「仕事をしているんだよ」 物言いたげな僕の視線に気がついたのか、准将は笑いを含んだ口元を開いた。 准将の机には書類の山、山、山。先程退出した時を思い出して今の状態と間違え探しをしても、一つの違いも出てこない。 コーヒーカップを置くスペースすらもなく、書類に占領された机を前にして仕事もしないで堂々と深く腰掛けている姿に、 毎日走って部屋と資料室を行ったり来たりしている僕にとって、少々腹立たしく思ってしまうのは仕方がない。 仕事をしているんだよ、と言いつつ一向に動こうとしないでこちらを見つめる准将に、ちょっと居心地の悪さを感じて、 黒い瞳から逃れるように足早に机まで歩み寄った。腕いっぱいに抱えていた資料を准将の前に差し出す。 「頼まれてたものです」 「ありがとう」 相変わらずにこやかな表情のまま、白い手が書類に触れる。 滑るように資料を手渡した際、指先にちりっとかすかな痛みが走った。資料が離れた指先を見ると、斜めに裂傷が出来ていた。 裂けた部分から血液が溢れ、あっという間に血の玉が出来る。 血の量にたいして傷は深くない、そのまま放っておこうと下ろそうとした手の動きを、いきなり阻まれた。 「……准将?」 手首を掴んできた白い手に、内心酷く驚いた。さらりとした布越しの体温に胸が僅かに疼く。 がっしりと掴む白い手を辿った先の准将は、真剣な眼差しをしていた。 僕の視線に構わず、手首を動かしては血で濡れた指先を様々な角度から見ていた。 「あの」 「切れたのか」 問いかけようとしたタイミングで、准将はただ一言そう呟くと、手首を引っ張った。 されるがままに見ていた僕の目の前で、准将はなんの躊躇いもなく指先を口に含んだ。 「ちょ、准将!? 大丈夫ですから!!」 突然温かい粘膜に指先を包まれたことに慌てて離そうとするも、准将の力が強くて微塵も動かせない。 初めて人に指を舐められた。しかも相手は想い人である――准将だ。 平常を失った鼓動が早まる。思っていた以上に人の口内は熱くて、絡み付いてくる舌の感触が柔らかくなんともいえない。 傷口を舌先で突くように触れられて、指先がピリピリした。かと思えば、そっと撫でるように触れてくる。 瞼を伏せて、一心に指先に吸い付く准将は、戸惑う僕にお構いなしだ。 「もう、大丈夫ですって……」 「大丈夫なはずがないだろう、君が怪我をしたんだ」 ちらと黒い瞳に見上げられ、思わず胸が鳴った。 それから僕は何も言えなくなって、言葉を発することをやめて口を閉じた。 准将も何も言わぬまま唇から指先を離そうとはしなかった。 会話を失った部屋には、舌が指を舐める際に生じる濡れた音しか聞こえない。さっきよりもドキドキと高鳴る心音。 静かな室内だからきっと准将にも聞こえているはずだ。それがとてつもなく恥ずかしいけど、心のどこかで聞いて欲しいって思ってる。 ……准将を意識してるんだ、って知って欲しい。 「痛くはないか?」 いつの間にか口元を離した准将が、ぺろり、と自身の唇を舐め上げてから僕を見上げる。 ぞくり、と背筋を違和感が襲う。准将の目には「痛くないか」と気をかけてくれた言葉が、まるで冗談だったのではないかと思う程、 心配の色なんてどこにもなかった。そんな類のもんじゃない。 そこにあったのは……熱情。黒い瞳の中の僕に重なって、ゆらゆらと揺らめく炎に気がついてしまった。 まるでそのゆらめきに呼応したように、僕の内からも湧き上がる熱い感情。 どんどん溢れてくるそれを意識しないようにと努めても、感情は僕を飲み込むチャンスを伺い首を擡げている。 このまま彼の首元に抱きつき指先が独占している唇に自分の唇を押し付けたら、どんなに甘く幸せだろうか…… そんな事を考えただけで、身も心も溶けそうになる。 僕達の間を阻む机が憎かった。 しかし机は最後の砦だ。これがなければ、感情のままなり振り構わず准将へと抱きついていただろうから。 だって、机越しに交わされる眼差しの色は僕と――同じ、なのだ。 同じ種類の熱を秘めているなんて、何という僥倖だろう。 確かめたい、触りたい、唇で互いの温度を知り合いたい。僕の頭が欲求で埋め尽くされていく。 「准将、僕は……!」 内を滾る感情に押され言葉を紡ごうとした唇に押し当てられた、白い人指し指。 先の言葉を遮ろうとするその仕草に、僕は開いた唇のまま動けなくなった。 だって、准将の緊張を唇に添えられた指先で知ってしまったから。僅かに震えた白い手が僕を、拒否している。 呆然と立ち尽くす僕を見つめる瞳にはいつの間にか熱炎は消え失せていて、いつもの落ち着いた理性的な光が宿っていた。 これ以上は言わせない、そんな雰囲気を醸し出す黒い瞳。 はっきりと拒否されて恥ずかしさと空しさと苛立ちが、熱を上げた頭を急激に冷ましてゆく。 まるで今までの事が夢のような豹変が理解できず、唇に押し当てられたままの指先を力いっぱい噛んだ。 眉を潜めた准将がゆっくりと指先を唇から離し、ぽんぽんと宥めるように頬を撫でていった。 思い切り噛んだ白い指先は唾液で濡れ、かすかに血が滲んでいる。 痛いだろうに余裕めいた笑顔を浮かべる准将が、憎い。 「何か、お気に召さないことでも?」 さっきまで僕の唇に当てていた指先をそっと舐めた准将の、あまりの白々しさに一瞬言葉を失って目の奥が熱くなる。 結局は僕の勘違い、か。 准将に熱をあげていることを見透かされた上でからかわれたのかもしれない。 一人で舞い上がって馬鹿みたいだ。込み上げるものを感じたけど、この意地の悪い人の前では絶対泣きたくない。 弱みを見せればまた、僕の大好きな笑顔でからかうのだろう。僕は、我慢強い方じゃない。 自分を守ろうとするからこそ視線を鋭くさせた僕を、変わらぬ笑顔で准将は受け止める。 「……あまり、誰かれ構わず良い顔をしないほうがいいですよ」 今出来る精一杯の嫌味に准将は笑みを深めた。それだけだった。 到底准将に敵わない僕は、ぶつける言葉すら見当たらずただ唇を噛むことしか出来なかった。 手首を掴んだままだった大きな手を乱暴に振り払う自分の子供っぽい行動に、反吐が出る。 指にはもう血はついておらず、唾液でしっとりと濡れていた。 空気に触れひやりとする感触に否応にも先程の光景を思い出し、慌てて上着で拭った。意識しているのをありありと伺わせる行動を 取ってしまったことを悔やんだけど、准将は特にからかうことなく僕が持って来た資料に目を通していた。 涼しい顔で仕事に取り掛かる准将は普段通りの姿。 まださっきのことを引っ張っている自分が惨めで、一刻も早く退室しようとおざなりに一礼してドアへ向かい歩み出しす。 静かな室内に響く靴音が、ぎこちなく聞こえた。 「悔しそうな顔もまたソソる」 靴音に混じり届いた言葉に、かっと頬が怒りと羞恥の判断付かない熱に犯される。 「今度は、どんな顔を見せてくれるんだい?」 ドアまであと一歩、という所で掛けられた声に足がストップした。 また来るだろうことを前提に話す准将に血が上り、思わず振り向いた。 「もう、来ません……!」 「君の直属の上司は私だ」 暗に拒否権はないと知らしめる言葉に、僕はぐしゃりと顔を歪めてしまった。もう我慢の限界だった。 何で、そんな優しい笑顔で残酷な言葉を吐けるの? どこまでもからかう酷い人だと思うのに、准将への気持ちは止まる事無く、むしろどんどん膨らんでゆく。ぎゅうぎゅうと締め付けられる胸が苦しい。 溢れるものを拭うことなく、嗚咽を漏らす僕に准将は笑う。 「アルフォンス……また明日も同じ時間に来るように」 いっそ嫌いになれたらどれだけ楽になるだろう。 僕は自分で志願して軍の狗となった。上司である准将に逆らい噛み付くことなど出来ない、堂々たるしもべ。 絶対の命令に、返す言葉はひとつだけ。 「イエス、サー」 くぐもった返事を返せば、満足そうに微笑んだ。 ああ、また惚れてしまった。込み上げる涙は、まだ止まりそうに無いのに。 「職権乱用」H20.1.14