手をつなぐ





 緩やかな風に煽られ軍服の裾がはためく。今日は晴天に恵まれた気持ちのいい日だ。  室内にこもって長時間書類を作成していたが為に、すっかり凝り固まってしまった節々を解すよう、めいっぱい伸びをする。  仕事だから仕方のない事だけれど、室内に入り浸っていると外の空気が無性に恋しくてたまらなくなる。  新緑の匂いを孕む空気を肺いっぱいに吸い込めば、一種の清涼剤のように身体が心地よさに包まれた。  周りに誰もいないことを幸いにと緑の芝生にごろりと横になったら、視界が青一色で埋め尽くされた。雲ひとつない、  どこまでも高く澄んだ空は、見ているだけで清清しい。ふんわりと頬を撫でる風がちょっとくすぐったい。  こうして大きな空を望むと、人間は本当にちっぽけな存在で、世界の一部分でしかないんだなぁと思う。  自分の為に世界はあるんじゃなくて、世界があるから僕達が生きていられるんだと改めて考えさせられる。  己の小ささを知らしめる空は突き放すように冷たさを感じるけど、悩みを吹き飛ばしてくれる大きな優しさもある。  毎日の悩みなんて、広大な空に比べたら石ころみたいなものだと、言葉なく悟らせてくれるから。  悩みに捕らわれている自分は小さいぞ、バカだぞ、って。 「でも、限界、かな……」  見事な紺碧の空へと伸ばした両手。空は近いようで遠く、掴もうとぎゅっと拳を握っても、その中には何もない。  それはあの人の心も一緒だ。求めても求めても、きっとこの手にはつかめない。一方的な、片思い。  聡いあの人はきっと僕の気持ちに気付いている。  こちらがどんなに必至に隠そうとしても、たった一言挨拶しただけで浮かれてしまいそうになる胸を宥めてる僕に、気が付いている……  見透かした上で微笑みを向け、宥めようとしている胸を大きく揺らしにかかるんだ。  嫌でも、期待してしまいそうになる。もしかしたら、同じ気持ちを共有しているのかもしれない、と。  そうして伸ばした手を、彼は触れることなくスルーする……黒い瞳に映る僕の絶望を、彼は知っているはずなのに、  気が付かないフリをしてまた微笑む。綺麗な笑顔に心は反応しないわけもなくまた甘い痛みを負う、その繰り返しだ。  恋を見せては拒否をされて、疲弊しないほど僕の心は強くない。  それでも、彼が好きな気持ちは冷めてくれないんだ。 「……いつ終わりが来るんだろ」  僕が諦めるのが先か、ハッキリ振られるのが先か。  ……それとも、ハッピーエンドを迎えるのか。 「バカみたい……ハッピーエンドなんて、ありえない事を想像するから、傷付くのに」  自嘲気味に呟き瞼を閉じた僕は、諦めたように天に突き出していた両手をゆっくりと地面に下ろそうとした。  けれどそれは叶わず、温かな何かがそっと動きを阻んだ。  手首に押し当てられた温かな熱は――手だ。身体に緊張が走る。  慌てて目を開けようとしたら、心地よい声がそれを遮った。 「閉じていなさい」  どき、と胸が鳴る。……この声の持ち主は、准将、だった。  どうして? 何で? 嵐のようにぐるぐる巡る疑問はあれど、僕はとりあえずこく、と頷いていた。  突然、前触れもなく准将が現れたことに、心臓がバクバクと煩いくらいに騒いでいる。芝を踏む音さえ聞こえなかった。 「そのままでいたまえ」と言われ、ぎゅっと力を込めて目を瞑る。それを合図に、准将の手が僕の指先に絡んできた。  見ていた以上に大きく固い手の平は、思いのほか優しく包み込んでくれる。  いつもの准将の手を思い浮かべようとして、気が付いた。肌身離さず着用している手袋がないことに。  鎧の時も、身体を取り戻した今までも、准将の手など一度も触れたことがなかった。  初めて感じた准将の体温は温かくて……とくん、と甘い疼きが身体に走る。 「君は何を掴もうとしていたんだ?」  楽しげに問いかけるロイさんは、きっと僕の好きな表情をしているだろう。ずっと見てきた彼の笑顔が、脳裏に浮かんでくる。  何で准将がここにいるの? いまだ問いたい疑問はあれど、今追求するのは気が引けた。  この温かな時間が、すぐに消えていきそうに思えたから。だから、出来る限り落ち着いてロイさんの疑問を反芻して口を開いた。 「……なんでしょうね? でも掴めないもの、だと思います」  あなたの心、とはさすがに言えなかったから誤魔化した。  瞼の向こうで、また笑う気配がした。 「掴めないものなどないさ、現にキミは言い切らなかった」 「あ……」 「この小さな手は物を掴む事が出来る。感じる事が出来る。君の手はそうする事が可能になったんだろう?  掴めないと思えば掴めない。ただそれだけだ」  ぎゅと触れられて、更に密着する指。准将の言う通り、僕にはもう感じる事が出来る手がある。  それは僕が生きている証拠だ――なら人を想って受ける痛みは、疎むべきものじゃないのかもしれない。  そう思ったら少しだけ気持ちが楽になった。傷付くのもありかもしれないと、せっかく取り戻した感じるということを、  怖さにかまけて放棄するところだった。誰よりも失う怖さを、僕は知っていたのに。 「……ありがとうございます」  すーっと心が晴れていく。瞼の向こうに広がる青空のような、澄んだ気分。  礼を口にすると准将がぽんぽんと頭を撫でてくれた。優しく撫でる手がくすぐったい。 「……あの、准将は……どうなんですか? 掴める自信はありますか?」  彼ならどうするのかと興味本位で問いかければ、返ってきたのは沈黙だった。  今どんな表情をしているんだろう? もしかしたら困っているのかもしれない。  でも不安なんてなかった。薄い瞼の向こう側を想像するのは、少し楽しかったから。  黙ってしまった准将の代わりに、しばらく風の音を聞いていた。穏やかな風が僕の髪をもてあそぶ。 「……自信は作るものだ。掴む為の段取りをしっかりと踏めば、おのずとあちらから寄ってくる」  風に紛れてしまいそうなくらい、静かな言葉だった。  一字一句聞き逃すことをしないようにつとめる僕の手首を、准将は話しながら指でくすぐる。 「私は欲しい物はすぐに手に入れないと気がすまない性質でね、欲しいと思っていたものは全て手中に収めてきた。  難攻不落と言われたモノだって、白黒つかないどんな手段を使ってでも手に入れたんだ。この地位にいることが何よりの証だと、思っている」  言葉と共に手首を強く握ってきた准将の手に、自信が垣間見えた気がした。  幾戦もの戦場を駆け抜け英雄とさえ呼ばれたその力は僕だって目にしてきた。  准将の内から溢れる自信を笑うものなど、この国にはいないだろう。  物言わぬ准将の息継ぎが風に乗って伝わってくる。  僕は何も言わず、無言さえもまたひとつの会話としてただ言葉を待った。 「……だが、その実、私は臆病でね。本当に欲しいものの前だとそれが顕著に現れる。自らの力不足を問い、手の平の小ささに愕然とするんだ。  私が手にしても壊す事無く、守れるのだろうかと考える。今まで欲しいものを欲しいだけ手にしてきた己が、大切にしたいものを  前にすると臆病で情けない男になってしまうんだ」   これでも昔は無鉄砲だと叱責を食らったんだよ、と准将は小さく笑った。  手首を掴む手の平が離れたと思ったら、頬に温かな感触が降りてくる。ラインを辿る指先は優しい。  今日の准将はいつもより近くに感じた。いつもより多く話しているからか、触れ合っているからか……  僕と同じように悩みを抱いていることを知ったから、か。  准将としてでなく、ロイ・マスタングという男性を初めて見た気がして、状況にそぐわぬ鼓動が甘く胸に響いてゆく。  やっぱり僕は准将が、ロイさんが好きだ。  泰然と上に立つ准将も、優しいてのひらに触れられる距離にいるロイさんも――好きだ。 「アルフォンス」  ごほん、と改まるような咳をして、准将は僕を呼んだ。 「はい」と返事をするよりも早く、頬を掠った温かな風。その一瞬後、柔らかな感触が頬に触れた。  あまりにも些細な感触で、風の悪戯かと思ったけど……それは確かに、柔らかい「何か」で。 「……もう少しだけ、待っててくれ。私が君の手を引っ張って、歩めるまで」  風に攫われることなく届いた囁きと一緒に、もう一度柔らかな感触が同じ場所に落ちてきた。  さっきよりも長く触れるそれにようやく思い当たる。准将の唇、だ。手のひらよりも少しだけ、温度が高い気がする。  僕の欲しかったものがこの手の中にあったことに、これ以上ないほどの幸福感に包まれ自然と頬がほころんでゆく。  准将は臆病でも、情けなくもないじゃないか。  頬を撫でる大きな手に自らの手を絡ませぎゅっと握ると、誰よりも強く魅力的なひとを求めてゆっくりと瞼を開いて。 「喜んで……待ってます」  黒い瞳を甘く細めてこちらを見下ろす笑顔へ、自らの気持ちを伝えた。  紺碧の空をバックに深められていく笑みは、当然の展開だと言わんばかりの自信めいたものに見えたけど、握り合う手が  ほんの一瞬震えていたように思ったのは、きっと気のせいじゃない。  溢れんばかりの愛しさを手のひらに、眼差しに込めると准将も同じように返してくれる。 「あの……ロイ、さん」  昂る感情に任せて准将、ではなくロイさんと、無性に名前が呼んでみたくて恐る恐る名を呼んでみたら。  今まで見た事がない、全てが霞んで見える程の綺麗な笑顔に遭遇して、思わず固まってしまった。  広大な空よりも圧倒的な存在感を放つ、穏やかな黒い瞳。  甘く蕩ける雰囲気が気恥ずかしくて慣れなくて、慌てて瞼を閉じると准将の笑い声が響いた。  笑い声と連動して揺れる手から、振り落とされてしまわないよう力を込めて繋ぐと、准将も同じ力を持って握ってくれた。  押し付けあう互いの熱が心地よく馴染んでゆくのを感じて、僕もまた、准将に負けじと笑い声を響かせた。  手をつないでいればきっと、先に待つだろうとびっきり素敵な未来を逃がしてしまうことはないって信じてる。  だから、今は急がずに二人で幸せを笑おう。                                                             「手をつなぐ」H19.10.11

 

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