「僕って色気ないのかなぁ……」 「君は十分魅力的だよ。現に私は何も手に付かないくらい、メロメロだからね」 心の声つもりが口に出ていたらしく、しかもそれをしっかり聞いていたロイさんは。 蕩けるような眼差しで僕を見つめてから頬に口付けて破顔した。 ロイさんの上げる笑い声が恥かしい気持ちに拍車を掛け、みるみるうちに熱くなってゆく顔を俯けた。声に出すつもりなんてなかったのに。 しかもロイさんに笑われた……せっかくのデートであんまりな展開に、涙が出そうだ。 「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか、ロイさんのバカ」 と。泣きそうと思った割りに、僕の口は可愛くない事を言う。 そんな事を言いたいわけじゃないのに、隣を同じペースで歩いてくれていた肩を抜かして、ずんずんと先を歩く。 彼と距離が開いていくのに比例して積もる自己嫌悪。せめてこの人の前では可愛くいたいのに、と思う。 大好きな人の前では素直な自分でいたい、のに。 「え?」 そっと手首を掴まれて、歩みを止めた。 振り返ると、ロイさんの柔らかな眼差しにぶつかった。 こんな可愛くない僕に向けるには勿体無い笑顔、でもその表情にちゃっかりと胸が高鳴る。 その一瞬をついてロイさんは、掴んだ手首を軽く引っ張って自分の腕に腕を組ませた。 「せっかくの休日に素敵なレディを一人にしたら、世の男性諸君に恨まれてしまうよ。 ……悪かった。大切な休日を一人で過ごしたくはない。今日は私といてくれないか?」 少し屈んで目線を合わせたロイさんに、伺うように上目で見上げられて、ドキドキが止まらなくなる。 普段と違う目線で見るロイさんは、カッコイイんだけど可愛くて、何だか無性に落ち着かない。 大好きな人からそんな事を言われて、立ち去れる人がいたら見てみたい……照れ隠しにぎゅっと腕にしがみ付いて、腕に顔を押し付ける。 「……嫌だって言っても、離れないですよ?」 ぼそりと呟けば、頭上でロイさんが笑った。 「それはこちらの台詞だ」 組んでいた腕の、指先を絡み合わせて僕の髪に口付ける。 ちらりと見上げたロイさんは凄く幸せそうな顔をしていて、黒檀の瞳に映る僕も、幸せそうに笑っていた。 大好きな彼がいて、笑い合える。確かな幸せを感じて、これ以上の幸せなどないくらい凄く幸せなのに。 僕は、それに満足していない。 今以上の、人並みの恋人同士としての付き合いを求める僕は贅沢者だろうか? ……挨拶以上の、キスを求めてはいけないんだろうか? せっかく両思いになったのに、なんだか前と変わらないお付き合いをしている自分達に、僕はなんだか、焦りを感じていた。 忙しい毎日を送る人だから、側にいられるだけでも満足……なんだけど、恋してる身としてはなんだかやるせない。 それで、僕は自分に色気がないからロイさんはキスしてくれないんじゃないか、って思い至ったわけで先程の失態。 ロイさんはそんなことないって言ってくれたし、彼の気持ちを疑ってるつもりもないけど、不安で仕方がない。 頬や額にはたくさんしてくれる。が、肝心の唇はお留守。 友愛の口付けでは済まされない部分も、僕達は交わす資格だってあるのに、なんでキス、しないんだろう。 女の子の身体になってしまった僕だけど、今はそれで良かったと思っている。 柔らかい身体でロイさんに触れられるし、逞しい彼の身体を一層強く感じる事ができる。 望めば大好きな人の子供だって産める身体になった事を、幸せと言わず何と言う? ようやく女の子としての違和感を認められるようになったのも、彼のおかげなのに。 そんな大切な彼と触れ合いたいと思うのは、間違いなのかな? ……ここ最近、ずっと同じ事を考えている。 ロイさんはどう思っているんだろう……好きだから、彼の気持ちが知りたくて、全てを知りたいと思う。 キスしたいと思う。これは普通の事じゃないだろうか。 憂いに沈む僕に、気付いているのかいないのか。 黙った僕の額に口付けて「好きだよ」と、大好きな声で囁かれたらにこり、と笑顔を浮かべるしかなくて。 問いたい口元は笑顔を刻むのに精一杯。でも現金な僕は、気がついて欲しいと思う気持ちよりも、まずはこの限られた幸せを 堪能したいと思う欲求が新たに生まれて。そして、素直に従うことにした。 「恋すると欲望だらけだね……」 なんとはなしに呟いた言葉に、繋いでいる大きな手がぴくりと動いた。 でも、今の僕には自分の事でいっぱいだったから、そんな動きにさえ、気がつかなかった。 前のデート以降、まともに会えなくなって早二週間。 仕事が終わる時刻が重なれば一緒に帰宅するけれど、お互いの休日が上手く噛み合わなくて、きちんと話が出来ないでいる。 何であの時、悩みをぶちまけなかったのか。目の前の甘い幸せを取った事を今更後悔しても遅い。 話せない状況が、尚更僕を急かしている。いざ彼を目の前にすると、まともに話せなかった期間があるおかげで怖くなって話せない。 その繰り返しで、この数日無駄に疲れた気がする。 食卓のテーブルに行儀悪く片肘をついて溜息を漏らした僕に、向こう側に座る兄さんがちょっと不機嫌そうな目で僕を見た。 「またあいつの事かよ……メシん時くらい忘れてくれ、頼むから」 せっかくのアルのメシがまずくなる……きっとロイさんの事を思い浮かべてるんだろう兄さんの顔は、苦手な牛乳を前にしたような、苦い顔をしていた。 そんな兄さんはこの二週間、とても機嫌が良かった。僕が大好きなロイさんと出掛ける事が一切なかったからだ。 異様にロイさんを嫌う兄さんの事、本当はロイさんが家まで送ってくれるのだって気に入らないんだろうけど、最近は黙って 扉を開けてくれるようになっていた。付き合った当初なんて喧嘩ばかりだったから大きな進歩だ。 少しは許してくれた、ということなのかな? それはとてもいい傾向なんだけど。 「……こんなにいい男が目の前にいるんだぜ? 今は無能のこと忘れて俺とメシ食え」 何も反応を返さない僕に何を言っても無駄と感じたのか、冗談めかして席を立った兄さんに、これだけは訂正しておく。 「……ロイさんのがカッコイイよ」 「聞こえてんじゃん!」 僕の呟きに数瞬の隙もなく突っ込んだ兄さんは、頭を掻いてまた椅子に座り直した。 「あー柄でもねえけど、本当は果てしなく嫌だけど……」そう前置きして、僕と向き合う。 「アルのそんな顔、もう見飽きたしな。お前、アイツと上手くいってないのか?」 今まで散々悪態をついていたのに、気を使うなんてどういう風の吹き回しだろう? 真意を伺うように見つめれば、僕の視線にたじろぐ事無く、まっすぐに同じ金の瞳を向けてくる。 世界でたった一人のかけがいのない家族のその目に、やっぱり彼は僕の兄さんなんだなぁ、ってちょっぴり感動したのが……間違いだった。 「嫌われてるんじゃねえの?」 一番言われたくない事、しかも心底ではそうなのかな? と思っていたことをズバリ言われて、目の前が真っ暗になっていく。 世界でたった一人の家族でかけがいのない兄さんは、やっぱり兄さんだった……話した僕が、バカなんだ。 そんな僕の傷心にも気がつかないで、兄さんはこことぞばかりに好き勝手に言葉を重ねる。 「見た目は若いけど、いい歳だし。周りにロリコンロリコン言われて傷付いてんじゃね?」 「ロリコン!?」 それは盲点だった……確かに僕とロイさんはだいぶ年離れてるし、兄妹に見間違われることもあるけど…… 世間様では、僕達ってそんな風に、ロイさんがそんな風に見られているなんて! 嫌い云々もだけど、ロイさんがロリコンに見られてる、僕達恋してるだけなのにロリコンという評価いただいてる、というのを知って ショックを通り越して気を失ってしまいそうだった。そんな僕にようやく気がついたのか、慌てて兄さんはフォローをしてくる。 「あ、アルは本当に可愛くて綺麗だぞ! 大人っぽいし、無能と並んでも遜色はない! というか、無能が見劣りしてる見えるくらいにだな」 見え透いたフォローが僕の心に響くでもなく、耳を素通りしていく。 更に慌てた次の兄さんの言葉に、僕の溜まりに溜まっていた鬱憤が爆発することになった。 「十分お前は魅了的で、色気もあるって! 胸は歳のわりにこんもりだし、腰は細いし、良いケツしてるし……」 「兄さんのヘンタイっっ!」 同じ世代の子よりもちょっぴり大きい胸を気にしていたのに! 実の弟……見た目は女の子だけど、身内の身体をそんな目で見ていたなんて! 怒りと羞恥が入り混じって熱くなった顔で、テーブル向こうに座している兄さんの頬を殴った。 女の子になって多少腕力は落ちたけど、まだまだ兄さんを上回る体術。 勢いよく飛んでいった兄さんが壁にぶつかるのを見届けるまでもなく、僕は二階の自室へと向かった。 「兄さんったら、本当にデリカシーないんだから!」 せめて女になった身をもうちょっと考えてくれてもいいんじゃないだろうか。しかも練成した張本人なのに。 「人選間違えた……」 自室に入り、ドアを閉めて一人ごちる。常日頃からロイさんを嫌ってる、兄さんに話した僕が悪い。 冷めやらぬ怒りをどうにか落ち着けようと考えてみるものの、何だかどっと疲れが押し寄せてきてあっけなく放棄した。 はぁ、と溜息をついた僕の目にベッドが映る……疲れたからか、あの柔らかい弾力が恋しくて仕方なかった。 早々に寝てしまうのもありか、とパジャマに着替えるべく上着を脱いだ時、ばたばたばたと廊下から大きな足音が聞こえたと思ったら、 いきなりドアがノックもなしに開かれた。 「アル! さっきはごめ……ん……」 頬を大きく腫らした兄さんだった。突然の乱入に、僕は驚いて見返す事しか出来ない。 入ってきた勢いのまま名を呼び、続く言葉を尻窄みさせていった兄さんの顔がみるみるうちに真っ赤になっていき。 その様子にようやく不審に思って、向けられる視線を辿れば……白い下着に覆われた、ふくよかな胸。 まさしく、着替えの最中だった……頬に熱が急上昇していく。 「バカ兄っ! 本当に反省してんのかー!!」 ありったけの声量で怒鳴った僕は、両手で床を打った――練金術だ。 何があってもいいようにと、僕は床にいつも練成陣を書いていた。役に立つ日が来なければ良かったと思う反面、もう毎日書いておこうと思う。 青い光が室内に広がり、現れた大きな木の拳を兄さんめがけて繰り出した。 避ける暇もなかったのか、見事にヒットした兄さんは背後にあった窓に背をぶつけ、がしゃんと甲高い音をさせながら消えていった。 「俺達兄妹じゃねえか! 減るもんじゃなし、兄さんそんな子に育てた覚えはないぞ!」 「煩い! 窓きちんと直してよ!」 僕の言葉に「うぎゃああっ」という悲鳴で返し、再び部屋に静けさが戻ってきた。 二階だから死ぬ事はないと思うけど、明日の仕事には支障をきたすかもしれない。自業自得だ。 開け放したままのドアを閉めて、施錠確認してから寝る準備を整える。 人選は誤まるな――かけがいのない、バカ兄から学んだ教訓だ。 翌日、リゼンブールから遊びに来ていたウインリィと仕事が終わってから会うことになった。 連絡もなしに本当に突然だったから、いつもと変わりなくロイさんと一緒に歩いているのを見られて、妙に恥ずかしかった。 「じゃあまた明日、アルフォンス」 そう言って、幼馴染との出会いに喜んでいた僕を気遣い、頬に口付けを落として去っていったロイさんとの別れの挨拶を見られ、 更に恥ずかしくてたまらない。しかも、軍の門前だったから人はかなりいたと思う……怖くて顔を上げられなかったけど。 そんな僕を我が事のように嬉しそうに笑ったウインリィに「どこかいいお店連れてって」と言われ、僕達はロイさんと初めてキスしたカフェに向かった。 何も考えないでただ「あそこのケーキが美味しいんだ」と、案内して店に入ってから気がついた。 あの時の、甘酸っぱい口付けをふいに思い出した僕は、なんだか切なくなっちゃって。 イチゴショートをつつくフォークの動きを知らず、止めていた。 「どうしたの?」 僕の行動に気がついたウインリィも、チーズケーキを乗せたフォークを止めて僕を見てくる。 「なんでもない」と言いたい気持ちだったけど言えなかったから、僕はフォークを皿に置いて口を開いた。 ロイさんとのお付き合いのことを……僕達の事を知っていて、尚且つ応援してくれるウインリィなら聞いてくれると思ったから。 「別に、アルは色気なくなんかないわよ? それに、さっき見た限りは嫌いっていうのも違うわね」 全てを聞き終えて、最後の一口のケーキを口にしたウインリィの言葉に、僕は喉を潤していたアイスティーのグラスを置いた。 「じゃあ、なんで僕達あんまり進んだ関係にならないんだろう」 ここでキスして、あれから一ヶ月は経っているのだ。 キス、自体の回数は数え切れないくらい交わしてきたけど場所が問題。そんなの嫌いか、僕に色気がないかのどちらかじゃないか? じっと縋るような僕の眼差しに、ウインリィもじっと見つめてくる。 物言わぬ時間は何だか重たくて、でも今の僕には打破出来ない。ただウインリィの言葉を待つだけだ。 「……うーん、判らない」 「ウインリィ……」 空いた間のわりに、待ちに待った言葉には肩透かしを食らった気分だった。 「私はロイさんじゃないでしょ? だから、ロイさんの気持ちがどうとか、答えられないの」 ごもっとも。だけどすごくあてにしていたから、落ち込みも半端じゃない。 がっくり項垂れる僕をかわいそうに思ったのか、ふうと息を吐くと、テーブルに置いていた僕の手の上に手を重ねてきた。 「あまり知らない私が、ロイさんの事をわかるはずないでしょう? アルが一番近くにいるんだし。恋愛に他者が入っちゃ駄目。 二人の問題なんだから、二人で頑張らなきゃ」 そうして励ましたと思ったら、ニヤリと意味深な笑みを浮かべる。 「でも話を聞いて、一緒に考える事は出来る。アル、明日化粧してみなさい」 「え?」 なんでそうなるんだろう? 顔に出ていたのか、ウインリィは尚も言葉を重ねた。 「色気が足りない、嫌われてる……その二つを同時に確認出来るには、良い方法だと思わない?」 化粧で色気を作って、そのまま相手の反応を確かめる。 ノーリアクションなら嫌い、か……色気も作れるし、嫌いかも確かめられる一石二鳥の作戦。 確かに良い方法、とも言えなくもないけど。 「僕、化粧苦手なんだけど……」 そう、ぺったりと色んなもの塗りつけられると、なんか苦しいんだよね。女性の嗜みだと言うけれど、毎日こなしている女性達を尊敬するよ。 そんな僕にウインリィは溜息をついて、手にしていた鞄をごそごそと漁ると、小さな銀の筒……口紅を取り出した。 今まで触れていた僕の手を開かせて、握らせる。 「まぁ、今まで男の子だったもんね。ならこれ使いなさい。仕事でも使えるくらいの淡いピンクだから、大丈夫。 アルは元から綺麗な顔してるし、口紅一つで十分でしょ」 それにロイさん、あの豆よりはそういう所、敏感そうだし。 続けた冗談に僕は笑った。兄さんを「豆」呼ばわりなんて、久しぶりに聞いた気がする。昔が嘘のように、今は大きくなったから。 ロイさん、口紅気がついてくれるかな? ウインリィからもらった口紅のキャップを取り、少しだけ出してみれば淡い桜色をしていた。仕事にも差し支えない控えめな色味。 その口紅を見ているだけで、久しぶりに何も考えず会うのが楽しみになった。それもこれもウインリィのおかげだ。 「ありがとう、ウインリィ」 にっこりと感謝の気持ちを述べると、ウインリィもにっこりと笑い返してくれた。 「私にとってもアルは可愛い弟……今は妹か。ま、そう思ってるんだから。幸せになれる手伝いが出来たのなら良かったわ」 やっぱりウインリィに話して良かった。 昨晩の兄さんとのやり取りを話したら、ウインリィは「げえ」と、渋い顔をした。 「豆だけじゃ飽き足らず、本当にデリカシーのない男ね……」 その言葉に笑って、僕は最後に取っておいたイチゴをフォークにさした。 初めてここに来たとき、ロイさんが食べさせてくれたっけ。思い出して、ドキドキするのと同時に、切なくなる。 でも、それも終わりにしなくちゃ。 よし! と心の中で意気込んで、ぱくりと大きなイチゴを頬張った。 甘酸っぱい酸味が口に広がる。たった一粒の可憐な果実に、勇気を貰ったような気がした。 なんだか朝から周辺が落ち着かなかった。 やけに注目されているというかなんというか。居心地の悪さに悩んでいたら、偶然廊下で会ったシェスカさんからその理由を教えてもらった。 「今日のアルフォンスさん、なんか綺麗だなーって思ったら、口紅してたんですね。よく似合ってますよ」 そういえば、昨日ウインリィが言った通り口紅つけてたんだった。普段と違うから見られていたのか。 妙にくすぐったい気持ちの僕に笑いかけたシェスカさんの脇から、一冊の資料が落ちてくる。 それを皮切りに、どうやって持っていたのか判らない量の資料が廊下にぶちまけられた。 ああっ! と声を上げるシェスカさんと一緒に、屈んで資料を集めていたらふと手元に影が落ちた。 錬成陣の描かれた手袋に覆われている手が、残っていた資料を手早く集めシェスカさんに手渡す。 特徴のある手袋をしている人は、この軍には一人しかいない。 「す、すみません、准将!」 声が裏返るのも構わずに、シェスカさんが慌てて立ち上がり、すかさず敬礼を取った。 慌てながらもしっかりと積みなおした資料を床に置いてあるだけ、まだ冷静だと思う。 僕もシェスカさんに習って立ち上がり、敬礼を取る。 にこやかに「構わない」とシェスカさんに言っていたロイさんの瞳が僕を見て……目を見開いた。 視線は僕の口元で止まり、不自然な間が僕達の間に落ちる。 ただ見つめるだけのロイさんに、僕の心が不安で覆われていく。 「?」 一人不可解な表情を浮かべるシェスカさんは、何かを感じ取ったみたいで。 もう一度敬礼をした後に、資料を持って去っていった。廊下にはいつのまにか僕達だけ。 誰もいない静けさにただ戸惑うばかりで、僕はロイさんの次の行動を待った。 「!」 何も言わず、背中を見せたロイさんに心臓がぎゅっと締め付けれた。冷たい水を浴びせかけられたように全身が冷えていく。 何で? と疑問が浮かぶ合間に「嫌われてんじゃねえの?」という兄さんの言葉が頭に響いた。 ショックで、僕は声をかけられないでいたら、ロイさんは一言「話がある、ついてきたまえ」と残して歩き始めた。 いつもなら振り返って待っていてくれるのに。常にはありえない行動に、なんだか目頭が熱くなってくる。 でも、ここは軍の中。今は僕達二人だけど、いつ人がくるか判らないからどうにか堪えた。 地に根を張ったように重い足を動かして、ロイさんの後に続いて着いた先は彼の執務室。 ドアを開いて、中へと促す彼に従い室内に踏み込んだ。未だかつて、こんな重たい気持ちで赤い絨毯を踏んだことはない。 背後で扉の閉まる音がしたと同時に、僕は暖かな熱を背中に感じた。ゆっくり前に回される腕に、抱き締められていることを知って驚く。 「准将?」 「ここには二人しかいないんだ、ロイでいい」 耳元で囁く低い声に頷いて、「ロイさん」と改めて呼んだ僕に、彼は改めて僕の顔を見つめた。そうしてはぁ、と溜息をついて肩口に顔を埋めてきた。 冷たかったり、抱き締めたり、溜息つかれたり……ショックと驚きで、僕はどんな表情をしたらいいのかわからなくて、 されるがまま、ロイさんの体温を感じていた。 「……君はどんどん綺麗になる」 しばらくそうしていたら、思いも寄らない事を言われた。悪い方へばかり考えていたから特に。 まだ顔を埋めたままのロイさんからは何にも伺えないけど、僕が答えあぐねている間に言葉を続ける。 「いつもどう接したらいいのか判らなくなるんだ、私もまだまだ青臭いということかな」 苦笑して「そう思わないか?」といわれてもぜんぜん話が見えない僕には、うんともすんとも言えない。 なんか、僕が考えていた最悪な展開とはかけ離れていて、意味が判らなくなる。 「じゃあ、僕の事嫌いじゃないんですか?」 恐る恐る訊ねれば、すごい勢いで顔を上げて真摯な眼差しを向けられた。 何を言ってるんだ? と咎められているような目に怯んでしまう。でも、今までの悩みをここでぶちまけるチャンスだった。 「何を言っている? 私は君が好きだよ」 「だって、初めて僕からキス、して以降……してないじゃないですか」 嫌いをすぐに否定してくれたおかげで、勇気で後押して続けた言葉に、ロイさんは押し黙った。 何も言わない……ロイさんにも自覚、あったんだ。頬や額ではない、唇にキスをしないことを……じゃあ。 「僕に色気がないからキスしなかったんですか?」 「なんだって?」 僕の言葉にシワを刻む眉間。 背後から抱き締めていた腕を放し向かい合うと、僕の肩に手を置いて覗き込んでくる。 いつもの笑顔も素敵だけど、こういう真面目な顔も格好良いなぁと、場にそぐわない感想を抱く。 「違う……君が悪いんじゃないんだ」 「じゃあ、なんで?」 僕もじっと見つめて理由を問えば、彼は言い詰まって視線をあらぬほうへ向けた。 それでも辛抱強く、ロイさんの言葉を待てば、ようやく話してくれる気になったのか、こちらを見た。 「君の前では、スマートな紳士でいたかったから、かな」 「いつも紳士じゃないですか。少なくとも僕はそう思いますけど……」 「……理性を保つ事が出来るか心配だったんだ。だから君にキスをしなかった。したくなかったわけではなく、出来なかったんだよ」 「好きすぎて、君に拒まれるのが怖くなったから出来なかったんだ」と。 精悍なラインを描く頬がうっすらと赤くなっているロイさんに僕から抱きついて、良かったと呟く。 そっと抱き締めてくれる腕の中、久しぶりに心から安堵した。 「……色気だが、キミは普段通りで十分だから、あんまり私をドキドキさせないでくれたまえ」 こほんとワザとらしく咳払いして、改めて言ったロイさんにぷっと吹き出して笑ったら、頭をこづかれた。 そのまま大きな手が頭を往復する感触が気持ちよくて、目を閉じる。 「……僕はキスしたかったですよ」 恋人同士なら当たり前の行為。僕のために我慢してくれてたみたいだけど、なんか悔しかった。 僕だって好きだから、ただひたすらロイさんの唇が欲しくてたまらなかったのに。ロイさんは、僕を好きだから我慢してくれていた。 恋人同士なのに、なんかおかしくない? 好きなら当たり前の行為なのに……って言ったらロイさんの行動を否定してしまうけど、僕が感情的過ぎるんだろうか? ロイさんは大人だから、理性的でいられるのだろうか? せっかくお付き合いしているのに、こういう温度差がなんだか切なく思う。 黙っていたロイさんの指が、不意に僕の顎に伸びてきて上向かせられた。 思っていた以上にすぐ近くに端正な顔があって、頬や額にするキスとは違うこれからを想像させる。 何かを決心したような眼差しを前に、僕の胸は激しく鼓動を打っていた。 「……私はね、君が思う以上に"大人"なんだよ」 だから、気安く誘うのは頂けないね。 そう言ったロイさんの顔には男の色気、みたいなのが滲んでいて。 普段の包み込むように穏やかなロイさんとは違う初めての顔につい見蕩れてしまった。 一瞬のタイムラグ。 言葉の意味を理解する前にはもう、輪郭がぼやけるくらいのアップで、口付けられていた。 待ち焦がれていた唇は柔らかく温かくて、一ヶ月ぶりに感じたロイさんの感触にうっとりとしてしまう。 開いたままだった瞼を閉じて、その感触を味わうことに専念する。 「っ!」 一ヶ月前に交わした、触れるだけのキスとは違うことにすぐ気がついた。 重ねていたロイさんの唇が開いて、食むように口付けられていると思ったら、僅かに湿ったものが僕の唇に触れてきたのだ。 生暖かいものが唇の形を沿って柔らかく動き、時折歯を立てられる。にゅるにゅると唇の上を這うものが舌だと判ったのは、散々舐められた後だった。 「! ロイ……っ」 こんなキスは初めてで、驚いた僕は咄嗟に唇を振り切ろうとしたんだけど、叶うことは無く再び彼の唇と重なることになる。 名を呼ぶ途中だった口の中、いつの間に忍び込んだのか僕の意思とは違う動きをするものが、頬の肉を擦った。きっと唇を舐めていたロイさんの舌だ。 触れただけのキスでもなくて、舐められるのとはまた違う、もっと深いキス。 自分自身で口内を舌で行き来したって何にも感じないのに。勝手知ったるような動きをしてそこらじゅうを舐めては つついてくるロイさんの舌に、身体の内が焼ける感じがした。 くすぐられるたびにどうしたらいいのか判らないのに、じわりと寄せる見知らぬ感覚を知りたい、逃げたい―― どっちつかずの僕の舌は、ちょっと触れては逃げるように奥へと潜んでいた。そんな舌を簡単にロイさんの舌は捕まえて吸い上げてくる。 その瞬間、電流が流れたような感覚が襲い、身体の芯が震えた。 「ん、んっ……」 今まで感じた事のないその感覚が何と言うのか判らないまま、ロイさんは絡む舌を休ませることなく、僕のそれに触れてくる。 ついていく事すら出来なくて、僕は施してくれる口付けに酔うだけ。ぴちゃぴちゃと鳴る音が恥ずかしくて耳を塞ぎたいのに、 手を離せばそのまま床に尻餅をついてしまいそうなくらい力が入らなくて、ロイさんの服を掴んだまましわくちゃになるのも 構わず握り締めて口付けに応えた。いつもの彼とは結びつかない情熱的な口付けに、息接ぐ間を与えれれた口元から漏れた吐息が熱かった。 そうして「吐息すらも色っぽいんだな……」と囁かれてはまたキスされる。 今度は舌を緩く絡ませただけの、ゆったりとした口付け。 さっきの余裕ない口づけとは違い、まだ自分で動ける余地があったから恐々と戯れかけてみたら、すぐに絡み付いて一層求められた。 頭がぼおっとして、何がなんだかわからなくなってくる。ただ気持ちよくて、もっとロイさんを感じたかった。 身体の芯に灯る熱が心地よくてもっと欲しいと、知りえなかった本能がロイさんの首元へと手を回させて、更に身体を密着させる。 僕が密着させた分、腰に巻きつく彼の腕の力が比例して強まった。 互いの身体を押し付ければ、自然と口付けは深さを増して濃厚になっていく。 顎から喉へと流れ落ちる、どちらの物かも判らない唾液のしたたりが、この上なく熱を煽ってやまない。 呼吸も忘れるくらいの口付けに、僕は酸素よりも熱い唇が欲しかった。 ぎゅっと逞しい胸にしがみ付いたら、急にぐらりと地面が揺れた。 「あ」と思うよりも先に身体が傾いて、ロイさん共々絨毯の上に倒れこんでしまった。 「っ……」 「ご、ごめんなさい!」 慌てて下敷きにしてしまったロイさんの上から退こうとしたら、手首を掴んだ指先に阻まれた。 引っ張られるまま、また僕を難なく受け止める大きな身体の上に舞い戻った。 背中へと回された腕に力が込められて、離れるどころか身動きすらも困難な状態だ。 「ちょっとキスに夢中になりすぎて、支えきれなかった。よければこのままでいさせてくれ」 「……重たくなったらすぐに言って下さいね?」 じゃあ、重くないからずっとこのままでいてくれるかな? 軽口を零すロイさんは、先程まで激しいキスをした人とは思えないくらい、 穏やかな日頃のロイさんだった。大人の余裕を感じさせる悠然とした雰囲気のロイさんが、あんなキスを仕掛けるなんて……。 「……大人の意味がやっとわかった」 悟ったというか、なんというか。ロイさんはやっぱり大人の――男の人だった。 僕の言葉にロイさんは笑った。 呼吸を忘れてキスをしていせいで、今になって苦しくなってきた僕達はしばらく互いの呼吸音を聞いていた。 普段と違って彼を上から見下ろすのは新鮮だけど、よく考えたら、とんでもない体勢だよなぁ…… とまだぼおっとする頭で考えて、僕は彼の胸に頭を預けた。 「だから、君にキスできなかったんだ。……嫌だったかい?」 宥めるような優しい手付きで頬を撫でる柔らかい感触に、なんだか甘えたくなっちゃって自ら擦り寄っていく。 えらく刺激的で、甘いキス。口付けがもたらした痺れの余韻が奥底で燻っていて、まだ熱を持っている。 初めてなのに容赦ない舌がもたらす感覚は嫌という気持ちじゃなくて、もっとという欲求。 思い出すだけでまた熱くなってきそうな……その感覚は嫌じゃなくって。 「いえ……むしろ、またしたくなりました」 顔を胸に押し付けたまま首を振った僕の上から、ゴクリと唾液を嚥下する音が聞こえた。 少し視線を上げて見れば、赤い顔したロイさんの瞳と視線が合う。見つめあったのは少しだけ、ロイさんはすぐに顔を逸らした。 目前に晒されている耳が頬よりも真っ赤で、あんまり意味を成しているとは思えないんだけどなぁ。 「本当に君は予想を超えた事をする。心臓に悪い」 頬を撫でる手が、照れ隠しのように唇へと移動する。まだ少し濡れている唇を指先で撫でられて、反射的にピクリと動かした身体を 片方の手で抱き締められた。密着する互いの身体に、今更恥ずかしくなってくる。 「アルフォンスが口紅をしていたのを見て、すぐキスしたくなって困った。とても綺麗で、似合っていたよ」 ちゅっと可愛い音が鳴る、軽いキスを交わす。 ウインリィの言った通り、ロイさんはすぐに気がついてくれたみたい。誰でもない彼にそんな事を言われたら、嬉しくてもう笑顔が止まらない。 笑う僕の頬をそっと両手で触れて、視線を合わせられる。 「お許しも出たことだし。これからは遠慮なく口付けてもいいかな、アル?」 「喜んで。大好きなロイさんとだったら、歓迎……んっ」 言い終わらないうちに口付けられて、僕はまたロイさんとのキスに溺れてしまった。 ただ一歩進みたいという僕の気持ちは、ロイさんが大好きだと思う気持ちから生まれて。 ロイさんが口付けなかった裏には、僕への気持ちが潜んでいた。 一見僕とロイさんの表面上の気持ちの温度差に違いはあれど、互いが大切だというその根本は同じだ。 考え方も違ったけど、気持ちの辿り着く場所は一緒で。世間一般の恋のイロハなんて気にしていたから、遠回りしてしまったのかも。 大切なのは恋してる僕達の気持ちなのにね? 「その口紅は、キスを誘う為だったのかな?」 頷いてくれたら、もう一回キスしようか。 ――そんな甘いご褒美をくれるなら、僕は何度だって頷いてみせる。あなたが大好きだから、ね。 今まで悩んでいたことが嘘のように幸せだった。 家までロイさんに送ってもらって、玄関先でキス。今までしなかった分を取り返す勢いで、今日はもう何度も口付けを交わしてる。 歩く足元がふわふわと現実を帯びていなくて、いつ転んでもおかしくない状態だった。 「おかえり、アル」 リビングへと入った僕へ兄さんが声をかける。 頬に張られた白いテープが痛々しい兄さんへ「ただいま」と返して、キッチンへ足を向けようとした。 がいきなり腕を掴まれて止まらざるを得なくなる。 「なんかおかしいぞ、お前?」 いぶかしげに目を細める兄さんは、目ざとく僕の変化に気がついたらしい。 ウインリイ曰く、鈍感な兄さんにしてはよく気がついたなぁと感心するも。 よりによってロイさんとキスした日に鈍感のレッテルを剥がさなくても……タイミング悪い。 面倒だしこのまま知らない振りで通そうかと思ったけど、数日前のやりとりが頭を過ぎり思い留まった。 じっと兄さんを見ていたら、あの時の苛々が蘇ってくる。 やや伏せた眼差しを意識して、意味ありげな溜息を吐く。 ちらりと兄さんを上目で見つめてから、すぐ逸らした。 「ど、どうしたんだよ」 さすがに意図までは気がつかない兄さんは、思惑通りにうろたえた表情で、僕の方へ詰め寄ってきた。 「男の人って、皆オオカミなのかな……?」 我ながらの名演技、心の中でイーッと舌を出す。 まだ兄さんの事怒ってるんだから。嫌いと言った兄さんに、ここぞとばかりにラブラブさをアピールしてやる。 「なっ、どうーいう意味だアルっ! あのクソ無能―!!」 地団駄を踏み、叫ぶ兄さんを放って僕はキッチンへと入った。 唇にはまだロイさんの感触が残ってる。名残を惜しむように触れて、その口元が左右に持ち上げられる。 「明日ロイさん大変だろうな」 兄さんがロイさんの胸倉を掴んで喚く想像がすぐに出来る。 ごめんね、ロイさん。でも、幸せって自慢したくなるよね? これからも、何度も気持ちを重ねては、恋を確かなものにしていく。 温度差すらも愛おしい、それが僕達の恋愛。 「恋の温度差」H17.9.18