兄さんとはもうキスくらいしたのかね? 穏やかな声で、何気ない日常会話をするような雰囲気をもって言われた言葉に、僕は咄嗟に言葉を返す事が出来なかった。 ぽんと生まれた間に目の前の人はそれを肯定と取ったのか、「そうか。ついにやったんだな、鋼のは」と一人納得していて。 僕を無視した理不尽なコミュニケーションに眩暈を覚える。いつだってそうだ。この人は話を聞かないで、自分の世界で、僕と兄さんを恋人同士にする。 「あの、納得されても困るんですが。僕は兄さんとそういうこと、したことないですから」 向かいの席でエスプレッソを口に含むロイさんに、彼が信じる信じないはともかくとして反論してみた。 湯気にけむる整った顔の、カップをつけた口元がゆるりと弧を描く。 こちらを見つめる瞳も、執務中では見られない綿菓子のように甘い視線なのに、楽しさを隠そうともしない。 からかわれてるんだとトキめきよりもムッとする。それすらも見透かして深く笑みを刻むから、僕は騒ぎたくなる口元を イチゴのショートケーキで宥める事しか出来ない。頬張ったケーキの甘いクリームが僕の心を落ち着かせてくれる。 美味しさに誘われるままもう一口、ケーキを口にする僕をロイさんは微笑みながら見つめてくるから、せっかく落ち着いてきた心を違った意味で騒がせた。 「ここのケーキは男女問わず軍内でも人気でね、特にイチゴのショートケーキが美味しいらしい」 そう言ってお店に連れてきてくれたロイさんの言葉通り、今まで食べた中でここのケーキが一番美味しかった。 人気、という言葉を証明するみたいに落ち着いた色合いの店内は混雑していて。 ちょうど小腹が空く昼下がりという時間帯もあるだろうけど、女の子ばっかりで埋め尽くされた席はなんとも華やかで、 まだ女の子になって間もない僕は少々落ち着かない。 ロイさんは、そんな事を露にも気にしていないみたいで、エスプレッソをマイペースに飲んでる。 その悠然とした雰囲気は、僕も見習いたいくらいだ。 この人は本当に大人だと思う。そりゃはるかに年齢を上回るんだから当たり前で、自分と並んで兄妹に見られるくらい外見が若くても、だ。 以前、実際に間違われ複雑そうな表情を浮かべていたのを思い出してくすりと笑った。 彼の持つ余裕と寛容さは、一緒にいるだけで包み込まれるような安心感を抱かせて、ずっと側にいたいと思わせる。 それだけじゃ身内と同じだけど、僕はそれ以上の感情を持って側にいる。 ロイさんを恋愛対象として見ているということだ。 ただ、この気持ちはどうやら気付かれていない上に、誤解しているようで。 僕は兄さんに恋してる、とロイさんの目には見えてるらしい。だから彼の世界では兄さんと恋人同士になるみたい。 僕を見るほとんどの人が「アルは分かりやすい」と言うくらい、ロイさんが好きだと顔に出ているのに。 あの兄さんだって「無能はやめとけ」って朝晩喚くくらい、僕は分かりやすいのに……不本意だけど。本人だけが知らないらしい。 一番気がついて欲しい所には鈍感だけど、聡くて優しいこの人は――この身体になって初めての恋を、一緒にいる時は甘いモノにしてくれる。 彼の前に差し出した恋心はひとときの切なさを忘れて、甘い味を吸い、一層膨らんで自分の元に戻ってくる。 兄に恋してるって誤解している所だけを除けば、とても幸せなんだけどな。 まだニコニコと見つめる眼差しに、ずずーっとワザと行儀悪くストローの音を立てる事で、恥ずかしさを誤魔化しつつストレートティを飲み干した。 既に氷の溶けた飲み物は若干温くて、ここに座してから大分経った事を教えてくれた。 「お忙しい中、付き合って下さってありがとうございます」 ゆるいウエーブのかかる毛先を指で梳きつつ、お礼を言った。 「君は気がついていないんだろうな。恥ずかしい時に髪を弄る癖を」そう言って無意識の癖を見抜いたのはロイさんだった。 直そうと思っても、それでも触れてしまうのが癖で。見抜いた彼の前では無理矢理隠し通すより、素直になった方がまだマシだと思う。 女性になってから伸ばし始めた髪はまだ肩上すれすれ。指先で毛先を弄っても伸びる事はないけど、願いを込めて触らずにはいられない。 女性としてこの世に生を受けた人より自分は男として過ごした年月は長いし、どうしたって敵わない。 よく兄さんにも言われている事だけど、些細な仕草に男を滲ませてしまうから、せめて外見だけでも女性らしくつり合うように僕は髪を伸ばし始めた。 彼に恋してもいいんだと、知った時から。 「アルフォンスに礼を言われるような事をしたつもりはないが、素敵なレディからの言葉は、素直に受け取っておこうかな」 こんな台詞を吐いて、それに頬を染める自分を見て気がつかないのはどうなんだろう? 微笑む彼に微笑みを返して、内心溜息をついた。二日に一回はこうして顔を合わせているのに、僕の気持ちに気がつかないなんて、筋金入りの鈍感だ。 まぁ、今日は兄さんの邪魔がなかっただけ、良かったってことにしよう。 「それじゃ、そろそろ出ようか」 「あ、今日は僕が……」 払います、と言おうとした口を最後にと取っておいたイチゴで塞がれた。 ロイさんの手に握られたフォークが口内から出ていき、「任せなさい」と微笑む。好物でもあるイチゴを吐き出す事も出来ず、 甘酸っぱい果実に邪魔された言葉と一緒に飲み込んだ――今日こそはと思っていたのに、また彼に奢られることになりそうだ。 けして払わせない、そんな所も魅力だと思うし、大切にされているようでくすぐったく思う。 それでもそのまま受けてばっかなのは性に合わない。 払う事は出来ないけど、お会計以外に僕が出来る事をするまでだ。 そろそろ、終わりにもしたいし。 「ロイさん」 立ち上がった彼を呼べば、僅かな時間も待たせないとジェントルマンみたいにすぐ「なんだい?」と返してくれる。 細めた瞳は本当に優しい光を帯びていて、どんな女性でも見つめられれば甘く心をときめかせるんだろうな。 それは、僕も例外に漏れる事はなくて。 「ありがとうございます」 多大な勇気に甘いときめきをプラスして、お礼と一緒に唇へ口付けた。 思ったよりも高い位置にあったそれは、意外と柔らかくて温かかった。 目を見開き、瞬きを忘れて固まる姿は「准将」とは程遠く、無防備な表情は可愛いとすら思えた。 ちゅっと高らかな音を立て唇が離れれば、そこにはもう微笑んでいるロイさんがいる。 彼は優しくて聡明で紳士、人の心の機微には聡いのに、ホント自分には疎い。 特に僕と一緒の時は、僕の事を第一に考えてくれるあまり、自分の事に無関心すぎる。 まぁ、訂正しなかった僕にも罪はあるわけで。気持ちの屈折した日々はそれなりに楽しかったけど、もうさよなら。 とっておきの秘密をお礼と一緒に差し出した僕に、貴方はどうでるの? 「……やられたよ」 すごく嬉しそうに破顔したロイさんに、僕もつられて笑ってしまった。 今までずっと向けられていた穏やかな大人の男性の笑顔ではなくて、どこか子供っぽさを匂わせるはにかんだ笑顔は見蕩れるくらい格好良かった。 「紳士」のロイさんとはまた違った魅力に出会えて、秘密との等価交換は十分。 「今度からは空想でも、君の兄さんを登場させないよ」 殺意が芽生えそうだから、と続けた彼の意外と嫉妬深い事を知って、噴き出してしまう。 「うん。でも殺さないでね、僕は兄さんも好きだから」 だって、こうして貴方に恋する事が出来たから。 兄さんが僕を練成してくれなかったら、想い人とのキスが思った以上に気持ちいいということを知らないまま。 聡いあなただから、僕の気持ち判るよね? 「……私が鋼のに感謝の抱擁をしたら、どうでるだろうな」 安易に想像のつく事を、顔を見合わせて笑ってから手を取ってくれる。 白い手袋越しに伝わる熱は、幾度となく触れた掌よりも熱くて、しっとり馴染んだ。 先を歩く彼に離れないようぎゅっと掴む。 兄さんにどう言おうか、ロイさん? 軍服に包まれた広い背中に投げかけた問いは、突然始まったラブシーンで俄かに騒がしくなった店内にまみれて、 掻き消されてしまったけれど。 ぎゅっと一瞬強まった手に、僕は二度目の恋をした。 本当に聡くて優しい、僕を大切に思ってくれるがあまり、自分に無関心になってしまう不器用な人――そんな僕の大好きな、ロイさんに。 「恋の秘密」 H17.8.31