恋獄





「誰にも「愛」の形なんて見えないだろう?」  とても愛を説いているようにはみえない、歪められた唇。  愛とは無縁の眼差しで見下ろすのは、暗い炎を抱く罪深い闇色をした瞳。透けるような白い肌が際立つ鮮烈な色彩は美しくも禍々しい。  見入ってしまうような魔力を秘めた存在を、記憶にはっきりとディティールまでをも焼き付けることは容易いだろう。  元より目立つ風貌を持ち、国の最高権力者である大総統の座に着く男の名前を、この国に住む者ならば知らぬものはいない。  一目見て無意識に根付くその存在を、アルフォンスは心の中で呼んだ。 「ロイ」と。執務室に監禁されて間もなく呼ぶことをやめた懐かしき、恋人の名前を。  この部屋に来てどれくらい経ったのか、今世間がどう動いているのか。  たった一人の肉親の兄は何をしているのか……一度も外出を許されていないアルフォンスには、何も判らなかった。  この部屋を度々訪れる大総統の部下達も、上司には饒舌に自らの仕事ぶりを語るくせに、アルフォンスに対しては一切口を開くことはない。視線すらも合わせない。  ここに存在していないかのような、まるで死人の扱いだった。  黙って監禁される程、アルフォンスは大人しい性質ではない。  しかしロイに何度聞いても知らなくていいと、二人には必要のないことだとしか返ってこず、まともな答えを得られた試しがなかった。  どれだけ言い募り、暴力的に掴みかかっても薄い唇が紡ぐのは「知る必要がない」の一点張りだった。  それならばと、部屋を出入りするロイの部下に尋ねようとしたが「関わるな」とでも指示をしているのだろう、無表情で  知らん振りを始終貫く姿に、命令に忠実な大総統の駒達は有能だと、アルフォンスは卑下しながらも瞳に絶望を乗せることしか出来なかった。 「……これが、愛ですか?」  問う言葉の覇気のなさに、我ながら笑ってしまいそうになる。  アルフォンスの言葉に男は大仰な仕草で驚いてみせ、整った顔を寄せた。 「当たり前だろう? ずっと君だけを愛している」  愛の言葉を乗せた吐息が肌をくすぐる。  甘い愛撫にも似た囁きはしかし――心臓を直接握られているような、今にも命が散り逝く想像を掻き立てられ、僅かに身を震わせた。  囁きとは裏腹に男の瞳は冷め、臨めぬ深淵を湛えている。  純粋な恐怖を煽る視線から逃れるように顎を下げると、首元を戒める首輪から垂れる鎖がじゃらり、と繊細な音を立てた。  赤絨毯に跪く剥き出しの手足には無数の擦過傷が散りばめられ、乾ききらぬ傷からは鮮血が零れては肌の上に一筋の道を作り、絨毯に目立たぬ染みを作っていた。  一寸ばかり先には自身から放出された白濁が掃除されぬまま、絨毯を汚している。  誰が見てもみじめったらしい状況。自分の姿にとうに麻痺した感覚はただ空しさだけを心に残していた。  この部屋に来てすぐ身に纏っていた軍服は破かれ、アルフォンスは常に裸でいることを強要された。  どれだけ抵抗しても変わらない異様な現状の中で、羞恥心やプライドなど人として当たり前の尊厳を持ち続けるにはとても狭かった。  無意識のうちに「生きる」ことを選択したアルフォンスの心はそれらを呆気なく手放した。   「あなたの愛は……」  こんなものじゃなかった、と続けようとした唇を噛んだ。  優しく包み込んでくれる、ひだまりのような愛だった。  アルフォンスの心の底に潜んだ暗い感情さえ気付き、さりげなく汲み取ってくれる人だった。  心優しい人がどうして……ずっと側にいたのに、心で繋がっていたと思っていたのに。  変貌の片鱗すら伺えず、この状況はあまりにも突然だった。  ――だが、一つだけ心当たりがある。 「だい、そうとう……」  ぽつりと零した言葉に、男は深い笑みを唇に刻み付けた。  ゾクリと背中を這うのは、恐怖。  ロイから発せられる圧倒的なプレッシャーの前に、アルフォンスは視線を外した。  前大総統が「不慮の事故」で亡くなり、時期大総統の座と噂されていたロイが就任してからおかしくなった、と決して口には出来ないことを心の中で呟く。  それは側にいたアルフォンスだからこそ気がつけた事実だろう。  現に誰もロイの不信さに気が付いてはおらず、皆純粋に男の就任を祝福していた。勿論、アルフォンス自身も喜んだ。  誰よりも愛する人の昇進を、我が事のように喜んだのだ。  それが何故、こんな事になったのか。幾度も問いかけたって帰ってこない答えにもう、考えることすら放棄してしまいたくなる。  ロイを睨みつける強さすらもう、内にはない。  いつから「己」は、見下ろされる立場になったのだろう――全てが間違っているのに、正すことは出来ない。  この部屋の主は彼だ。彼がイエスといえばイエスと応えるしか、生きる術がない。  光も希望もないこの部屋の、唯一の望みは、苦しみと愛を与える目の前の男。  言葉一つで解放出来るのは名ばかりの恋人であるロイ・マスタング、だけだ。  愛しくてたまらないからこそ、この仕打ちにアルフォンスの心は折れた。  こちらを見下ろす闇色の瞳を込み上げる吐き気を堪えて見つめ返す。  時に恨み殺したいとさえ思った男は、それでもまだ愛してやまない。  「ロイ……」  目の前にいる男が今まで愛してくれたロイ・マスタングだと思いたくなくて口にしなかった名を、願いをこめて紡ぐ。  僅かに目を見開いた男は初めて、禍々しさのない笑顔を浮かべたが。 「もう離さない」  すぐに見慣れた瞳を注ぎ、優しい抱擁をもって新たな絶望を突きつけた。  温かなぬくもりは昔のままであることに、アルフォンスの胸は酷く痛んだ。  目の前にいるのは「支配者」――大総統、ロイ・マスタング。  恋人であるロイ・マスタングはどこにいったのだろう?   求めていたものは檻ではない、優しく陽だまりのような暖かい腕のなか。  大きい窓から差し込む陽光は眩しいほどに輝いて見えた。  まもなくカーテンで作られる暗い世界から意識を逃避させるように窓を見つめる金の瞳は更に輝きを増し、男の唇が愉悦に歪んだことを  胸の中で自由を望むアルフォンスは知らなかった。  互いに裸で抱き合うのはこの部屋に来て始めてだった。ぴったりと重なる肌の温度は変わらない。  汗の伝う艶かしい首筋に思わず目を奪われ、雫の流れを追った先――白肌を彩る深紅の模様に、アルフォンスは目を見開いた。  その印は人でありながら人ではない、証だった。   「……あなたは……だれ?」  揺さぶられながら問う口調の震えは、けして快楽に溶けただけでないのは明らかだった。  音を立てて崩れる心が現実という名の地獄のなかにある救いかもしれない。全ての感覚を忘れられるよう、狂ってしまえばいいのだ。  絶望を抱いても尚、人間を捨てた男を愛するのを止められず、殺すことさえ出来ない弱者は。 「ロイ・マスタング。この世界で、ただ一人君を愛する男だよ……」  甘く響く声音が容赦なく告げる事実に、渇いたとばかり思っていた眦から熱い雫が溢れる。 「ただ一人」と強調した言葉に裏も表もない純然たる深紅の現実に、もうこの世界にはロイしかいないことを知る。  愛するひと、愛されるひともいない目の前の男だけの世界を、彼は作り上げたのだ。  込み上げる嗚咽をそのままに、アルフォンスは瞼を閉じた。 「アイシテイルなら、もう……」  殺して、まともな心が呟く最後の言葉を奪うかのように優しく柔らかな唇が塞ぐ。  あの頃のままの、優しいキス。だから殺せない、否定できない。  何度も壊れ物を扱うかのような口付けに、アルフォンスの心は限界を迎えた。  牢のような愛を前に、自身すら狂ってしまえばいいのだ――そう、この世界には殺したいほどに憎く、愛しい男しかいないのだから。  愛して愛して、愛という呪いをかけてやる。 「アイシテル、ロイ……」  この言葉で人が殺せるのなら、何千何万と口にしてやるのに。                                                                     「恋獄」H20.10.2

 

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