とどかない





 窓越しに広がる空の美しさに惹かれ、書類を抱えたアルフォンスはその場で足を止めた。  忙しく人々が行き交う廊下の端に寄り、手近な窓から空を見上げる。  よく磨かれたガラスの向こう側には雲ひとつない青空。無意識に漏れる感銘めいた吐息が一瞬ガラスを白く曇らせる。  ふと視線を軍部の構内へと移したアルフォンスの目に、見知った後姿が飛び込んできた。 鮮やかな空の青さや木々の緑をも霞ませる、コートの裾をはためかせ颯爽と歩む男の存在に大きな瞳が見開かれる。  皮膚の下にある心臓は常を忘れて騒ぎ、焦燥感にも似た甘い痺れに惑う身体。  皆が同じ軍服を着ていてもけして見間違えることはない、ただひとりの愛しいひと。 「ロイさん……」  喧騒に交えて無意識に名を紡いだ唇が綻ぶ。偶然の遭遇にすら、運命を感じてしまう。  見ているだけでは物足りず、抱える書類に気遣いながら窓の鍵へ手を伸ばした所で、アルフォンスは動きを止めた。 急に立ち止まったかと思えば振り返ったロイの、なんと美しい笑顔だろう。薄い唇を持ち上げ、柔らかく名前を呼ぶ声が  聞こえてきそうなその顔に、アルフォンスはしばし見惚れた。時を止めて独り占めしたい、猛烈な独占欲を掻き立てられる。  呼びかけようと窓を開いたアルフォンスはしかし、言葉を発することは出来なかった。  眼下のロイが真っ直ぐに見つめる先――突如視界に現れた青い軍服の女性。  その女性は淀みない足取りでロイの元へ近づくと、手にしていた封筒を彼へ差し出した。封筒を受け取ったロイが、瞳を細めて笑う。  開いたばかりの窓をそっと閉めた。顔は見えないが束ねた茶髪を背で揺らす彼女は、何度か執務室で遭遇したことがある。  ロイにとっては何でもない部下のうちの一人であることは明らかだった。  浮かべる笑顔にアルフォンスが危惧する他意など一切ないのに、些細な出来事で拘泥する自身の感情に情けなくなる。 「大丈夫。僕達、付き合っているんだから……」  自らへ言い聞かせるように呟いて、アルフォンスは光から背を向けた。   「これで終わりか……アルフォンス」  流麗なペン捌きで瞬く間に溜まっていた書類を片付けたロイが、凝り固まった身体を解すよう大きく背伸びをしながら名を呼んだ。  近くで書類整理をしていたアルフォンスが手を止めて、声の主を振り返る。 「なんですか?」 「私は疲れた」 「はあ? うわわッ!」  唐突な物言いに呆気に取られた一瞬、束ねた書類が手を離れそうになる。  散らばってしまわぬよう慌てて掴み直したアルフォンスの耳へ、くすりと小さな笑みが届いた。二人しか居ない執務室、声の主はただ一人しかいない。  情けなさのあまり縮こまりたくなる気持ちを押し隠し、平然を装いながらアルフォンスは改めて問いかける。 「何ですか?」 「私の部下である君には、上司の疲れを取るのも仕事だとは想わんかね?」  だから来なさい、椅子でふんぞり返って手招きしてみせるロイの子供っぽい理論に、思わず頬を緩めそうになるも――  仕事中であることを思い出したアルフォンスは、慌てて呆れているという表情を作りながら溜息をついてみせた。 「それ、公私混同って言いません?」 「ん? それは違うなアルフォンス。……ほら」  ロイが人差し指を立てた途端、終業を知らせるチャイムが空気を震わせた。  あまりのタイミングの良さに驚くアルフォンスへ、ロイは得意げな笑顔をぶつける。  持ち上がる唇端が普段以上に青年を思わせる、自身の大好きな顔。いつもならこちらもつられて笑顔になるその顔に、アルフォンスは胸の痛みを覚えた。  窓から入り込む夕陽に照らされた笑顔は、女性に向けたものと、そっくりだった。 「これから先の時間はプライベートだ。真面目なアルフォンス君でも、問題はあるまい?」 「……まあ、ちょうど僕も仕事は終わりましたし……」  僅かな合間を取り繕うように笑うアルフォンスを手招く白い手はいつもと変わらない。  密やかな胸の痛みをそのままに書類をしっかりと纏めてからテーブルへ置き、手招きされるがままアルフォンスはロイの元へ歩み寄った。  いつもは見上げる立場が、今は見下ろす側になっている。こちらを上目に見やるロイに反応する鼓動。新鮮な視界に目が離せない。  見下ろす先にいる彼の白い掌が目の前へ出され、反射的に手を重ねればあっという間に膝へ誘われた。  背中へ腕が回され広い胸板に顔を押し付けられる体勢。髪を撫でる吐息の甘ったるさに、抱かれる気恥ずかしさが一歩遅れてやってくる。 「大量の仕事をこなしたあとのアルフォンスはいいなあ」 「……って、溜め込んでたのはロイさんでしょう? 自業自得です」 「これまた手厳しい」  身動きが取りづらい腕の中で顔を上げれば、間近にある黒い双眸と目が合った。  ロイと目が合うたびに伺える優しい光に見つめられ、アルフォンスの胸中には普段通りであることに対する安心感と、先程の光景が複雑に絡み合う。  愛されている、それは疑うことなくはっきりと感じられるのに。明瞭に見えているはずなのに。  この指が相手に触れているのに。衣服越しに感じる生命力溢れる逞しい身体の感触で十分、なのに。  薄い膜越しに相手を見ているかのような、曖昧な疎外感――胸に抱かれても消えてくれない不安。  側にいることは果たして幸せなのだろうか。アルフォンスは考える。  たったひとしずくの小さな不安が、片思いの時よりも深く重たいのは何故? 「好きだよ、アルフォンス」 「……僕も、ロイさんが好きです」  この前は「愛している」と言ってくれたのに……言葉に込められた愛情には疑う余地などない。  それでも、言葉のひとつひとつの重みを計ってしまう。何故その言葉を選んだのか、気になってしまう。  心の水面に不安という名の波紋が広がる。幾重も幾重もの輪を作って。 (ロイさんは僕のどこが好きなの? 僕は大好きなあなたを疑うほど醜いのに)  ゆっくりと距離を詰めてくる唇の到来を目を瞑り受け止める。触れた箇所から広がる心地よい甘さにさえ、しつこく居残る不安は騙されてくれない。  茜色を湛える瞳の優しさが居た堪れず逃れるように胸元へ頬を寄せた。  ここから見つめる景色は全てが美しく見えたのに、今はただ全てが憎く敵にさえ見える。  相手を想うぶんだけ大きく強く、それは研ぎ澄まされてゆく。 「ロイさんが、好きなんです。本当に、あなただけを……」  諦観するには早く、爛熟するにはまだ遠い――はじまったばかりの恋愛。  恋とはもっと、甘く優しいものだと思っていた。 「どうしたんだ? 今日の君は甘えん坊だな」    背を撫でる大きな掌のされるがままになりながら、小刻みに揺れる肩へ頭を預ける。  ――大人の余裕で笑わないで欲しい。置いてけぼりにしないで。  あまりにも幼過ぎるこの気持ちが情けなくて、握りつぶすように拳を作った。                                                                       「とどかない」H23.8.3

 

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