シングルライフ





 アルコールや煙草、尖った香水の匂い、人から立ち上る不快な体臭――このしみったれたバーには常に匂いが充満している。  一切隙のないこの場所こそが自分の居場所だと思った。私という存在を消せる、唯一の場所だ。  突然、右腕にかかった重みに振り向けば、ちょうど肩の位置にある大きな瞳と目があった。  互いの吐息を頬で感じることが出来る近しい距離。褐色の瞳に映り込む私の表情は、唐突な状況にも関わらず女の存在を歓迎するかのような笑みを浮かべていた。  薄暗い照明でも鈍くきらめく赤い唇が何事かを囁いていたが、周囲の喧騒に掻き消され耳に届く事はなかった。女は私に構わず、  更に言葉を重ねては剥き出しの腕を身体に回してきた。自然と密着する体勢になり押し付けられる成熟した肢体。豊満で形のいいバストを自慢としているのか、  腕に柔らかな肉を擦り付けられる。下着をつけていないのだろう。薄布一枚越しの、動くたびに形を変える胸は柔く上から伺える深い谷間は絶景だった。  普段は男の身体を抱いているが、女の身体も嫌いではなかった。女好きのマスタングと揶揄されるだけあって、ありとあらゆる女を抱いてきたつもりだ。  男と違って受け入れる形を持って生まれてきた身体はとても柔らかく、どんな感情をぶつけても受け止めてくれるような深い慈愛に満ちている。  感情が伴わないセックスでもとにかく身体は気持ちが良い。  唇と同じ毒々しいほどの真っ赤な爪先がドアの外を指した。このバーがある周辺はいかがわしいホテルが数多く立ち並んでいる。  正直、その気にはなれなかったが女の誘いを断る理由もない。ひとつ笑みを返し腰に腕を回せば、まろやかなラインが歓迎してくれた。  久々に触れる女の感触も悪くないと抱き寄せれば、栗色の長い髪を揺らした女は目元を潤ませはにかんだ。  まるで少女のような様相。大人と少女の間を行き来する不思議な女に、ゆっくりと鎌首を擡げる欲望。男の欲はなんと簡単だろう。  腕を引かれるがままバーを後にし、不埒な熱を咎めるかのような寒風を頬に浴びながら、今夜は満月であることを認める。  月を見ながら酒を飲むことを好むあの男は帰り際、今日は夜勤だと嘆いていた。情けなく眉を下げて早く帰りたいと唇を尖らせた顔を思い出し、頬が緩む。  この時ばかりは腕に押し付けられた乳房の感触を忘れた。――否応無く、いっそ暴力的にもあの男を愛していると自覚させられる。  不毛な恋愛の鬱憤を、さてどうしよう。腰を抱く腕が自然と強くなった。    男の欲望はいとも簡単で、そして無情だ。  その証拠に女の膣内で熱の塊を吐き出した瞬間から、下で打ち震える肢体が疎ましく感じたのだ。  無心にしゃぶりついていた乳房は脂肪の塊にしか見えず、萎えてゆくペニスを銜え込むそこは男を悦ばせるだけの肉の玩具にしか思えなかった。  まるで私を愛しているかのように伸ばされる両手を流石に振り払う気にはなれなかったものの、情欲の余韻を共に味わうことなくその場を後にした。  コトが済めばそそくさと去ってゆく私を見る目は厳しいものだったが、男に慣れたあの女もきっと今宵のことなど蚊に刺された程度のものだろう。  今となってはどのような女だったのかも、思い出せない。  深夜の中央司令部を遠慮無しに足音を立てながら進んで数分、目的地に到着したと同時に頑強な戸を叩いた。 「へいへい、どなた……ってロイ。お前、帰ったんじゃなかったのか?」 「ご丁寧にも「帰る」と挨拶してっただろう?」と眼鏡の下にある瞳を僅かばかりに驚きで見開かれるのを見届けぬまま  ささやかに開かれた扉をひと一人分は入れるスペースほど押し開いた。 「気が変わったんだ。ヒューズ、今晩は暇だろ」 「暇って俺は仕事なんだよ、馬鹿。……にしても、遅い気の変化だな」 「男の変化は山の天気よりは遅いらしいな。いい加減部屋に入れろ、寒い」  男がワザとらしく室内の時計を振り返った隙に部屋へ忍び込んだ。追い出されないよう扉を閉めて、鍵までかけてやる。  向かい合った途端、嫌そうな表情を浮かべたのを見逃さない。きっとアルコールに混じっていた濃厚な女の匂いが鼻をついたのだろう。  家庭を持った頃から、こいつは艶やかな女のにおいを嫌悪し始めた。  女を抱いてきたのか? 明確な非難をこめた視線を送ってくるくせに、男はその一言を口にしない。  しばし行き交う視線。次に男が取った行動は想定内だった。  汚れていても構わずに腕を伸ばし、抱きしめてくるヒューズの優しさは、昔っからなのだ。 「つめてーな、おい。こんな寒い日にコートも羽織らずそんな薄着じゃ夜は寒いだろう」 「お、暖めてくれるのかヒューズ」 「俺は仕事中だって、言ったよな?」  他愛ない冗談に入り混じったホンキを嗅ぎ分けたのか、苦笑しながら背を叩いてくる。全てを多い隠すように抱き締めてくる腕の中、こいつだけは何もにおいがしなかった。  いや、硬い肩にアルコールとセックスの余韻で未だ熱をもつ頬を摺り寄せて気がついた。染みひとつシワひとつない真っ白なシャツから清潔なソープの香りがすることに。  この男の所有者は妻である私だと、無言で訴えているかのようなシャツに夫への揺ぎ無い愛情を感じ取ってしまい、愛しい男の腕が途端疎ましく思えてしまう。  天と地がひっくり返ろうとも、この男は妻と別れることはないだろう。男が妻を愛し、妻が男を愛していることを嫌というほど知っているからだ。  この二人の間には、妻よりも長い付き合いの私とて入り込むことが出来ない。それは彼等の間に愛らしい一人娘が誕生してから、決定的になったようにも思う。  家庭を壊す気はない。愛しい男が大切に想うものをこちらもまた大切に想えるくらいには、私は男を愛している。  こうして時々二人で会い、身体を重ねるだけで十分だった。  だが、二人で顔をあわせている際に妻の影を見て嫉妬するくらいには、恋焦がれていた。  いくら深呼吸しても私を惑乱させる男の匂いがしないシャツを、背に腕を回す振りをしてぐしゃぐしゃにかき回した。  私の心情を知らないヒューズはただくすぐったいと笑うばかりで相手にせず、じゃれつく大型犬を撫で回すかのように掌で背を撫でさすってくる。  元より一方通行の恋に、甘い駆け引きなど求めてはいない。所詮、ただの性欲発散。今宵愉楽を共にしたあの女と私は同類なのだ。  やましいことをしている癖に潔癖な顔をする男に、この行為自体に対して罪悪感はないのだろう。そこには私に対する想いなど、ないに等しい。  必死な形相で愛が欲しいと縋った親友に広げられた両腕は、優しい男のお情けのひとつ。あれからどれくらい経つのか――考えるだけで空しくなる。 「せっかくの月夜なのに、お前と飲めないのは残念だな」 「……別に、酒飲むだけが楽しいことではないだろう? 例えば、これだ」  そろそろ無駄肉がつく年齢とはいえ、たるみない引き締まった腰を撫でる。 「……んなことはシャワー浴びてから言えよ、馬鹿野郎」  突然の愛撫に目を瞠り、追い払うように外された腕をこちらから掴み直した。  余計な力が入っていたのか小さく呻いた男に肩口から顔を上げれば、けして痛いとは口にしないものの、寄った眉間が正直な感情を表していた。  そんな顔をされたら、どうしたって恋したものが弱いに決まっている。 「じゃあ、洗ってくれ。ヒューズ」  腕を掴んでいた手の力を緩め、ゆっくりと下へ滑らせれば無骨な指とぶつかった。  そのまま五指を絡めて含蓄ある動きをしながら上目に問いかけると、眼鏡の奥の瞳が甘く溶け出した。  些細なふれあいで感じる身体は確かに私が愛した証拠。関係を持ち始めた当初にはなかったことだった。  妻でさえできないことを男の私がしていることに、ひそやかな高揚を覚える。 「……俺は、疲れてるんだ」 「抱きたい」 「……俺はさっきシャワーを浴びたばかりなんだ。二度も浴びるほど、元気じゃない」  否定を重ねながらも絡めた指を解くことなく、やんわりと握り返してくれる優しさが、私を付け上がらせることを知っているだろうに。  男の何よりも素直で甘い瞳を見つめながら、絡みあう互いの手を引き寄せ、男の手の甲へ口付けを落とす。  乾いた感触の肌に幾度もキスをして、仕上げとばかりに仕事中は空いている薬指にひとつ。  この時ばかりは、いつも目を見られないでいる。どういう顔をして神に祝福された愛の場所を許しているのか、いまだ知る勇気が無かった。  こうして捕まえて、幾度抱いても欲しいものはくれない。流動的な生の中でも、変わらないものがあるのだと、思い知らされる。  シャワーすら浴びずに手近な場所に設置されているソファへ押し倒した。唯一好きに出来るのは私の下にいる時だけだった。  自分のものだと存分に抱けるそこは離れても恋焦がれる場所。  出迎えるように腕を広げてくれさえすれば、今日も溺れるように堕ちてゆく予感がする。 「一言、言いたい」 「何だ」 「……せめて下半身だけは洗って来い。……女と共有するのは、嫌だ」 「その、女みたいな事を言うんだな」 「ッ! くそっ、もういいどっかいけ!」 「ここでのこのこと岐路につく男がいると思うか? 否だ、もう後退できない所にきた」  先程から痛いくらいに張り詰めていた下腹部を押し付けると、凛々しい眉尻が情けなく下がった。 「あー……こういう時、同じ男であることを悔やむわ。……断れねーよなあ」 「私にとっては有難いな。……1分だけ待て」 「それ以上待たせたら、寝てやるからな」  視線を逸らして仏頂面をする男の頬に軽いキスをして、ソファから立ち上がった。  同じようにソファから身を起こそうとする男の背に腕を回そうとしたものの、触るなと言わんばかりにじろりと睨まれたのでそのまま引っ込めた。  これ以上機嫌を損ねて部屋を追い出されてはたまらない。肩を竦めシャワー室へ足を向けた私の背に「念入りに洗えよー」という気の抜けた声が投げられた。  何でもない一声の中に不純物が混じっていたことに気がつけたのは、長い付き合いゆえか。  嫉妬。甘くほろ苦いその感情に、頬が緩んで止まらない。ひとりきりの感情が、喜びで揺れる。  こういう時、あの男は私のことを好きなんじゃないかと妄想する。嫌というほどに、男の愛情は妻に家族に向いていると判っているのに。  私に抱く「嫉妬」なんて、男の娘のエリシアが大切にして手放さないかわいらしい熊のぬいぐるみと同じなのだ。  報われない。天地がひっくり返ったって、報われることがない。――それでも。 「こら、ロイ。突っ立ってないで早くシャワー浴びねーと、とっとと寝ちまうぞ」  振り向けば、ソファにだらしなく胡坐をかいた男が破顔した。  これから致すというのに色気も情緒もないその笑顔。  昔と変わらない、自分の好きな顔を向けられれば、どうしたって諦められない。 「……すぐに済ませるから、寝るな」  壁に掛けられた時計の針が着々と進む。  時の流れを無視して、こちらを見つめる男の瞳がいつしか同じ色に染まっていることに気がついた。男の欲望は、なんと簡単で無情だろう。 「もう約束の一分は過ぎているぞ」そんな軽口さえ叩けない弱さを自覚しながら、親友よりも遠く近いひとときを想見する。  今晩はとびきり優しくしてやろう。  簡単に流されてくれるような意志薄弱の男ではないが、いつかこの腕に堕ちてくることを願ってやまないから、無駄な足掻きをしてみたくなる。  この恋は、軍人という常に命のやりとりを強いられる仕事よりも遥かに疲弊する恋だった。  もう、戻ることも出来ない。ひとくち肌を味わった瞬間から、自分の一部となっているのだから。                                                              「シングルライフ」H23.10.8

 

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