happiness――白の幸福





 期待に満ちた眼差しがずっと僕を見ている。 「君とこうして向かい合って食べる夕飯も久しぶりだな」 「そうですね」  嬉しそうな声で話すロイさんに、パンをちぎりながら頷く。  ロイさんの家へ向かう途中に店で買って温め直したパンは、まるで焼き立てのように割ると湯気が立ち、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。  それに誘われて口に含むと、ふわっとバターの香りが広がりとても美味しい。続いて二口、三口と口にする。  ロイさんはそんな僕を、濃厚な紅の色したワインをグラスで遊ばせながら見つめている。  正直めちゃくちゃ食べ辛い。視線を常に向けられるこの状況に溜息が出そうになるけど、表面には出さず無理矢理パンで押さえ込んだ。  僕の心情を知らない、期待に満ちた黒い瞳は一瞬でもこちらを離れることはなかった。  しかも「お腹が空いたな」って言ってたくせに、口にしたものはパンとチーズにワインだけ。  いつもならしっかりとご飯を食べる人なのに、テーブルいっぱいに並べられた料理にあまり手をつけていない。一緒に夕飯を食べるからって、  張り切ったロイさんが行きつけの店でテイクアウトしてくれた料理はどれも本当に美味しいのに。  でも僕は、ロイさんが食べなかったり、熱心に視線を送る理由はちゃんとわかってる。  今日は、バレンタインデーなのだ。  イベントごとに敏感な恋人は、僕からチョコレートを貰うことを非常に楽しみにしていた。この日を迎える一ヶ月前から、  毎日毎日「来月はチョコレートの日だ」やら「チョコレートは好き」とか言ってたくらいだし。  自信家な彼のこと、貰えないって未来を一切想像していないのだろう。  さすがにあげないなんて事はしないけど、朝からずーっとこんな感じで期待されてたから、ちょっと意地悪したくなってしまったり。  ……本当は今朝のうちに渡してしまおう、と思っていたのにな。  最後のひとかけらのパンを口にしながらよからぬ事を考えていた自分を、ロイさんはにこにこと見つめている。  視線が合うと「もっと食べるか?」とパンの入ったカゴを勧めてくれた。  気遣いの裏で「ギブミーチョコレート!」とか思ってんだろうなと考えてしまうのを顔に出さないようにして、「結構です」と断った。  その一言を事食事終了の意と受け取ったのか、ますます期待に目を光らせるロイさんに気がつかない振りをして「デザート下さい」と言うと、  それでも嬉しそうにチョコレートムースを差し出すロイさんは、なんだかもう呆れるを通り越しておかしい。  笑いを堪えてミントの葉と、ベリーで飾りつけされた綺麗なチョコレートムースを一口、口にする。 「あ。これ、すごく美味しいんですけど」 「だろう? 今晩の為に有名なパティシェに頼んだんだ」 「今晩」の部分で強調された気もするけど、あえて無視をしてチョコレートムースを食べる。  程よい甘さにマッチするベリーの甘酸っぱさが美味しくて、お皿から綺麗になくなったのもすぐだった。 「そういえばロイさんは食べないんですか? ……全部食べちゃったんですが」  全て腹におさめてから気が付いた。  白いクロスの引かれたテーブル上を見渡しても、同じムースの皿はなかった。   「ああ、私はいらないよ。今日という日に他所のチョコレートを食べるなんて、無粋なことはしない」 「そうですか」  ……僕の心配は無用で終わったと喜ぶべきなんだろうか?  ここまで徹底したロイさんの態度に、僕の意地はもう限界、だった。  我慢していたものが溢れ、僕は笑いを堪えることもせずに噴き出してしまった。 「何かおかしいことでも言ったかい?」 「だって、ロイさん本当にチョコレート欲しいんだな、って思うと大人気ないというか可愛いというか……」 「仕方ないだろう? 好きな相手からチョコレートを貰える日なんだ。今日くらい大人の矜持とやらは忘れてくれ」  照れくさそうに話すロイさんに「はいはい」と返して、側に置いてある仕事用の鞄からチョコレートを出す。  銀色のリボンが巻かれた小振りな袋の中身は、お酒入りのトリュフだ。 「手作りじゃないですが、バレンタインチョコレートです」  「質が問題ではない、君から貰えることに価値があるんだ。ありがとう、アルフォンス」  テーブル越しに手渡すと、ロイさんはすごく嬉しそうに笑って、割れ物を扱うようにそっと受け取ってくれた。  あまりの喜びようにこちらまで嬉しくなる。  この人だったら今まで多くのチョコレートを貰っていただろうに、しげしげと物珍しく見つめるロイさんが可愛い。  思わず僕は椅子から立ち上がって、顔を寄せていた。 「もうひとつ、プレゼントがあるの忘れてました」  ロイさんがこっちを向いて言葉を返すよりも先に、僕はキスをした。見開いた黒い瞳を最後に、瞼を閉じる。  さっきまでワインを飲んでいたロイさんの唇は少し、アルコールの匂いがした。  いつもより熱く感じる柔らかな肉を食むように堪能してから、ぺろりと舐めた。唇の形をなぞる様に舌を動かして、押し付ける。  ロイさんは今、どんな顔してるんだろう? ふって湧いた好奇心からゆっくり瞼を開いて――引っ掛かりを覚えた。 (あれ、なんかおかしい)  塞がれた唇ではその疑問を口にしようとも、言葉にならなかった。小さな違和感は本当に些細なものだったけど、正体を探ろうと視線を巡らす。  目先にはぼやけてしまうくらい近距離にいる目を閉じたロイさんがいて、リビングに新調された部分はないし、テーブルには空になった皿と  手付かずの料理の乗ったお皿が並べられて……さっきまで見ていた風景に、変わりはなかった。  気のせいか、と諦めかけた目端に、ロイさんの奥に位置するキッチンの床に見慣れないものが置かれてあることに気が付いた。  目をこらして見ると、どこにでもあるような無地の大きめの紙袋だった。だけど、その形が変にごつごつしている。  紙袋の許容量を越えているようで、所々破けて中身が顔をだし今にも出て来そうだ。……隙間から出ている中身に、ピンと来る。  それぞれに綺麗にラッピングされた、多種多様な箱のやら袋の群れって……チョコレートだ。 「アルフォンス……」  唇の隙間から囁くように名を呼ばれると同時に、僕の舌に絡みつく濡れた感触を感じて、僕は咄嗟にロイさんから離れた。 「どうしたんだ?」   何も言わず離れた僕に、ロイさんの不思議そうな声が聞こえた。  咄嗟に取ってしまった行動に、内心自分でも驚いた……驚きが去った後の感情は、黒い嫉妬、だった。  僕からのチョコレートをすごく楽しみにしていたのに、他の人からもチョコレートを貰ってたんだとか。  誰に対しても嬉しそうな顔して受け取ったのかな、とか。考えうる限りの、最悪な展開を頭に浮かべていた。  ロイさんがモテる人だって知っていたはずなのに、バレンタインデーに顕著にそれが現れるだろうってこと想像出来たのに……すごくショックを受けていた。  黒い感情に支配された自分を知られたくなくて、誤魔化すように慌てて壁にかかっていた時計を仰ぎ見た。 「もう、遅いから……帰ります」  無理に出した声には抑揚がなかった。  時計を伺ったロイさんが「ああ」と頷く。 「もうそんな時間なのか……しかし、もう少し君を味わっていたいな」  キスを誘うように顔を近づけてくるけど、もうキスする気分じゃない。  素早くカゴからパンを掴んで、ロイさんの口に思い切り突っ込んで立ち上がった。  むごご、と変な声を上げるロイさんに構わず、いそいそと仕度を済ませて鞄をひっつかむ。 「……キ、キスくらい、いいだろう?」  片手にパンを手にしたままの涙交じりの黒い瞳が、僕を恨めしそうに見る。  ロイさんの表情にやり過ぎたかな、と思ったけど、目端に映り込むチョコレートの紙袋を見ると罪悪感は吹っ飛んだ。 「……キスで止まらないでしょう? 帰らないと兄さんに怒られますから」 「それは……」 「普段の行いを見てたら、甘い顔ばっかしきれません。じゃあ、帰ります。ごちそうさまでした」  不満げな表情のロイさんへお礼を言って、リビングを出た。  暗い廊下を歩き始めてから、自分の行動に少しだけ後悔し始めた。  どこかバレンタインって僕たちだけのイベントだって、思ってたんだろうな。平等にあるイベントということを、忘れてたんだ。  僕もロイさんに負けず、浮かれてたのかもしれない。ああいうことがあるって、普段のロイさんを見てたら判るもんなのに。  ロイさんは誰から見ても本当に魅力的で、優しい人だ。見目整った容姿かつ女性に対しても優しいからモテるのは当然で。  付き合ってからも女性に対する態度は変わってないけど、今までの態度が一朝一夕に変わるようなもんではないし、  何度も何度も嫉妬してきたけど、勿論僕にだって優しくて。僕は、そんなロイさんの姿も含めて好きなんだ。  文句言いたい時もあるけど、チョコレートを渡すくらいに、ね。  心の中で「ロイさんごめんなさい」と呟いた。  廊下の果てに現れた玄関のノブを掴んで、扉を開く。  闇の中に小さく白いものが舞い、それが雪だと気付くと同時に寒さを感じてぶるりと反射的に震えた。  一歩踏み出して、突然、僕の首元がふわふわしたものに包まれた。 「!?」  驚いて見下ろすと、正体は真っ白なマフラーだった。  振り向こうとした僕を、伸ばされた腕にそっと動きを阻まれる。  身体に回された腕と背中にあたる暖かい熱は見知ったもの。 「チョコレート、ありがとう。今日この日に食べるのは恋人である君のだけだ。あとは明日以降、だな」 「あ……」  耳元でくすくす笑うロイさんに、一気に顔が熱くなる。  首元を柔らかく包んでくれるマフラーに、隠すように顔を押し付けた。  ……優しいって時々、心臓に悪い。 「……あの、このマフラーは?」 「それは……私も君にチョコレートを渡そうと思ったんだが……。やはり女性の波を掻き分けてまで購入し辛くてな。  だから代わりにそのマフラーをプレゼントしようと……気に入ってくれただろうか?」  確かに、大人の男性がチョコレートを買う姿って想像できないもんね。  思わず頭に浮かべて笑ってしまった僕を咎めるように、腕が強く身体を抱き締める。 「ありがとうございます、嬉しいです」 「次に君がここに来たら、独占させること。……覚悟するんだぞ?」  低く囁かれ、耳に口付けを受ける。  馴染みある感覚が、寒さとは別の震えをもって身体を巡ってゆく。  もう嫉妬を忘れた都合のいい僕は、ロイさんの背中に甘えるよう身を預けた。 「喜んで。大好きです、ロイさん」  小さく呟いた僕の言葉に、ロイさんは「私もだ」と吐息混じりに愛を返してくれた。  舞い落ちる雪に逆らって上昇する、甘い吐息に向かって手を伸ばし掴むように拳を作った。  開いた手の平には、一瞬前まで美しい結晶をしていただろう水たまりが出来ていた。 「……ロイさん、愛してるって言って」  雪のように解けることのない、愛の言葉を。                                                                     「happiness―白の幸福」H19.2.16

 

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