にさせたがる所は関係が始まった当初から嫌いだった。 「わかってんだろうがよ、ロイ」  ガキっぽく唇を尖らせて睨んでやるもロイの甘い笑みを前にすれば、ささやかな抵抗も僅かな間だけしか続かないわけで。  本気と今晩限定のおねだりをこめた唇を相手のソレへ更に寄せる。 「さあ? 私はお前じゃないから判らんが」  弧を描く唇を無意識に目で追ってしまう。  ワインをたっぷりと味わった唇は赤みを帯び、今にも落ちそうなほどに熟した果実のようだ。  俺を妖しく誘ってやまない艶っぽさに、もう一押しをしようとする理性が削がれてしまった。……焦らされるのは、苦手なんだ。 「……ちっ、今日だけだからな」 「今日だけもないだろう、今晩で最後なんだ」 「わーったよ。早くキスしろ馬鹿野郎」 「可愛くないな」 「可愛いオヤジなんて気持ち悪いだけだろう」 「まったくだ」 「おい、フォロー無しかよ! っ、む……んうッ……ふぅん……っ」  思わず身を起こしかけたものの、すぐに迫ってきた唇に行動を邪魔された。  力強い腕に引き寄せられながら重ねた唇が、互いのソレの形に沿って潰れる。空気さえ入り込む隙間のない口付けから  想像以上の熱さと切迫さを感じて、ロイも同じくコレを欲していたのかもしれないと思えば愛しさで胸が締め付けられた。  身体の隅々まで俺を知っているロイが仕掛ける口付けは巧みで、ウィークポイントを重点的に責める尖った舌先にロクな抵抗も出来ずに溺れてしまう。  こいつと関係を持ってから徹底的に快楽を味わってきたせいか、身体は欲に弱く正直で、たかが口付け程度で戻れないほどの興奮を帯びはじめる。  角度を変えては深く浅く唇を吸うロイのせいで強制的に引き出される、どこか媚を含む鼻にかかった声を堪えずに空へ散らしてゆく。  俺自身気持ち悪くて吐きそうになるこの甘ったれた声を、ロイは好きだという。今晩だけはロイを信じて出欠大サービスだ。 「……ッ、は……いやらしい声で鳴くんだな。可愛すぎるぞ、マース……勃起しそうだ」  口付けを解いたロイが欲情丸出しの双眸を向けたまま、唾液で濡れる唇をしならせる。  黙っていればいいのに、いちいち卑猥な囁きで俺を辱める男が憎たらしくて仕方ない。  常よりも潤み歪んで見える視界いっぱいにロイを映し睨みつけるも――同じように黒い瞳を熱情で溶かしている男の  あまりに煽情的な様子にあてられ、四肢を巡る甘い痺れに押された声が淫らに響く。  ああ、駄目だ……やっぱり、俺は最後までロイには敵わない。心と身体が、こいつを欲しがっている。 「う、ぁぁ……っ、ばか、やろ……っ! 話すひま、あるならっ、もっと……しろっ、うぅん……っ!」  言葉を交わす僅かな暇すら惜しくて飲みきれない唾液を垂らしながら抗議をすれば、皆まで言わせぬ強引さで再び唇を貪られた。  唇を幾度もぶつけ合い、更なる快楽が欲しくて誘いかけるべく大きく口を開けば、意図を汲んだロイのぶ厚い舌がすぐに侵入してきた。  狭い口腔内で暴れまわっては俺の舌を捉えると、思い切り吸い上げられた。腰にクる甘い衝撃に、背を弓なりに反らして悦楽を受け止める。  室内いっぱいに響く淫らな音の洪水が、俺の身体を淫靡な海へ招こうとする。  ぼんやりと霞がかる思考に、はっきりと浮かぶのは欲望。もっと欲しい。男が、ロイが欲しくてたまらない。  もっと深いところで繋がり身体をぶつけあって、ロイの熱い飛沫で奥底を犯して欲しい……!  淫らに啼くよりもきっとこの目が俺の気持ちを如実に表しているだろう。  ひとかけらも零してしまわぬよう黒い瞳にしっかりと焦点を合わせ、膨れ上がった欲情に流されるがまま、力いっぱいロイの胸を押してソファに押し倒した。  遠慮なく身体に乗りかかっては唾液まみれな唇から滴る液体を降らせ、くっつけた。  ぐちゅんと鳴る小気味良い淫音に深い場所で眠っていた、ロイに躾けられた欲望の獣が目を覚ます。  愛する人を抱きしめ時に人を殺す兵器となる両手は男の愛を請う器と化し、太い首へ娼婦のようにしなだれかかり。  生に必要な飲食をする口は愛撫を請う性器と化し、ドロドロとよだれの雨を降らせながらキスをして。  下腹部にある男の象徴は快楽を強く求める素直な愚物と化し、愛しい男の衣服の上からでも判る程に立派な雄を煽ろうと淫らな腰つきで擦りぶつけてゆく。  理性を手放した自身は驚くほどに悦楽に忠実となり、身体中でいやしい欲望を表現する。  本能が露になった互いを目に焼き付ける為に、いやらしい表情を求めて目を閉じることなくソファを鳴らしながら激しく欲のままに振舞おうとするも。   「……っ、がっつくなんてはしたないぞ、マース」  不躾な指先に涎まみれの唇を覆われて、叶わなかった。  掌に押され熱に焦がれた顔が遠のいていく。   「ッ、ロイ……俺、俺は……ッ、むぐ……!」 「お前が欲しいんだ」と続けようとしたが、ベタベタに濡れた唇を乱暴に指先で拭われて言葉にならなかった。  言わせない、と。  下にある欲で揺れる瞳や熱い指先から明確な意思を感じ取ってしまい、躊躇してしまう。  今までコイツから拒否をされたことなど一度もなかった。お互いに互いが欲しい時は首を振ること無く受け入れてきたから、  拒否された時はどうすればいいかなんて、考えたことなどなかった。身体が痛いほどに疼いていても、それ以上進むことが出来なかった。 「……そんな目で見るなマース。犯したくなるだろう?」  苦笑しながら頬を撫でてくるロイの瞳は変わらずに熱く滾っていた。 「交じり合いたい」――二人の間を行き交う熱情があるのに、何故進めない?   「……いつもはすすんで……犯してる、だろ……」 「そうだったか? 俺はいつでもお前が先に欲しいとせがむから、遠慮なくご馳走になっていたんだが?」 「おい、紳士ぶってんじゃねーよ……お前が先に手を出してきてただろ、いつも派手に食い散らかしやがって」 「文句を言う割りにはお前だって盛大によがっていたじゃないか。じっくり時間をかけてメインディッシュを味わってやったのに  「まだ足りない。今度は上の口に欲しい」と、啼いてねだっていたじゃないか」 「はあっ!? おまっ、んな事言った覚えないぞ!? ……今に始まったことじゃねーが、本っ当に変態だなお前さんは……」  身を持って判っていたことではあるが、おキレイな面して下品な言葉を並べたてるロイに呆れて首をうなだれる。  そのまま額を硬い肩へ預ければ、笑う気配と共に頭を撫でられた。てっぺんかと思えば側面へ、側面かと思えば後頭部へ……  存在を確かめるみたいにほうほうへ触れていく指先は熱いのに、幼子を相手にするかのような仕草には情欲の香りなど微塵も感じられなかった。 「……お前がどんな判断で、終わらせようとしたのかは聞かない」  頭を二度、三度と軽く叩いて囁きかける吐息の熱さに首を竦める。 「俺はこう見えても弱い人間なんだ。今手を出してしまえば離れると言うお前の四肢を切断してまで、ここに置こうとするかもしれない」 「恐ろしいこと言うなよ……」 「流石に冗談……と言いたい所だが、俺はお前とだったらこの地位も捨て、戦争を放棄し、家族を捨てさせて一緒になるのも  構わないと思っていたんだよ。本気でな。……マース、俺はお前を……」 「ッ……ロイッ!」  言葉を受け止めた耳が熱い。めまいを起こしたのか、景色がグルグルと回ってゆく。  遠く離れて行く意識をこの世に留めようと伸ばした指先に硬い掌が絡まる。慣れた熱なのにどこか新鮮な感触を帯びるそれに、悪酔いしそうになる。  甘さと苦さが混じりあった不協和音を奏でる鼓動が身体を、決意を揺らしにかかる。今だけは、こいつの顔を見ちゃあ駄目だ……  一瞬でも視界に入れてしまえば、歓喜で震える唇を無理矢理押し付けてまた危ない日々を過ごすことになる。  ロイの願いを側で見届ける、可能性に満ち溢れた未来すら奪いかねないというのに。  自分自身へ必至に言い聞かせながらも、擦りあわされる掌に縋りたくなる。肌と肌の間で生まれる熱が心地よく、愛おしい。  ああ、コイツは本当に俺の事を判っていやがる。どう責められれば抗えないか、熟知しているのが憎らしい。  本当に長くいたんだなと、改めて思う。長くいすぎたんだな、俺達は。  全てをなげうってしまいたくなるこれ以上の一言はない。  ――「愛している」なんて言葉、すぐそばにある唇から飛び出すなんざ、思ってもみなかった。  お前、いつから俺を愛していたんだ?  お前、本気で俺の事を愛しているのか?  愛している、この言葉の熟成にどれだけの時間を孕み、どれだけの甘さと苦味が含まれているのか。存在意義を確かめたくなる。  ……俺もお前を愛していると言えば、どんな顔をするのだろう?  知りたい。こいつが俺の身体を隅々まで熟知しているように、俺だってロイの身体を頭のてっぺんから爪先まで知っているつもりだ。  だが、突然の告白に戸惑うほど、俺はこいつの全部を知らない。  ロイを知りたかった。ふんわりと漂うロイの香りに、押し留めていた感情が薄い理性の殻を破ろうとする。  やめろ、出て来い、やめろ、出て来い……自分でも判別つかない、混沌とした感情のうねりが恐くて瞼をきつく瞑った。 「……おいおい、そこまで思いつめることか? 俺は、元からお前の気持ちは判っていたんだよ、マース。  だからこそ、今言ったんだ……俺だけが知っているのは、フェアじゃないしな」  頭を撫でながらそっと囁かれた言葉に一瞬、頭が真っ白になる。  ずっと隠していた気持ちがバレていたなんて、考えたことがなかった。 「うそ、だろ……いつ、……から?」 「さあ? いつの頃からだったか。俺の下で涙を目一杯溜めて欲しがるお前の目は、いつも恋の目をしていたな」  そんな目、した覚えがないぞ! なんて言い訳は、長年一緒にいる相手に対して出来そうになかった。  恐らくコイツの言う通り、意識の及ばぬ所で気持ちを露にしていたに違いない。最中まで隠し通していた自信なんて、内にはなかった。  今にも破裂しそうなほどの煩い鼓動が饒舌に俺の気持ちを伝えているのだろう。  結ばれていた掌が解かれ背に回された腕が更なる密着を望んでいた。重なる胸。同じ速度で刻まれる鼓動が心地よかった。 「……最後くらいは、両思いにしてくれるのか?」  愛撫めいた囁きには縋るような響きを伴っていた。  そこで初めて、ロイがどれだけ俺を愛しているのか、どんな想いできつく抱き締めてくれているのか判ったような気がした。  相手に何も話さず一方的に別れを切り出したことに対して、申し訳なさが胸を占める。  コイツが本当に愛しい。  だからこそ、この選択が間違っていないことを知った。  このままロイと過ごせるのならば、どれだけ良いか。友として側に寄り添い、時に周りには内緒の恋人として    甘い蜜を吸い続けることは、きっと何よりも幸せなんだろう。  でも俺は――決めたんだ。  ロイの為に、生きることを。 「……ここで抱いちまえば、俺は手足を奪われるんだろ? 手足を無くすのは、惜しいな」  背後にある掌が、シャツを握り締めた。 「……そうだな。俺も、愛するお前には痛い思いはさせたくはないよ」  軽く背を叩かれのろのろと頭を上げた先には、眉を顰め何かを堪えるような表情をしたロイとぶつかった。  まじまじと見る間も与えられず、後頭部へ回った掌に肩口へと顔を押し付けられた。  ついでそっと頭を撫でてきた手に抵抗する気も失せて、ゆっくりと瞼を閉じた。  ロイの温かい掌が心地よかった。撫でられる度に熱く疼いていた欲が不思議と凪いでゆく。  しがらみの多い身体を捨てた自分が空を悠々と泳ぐ雲になったかのような、ふわふわとした感覚が俺を包み込む。  その一方で遠ざかっていく熱の記憶。熱の感覚。熱い指先。イく時の凄絶な色気を滲ませる、ロイの顔。悦楽の表情。  ――二度と立ち入ることは許されない領域への道順すら、見失う。  穏やかなひとときの代償はふしだらな関係の終わり、ただひとつだけ。たくさん持っている大切な荷物のうち「ひとつだけ」を犠牲にして、  得られた安寧の具合は悪くない。「親友」としてのここは、俺にとって悪くない場所だった。  終わりにしないか、そう俺が言ってから既にこの関係は終わっていたのだろう。  俺だけでなく、静かに頭を撫で続けているロイもこの日に向けて、覚悟はしていたに違いない。  もう手に届かない男に対して、これから何度も後悔するだろうと、痛む胸に確信めいた予感を抱く。  後悔の数だけ、俺はロイが好きで愛しているという証拠だ。  俺は生涯ロイを愛し続ける。この選択をしたことで、俺たちが生きている限りは爺になっても側にいられる、未来への切符を手にしたのだ。  墓までこの気持ちを持っていってやる。 「……一緒に棺桶に入れとまでは言わないが、明日明後日……今は見えぬ未来まで、ずっと側にいろ」 「……なんかプロポーズみてえだな」 「まだ、間に合うぞ?」  するりと腰を撫でる妖しい手付きに、腰が揺れてしまう。  慌てて後方へ腕を回し、腰を撫でるロイのいやらしい手をはたいてやった。 「変態の相手なんざ二度とごめんだよ、馬鹿野郎」  追い払った掌に指を絡めながら、肩口に預けていた頭を上げた。  すぐにかちあった黒の瞳に魅入られる。澄んだ眼差しに見つめられて、思わず強く掌を握ってしまった。  痛いぞと非難するロイに構わず、指先を絡めあう。 「……なあ、今晩だけは、こうしていたい、な」 「マース、いくつの子供だ? ソファはきつくて仕方ない」 「うるせえ。お前は黙って俺のベッドになってりゃいいんだよ」 「セックス以外で下は好かんな」 「ん? そーいや、よく上に乗っていたような……」 「下からの光景も絶景だからな。特に感じている顔は、な?」 「ロイぃ……ッ! ほんっとうに、お前は変態すぎるぞ……」 「その変態にいいように抱かれていたお前も、共犯だろう?」  変態を相手にするのは分が悪すぎる。「上も嫌いじゃないだろ?」なんて下品なことを言いながら見惚れてしまいそうになる見事な笑顔を  添えられれば、ロイに対して弱い俺は「まあな」と同意して笑うしかないだろう。せまっくるしいソファで男二人笑い合うなんて、結構不気味なエヅラに違いない。  ロイの身体へ身を預けているうちに忍び寄ってきた眠気に誘われて瞼を閉じた。  耳を澄ませてお互いの鼓動を確認する。  ばらついたリズムを刻む命動を子守唄に二人一緒に沈み込んで見る夢はせめて同じであることを、密かに願わずにはいられなかった。 「おやすみ、マース……幸せな夢を」  甘い囁きと共に降って来た口付けがあまりに優しくて幸せで、泣いちまいたい気分だった。  切り取ってしまいたい一瞬。残せない不埒な関係。  残せないからこそ残らない証を求めて、もう一度とばかりに唇を差し出して口付けを求めた。  今度は深く、長くしっとりと重なる。  それは確実に互いのなかに残るだろう、けして消えない愛の証だ――。  眩しい朝陽を浴びながら背を向けて衣服を整えるロイにそっと近寄って抱き締めた。  くすぐったいと笑って震える肩に顎を乗せる。鼻先を掠めるロイの体臭を身体に染みこませるよう、深呼吸をする。 「これが俺達のハッピーエンドだって、笑える日が来ると思うか?」  もし俺達の関係が世の中に氾濫するラブストーリーの一つだったら、例に漏れずハッピーエンドだろうか。  未練がましい自分を情けなく思いながらも、聞いてみたい衝動に駆られた。 「……さあ。それは未来の俺達が決めることだろ」  かいなをするりと抜け出し、真正面から向き合ったロイの真摯な眼差しに貫かれる。 「それまで、お前は死ぬなよ」 「お前も……大総統になるまで死ぬなよ。ロイ」  通う視線に数多の感情を乗せて、数多の感情を受け取る。  言葉にすれば何千もの言葉を必要とするだろう気持ちも、俺達ならば眼差しひとつで済むという自負があった。  長く付き合っていた者の特権ってやつか。言葉ほどまどろっこしくて時に誤解を生むコミュニケーションはない。 「……そろそろ行くよ。じゃあな、マース」 「ああ。行って来い、マスタング大佐」 「何を言ってるんだ。お前も出勤だろう、ヒューズ中佐。一晩中デカイ男のベッドにされた俺がサボりたいくらいなのに、  お前だけサボるのは許さん。一緒に来い」  破顔したロイに腕を捕まれ、ホテルの部屋を慌しく後にする。  先を行く男の背中が不意に大きく逞しく感じた。――ああ、やっぱり俺の見立ては間違っちゃいなかったな。  幸せなラブストーリーから道を外れたっていい。  それ以上のストーリーを辿ってハッピーエンドを迎えることを、ロイの後姿から予感せずにはいられなかった。 「……愛してるぜ、ロイ」  最初で最後の告白を小さく呟いた。腕を掴む指先に力が込められる。 「馬鹿野郎」背中越しに聞こえた声は、大総統になるべき男とは思えないほど――情けないものだった。                                                       「He」H21.4.23

 

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