「おはよう兄さん」 「おはよう、アル」 普段している、何気ない事が大切なんだって気がつくのは、すごくラッキーなことかもしれない。 このひらめきは下手したら一生気がつかないくらい、些細なことだから。 それを教えてくれたのが唯一の家族である兄さんの、何者にも代えがたい大切な人からの「おはよう」で 「アル?具合悪いのか?」 考え事をしていた僕の顔を、具合が悪いのかと勘違いした兄さんが覗き込んできた。 そうじゃないと言う返事のかわりに勢いよく飛びつく。 「おいっ!?」 突然の抱擁にぐらりと体勢をくずしつつも、どうにか踏ん張ってくれたおかげで二人一緒に床へダイブする事なく、僕は兄さんの胸に収まった。 はぁ、と頭上で安堵の溜息を漏らしたと思ったら、ぽんぽんと頭を撫でられた。 「いきなりどうしたんだよ、本当に大丈夫か? 夢で無能にでもいじめられたか?」 あんまりな事を嬉しそうに話す兄さんに「ロイさんはそんな事しないよ!」って言い返したくなったけど、黙って首を振るだけに留めた。 僕とロイさんが付き合っているのを面白くないと思ってる、兄さんらしい言葉だけど、強く反対する事はないし、 夢云々で朝から言い争いをすることもしたくない。 「大丈夫! ありがとう、兄さん!」 「はぁ?」 何がなんだかわからないという感じで生返事をする兄さんは、僕を無理矢理引き剥がすことをしないから、まんざらでもないんだろう。 そういえば、兄さんとこうしてスキンシップするのは久しぶりかもしれない。なんて懐かしく思ってしまったら、妙に離れがたくなってしまった。 背中を撫でる大きな手が心地よくてしばらく兄さんの胸に凭れていたら、ふいに今の状況と記憶がダブった。 白い手袋に覆われた大きな手がゆっくりと背中を這い、くすぐったいと見上げた顔には優しい笑顔があって、優しい声で 自分を呼んでくれる――大好きな、ロイさんとの記憶。 「兄さん、僕ちょっと出掛ける! 出勤までには戻ってくるから!」 「あ!? おいっ、ちょっと待て! 朝飯はー!!」 兄さんの腕からするりと抜け出し、制止の声を背中で受けて僕は駆け出していた。 急にロイさんに会いたくなって「おはよう」が言いたくなったから。 兄さんの腕の中でロイさんを思い出したって言ったら怒られるのは必至だし、一生の秘密。 我ながら何してるんだ、ってツッコむも、動き出した足が止まることはない。 早朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、地を蹴るたびに吹きつける風を肌で感じる。 鎧の頃は感じ得なかったそれらを、久しぶりに味わった頃を思い出す。 ちょうど一年前、人間に戻って間もない頃、こうして無駄に走っては兄さんを心配させたっけ? 「まだ戻ったばっかなんだ、大人しくしてろ」って。 四肢全部で世界を感じる感動を昨日の事のように思い出したら、一刻も早く彼に会いたいと思う気持ちが強くなった。 無性に愛しく大切に思う気持ちを添えて「おはよう」と言ったら、彼はどんな顔をして「おはよう」と返してくれるだろう? 今日は早出と聞いていたから、いつもなら出勤した軍の人達で溢れかえっている構内もまだ静かで。 異様に大きく響く駆け足の音が、そんな静寂を遠慮なくぶち破る。休まずに走ってきたおかげで息も切れ切れ、何度も立ち止まって 呼吸を整えたいと思ったが、足の回転は止まることがなかった。 そう、ロイさんに「おはよう」と言いたい一心で、僕はここまで走ってきたのに。 彼がいるだろう部屋を前に、いざノックをしようと拳を振り上げた所で躊躇していた。 今更、突拍子のない自分の行動に驚いていて、しかもよく考えればパジャマのままだ。 救いは、ハーフパンツにタンクトップという、「ランニングの途中で寄ったんだんだ」的な言い訳が出来る服装だったということ。 相手は准将の上、恋人のロイさん。 上司でもあり大好きな相手にパジャマ姿を見せるというのは……なんとも恥ずかしい。 「やっぱり、帰ろうかな? 挨拶なんてあと一時間もしたら出来るし、そういえば兄さんの朝食もまだだった。 制服着てこなくちゃ仕事にならないもんなぁ」 ぶつぶつと独り言を漏らし、ドアの前で悩む事五分……散々逡巡した結果、僕はやっぱり帰る事にした。 挨拶くらいで走ってここまで来たなんて、大人なロイさんから見たらものすごく子供っぽい行動じゃないか? ただでさえ年齢の差を感じているんだから、自ら差を作るようなことは御免だ。踵を返して、帰路を辿ろうとしたが。 「!?」 駆け出そうとした自分の左腕を、誰かに掴まれた。 長いこと旅をしていたからか、背後からの気配には敏感で、条件反射のように警鐘が身体中に響き渡った。 掴まれてから脳が四肢に命令を下すのに時間はかからない。筋肉が緊張を帯びて一気に戦闘態勢へ入る。 振り返るのと同時に握った拳を相手の鼻先辺りへめがけて繰り出し――寸での所で止めた。 ぎりぎり鼻先で止まった拳の奥。拳風で揺れる黒髪から見え隠れしていたのは、見知った穏やかな眼差し。 散々自分を逡巡させていた元凶の、ロイさんだった。 「ロイさん!!」 てっきり敵かと思い込んでいて、相手の気配をよく読まずに向けてしまった拳を慌てて下ろした。 上司でもあり、大好きな人でもあるロイさんに気がつかないなんて、早とちりもいいところだ…… 内心へこんだ僕を、彼は堪える事もせずに大きな声で笑った。 ムッとした僕が「ロイさんなら避けた上に、腕をねじるくらいは出きたでしょう? あのまま殴ってたらどうするんですか」と 嫌味を言うまで、笑い声は止まらなかった。 「君なら止められると分かっていたからね。それに、それくらいの警戒心を持ってもらった方が、恋人としては安心だよ」 と、涙の滲む眦をこすりながら嬉しい事を言われたって、素直にドキドキできないんですけど。 頭でそうは思いつつ、恋人という甘い響きに頬は緩んでしまうわけで、僕はロイさんに再び笑うキッカケを与えてしまった。 「それはそうと、こんな朝早くからどうしたんだい?」 常の落ち着きを取り戻したロイさんが、必ず問いかけるだろう、でも一番聞かれたくなかった言葉を口にした。 「あいさつしにきた」というのは、散々笑われた手前言い出しにくくて、「早出だと聞いていたので、ランニングの途中によったんです」と 自分の纏うパジャマを指して言った。暗に「会いに来た」を匂わせる理由も嘘ではない、僕の本心。 ただ、目的が「挨拶の為」なだけの違いだ。 納得してくれるかな? とヒヤヒヤしていたけど、そんな心配は杞憂だったみたいで「そうか」とあっさりした応えが返ってきた。 聡明な彼の事だから、普段ならもっと質疑を飛ばしてもおかしくないのに、今日に限ってはそんな素振りを見せず微笑んでいるだけ。 ロイさんにしては妙に引きがいいなぁと思わなくもないけれど、これ以上言葉を重ねてボロがでるより、早々にお邪魔した方がいい気がする。 「顔も見られたし、そろそろ失礼しますね」 ロイさんの言葉を待たず、すぐに背を向けた僕は再び彼に止められた。 今度は手首じゃなく、背中から抱き締められていた。前に回ってきた腕が胸の前で交差し、ぎゅっと力を込められて 心臓がどきりと大きく鼓動を打つ。驚いて見上げた顔には、いつもより柔らかな笑みを浮かべたロイさんがいて、つい見蕩れてしまった。 「わざわざ寄ってくれるなんて、嬉しいな。朝から君に会えるなんて、今日一日は幸運の女神の加護が得られそうな予感がするよ」 そう言って頬に口付けてきた顔があまりにも嬉しそうだったから、嘘を吐いたことが急に後ろめたくなってしまう。 もしかして、妙にあっさりした返事ですんだのも、僕に会えて嬉しかったから……だったり? ちょっと都合の良い解釈かもしれないけど、そう考えたらずんと罪悪感で心が重たくなった。 嘘をつくことでロイさんに対して、自分の彼を想う気持ちまでも裏切ってるみたいで――自然と口が開いていた。 「……あいさつがしたくて、走ってきたんです」 「どういう意味だい?」 腕の力を緩めて覗きこんでくるロイさんの不思議そうな顔を目にして、少々話してしまった事に後悔が過ぎったけど、 やっぱり隠し事はしていたくない。まっすぐに見つめる瞳から視線を逸らさずに、言葉を続ける。 「朝、兄さんにおはようって挨拶したら、毎日してる当たり前のことが急に大切に思えたんです。そうしたらロイさんに 今すぐ挨拶したくなっちゃって、ここに来たんです」 「しばらくしたら挨拶できるのに、待てなかったのか?」 「はい。今すぐじゃなきゃ駄目だって思ったから……」 あの時の自分はどうしても言いたい一心で、他を考える余裕がなかった。 その気持ちを言葉にするには漠然としていて、でも、走って来るくらいの強い思いをどうしても伝えたかった。 何気ない挨拶が大切だって気がついたからこそ、大切な挨拶を大好きなロイさんと交わしたい。 たった一時間程度が我慢出来なくて、ここまで来た。 「何気ない事って、積み重ねては慣れてしまうから、特別なことじゃなくなってしまうんだと思うんです。でも、物事には 永遠がないように、挨拶も限られた時間内でしか交わす事が出来ないじゃないですか。そう思ったら「おはよう」がすごく大切に思えて。 限りがあるなら、少しでも多くロイさんに挨拶したくなっちゃって、来たんです」 黙って話しを聞いていたロイさんが、視線を逸らしてふいに宙を見つめた。何かを考えているのか、時々視線が僕と宙の間を彷徨う。 しばらくそうしていたロイさんがふと僕のほうへ視線を戻し、微笑んだ。 「……そう考えたら、毎日一番に挨拶してる鋼のが憎いな」 「君に一番に挨拶するなんて、限られた事だからね」と笑ったロイさんに抱き寄せられる。 「ありがとう、君といると毎日が新鮮で大切だと思えるよ」 囁きと一緒に落ちてきた唇を額で受け止めて、僕は赤いだろう顔を隠すために胸元に顔を埋めた。 しがみついた僕の背中と頭をそっと撫でてくれる手が気持ちよかった。 永遠じゃない人生時間内で交わす挨拶なんて限られているからこそ、誰でもないロイさんと交わしたい。 大好きなロイさんとなら、何気ない事も特別になる。 「今度は朝一番に、君と挨拶がしたいな」 甘い囁きと、とろけるような眼差しでその言葉の裏に気がついた。 遠まわしなお誘いで頬に上昇する熱を感じながら、ロイさんの胸にもたれかかる。 一番に挨拶したい、というのは同じ気持ちで、それに至るコトもまったく考えなかったわけじゃない。 むしろ、どんなに幸せな事なんだろうかと考えて、更に頬が熱くなってしまった。 「そうですね。今度はパジャマで走って、いらない恥をかかなくてもいいように……是非」 もう一つの隠し事を暴露することで恥ずかしさ誤魔化して、「約束ですよ」と頬に口付けた。 自分から誘っておいて、僕の行動に目を見開いているロイさんがおかしくて笑ってしまう。 口付けた頬がうっすらと染まっていたコトに気がつかないふりをして、僕はロイさんの首元にしがみ付いた。 「そういえば、目的は達成できたのかな?」 そう、ロイさんの言うとおり、挨拶したいとは言ったけど、肝心の言葉を伝えるのを忘れていた。 気持ちばかりが先走って、忘れるなんて情けないったらない。首元に絡めていた腕を少し緩めて、にっこりと微笑む。 「ロイさん、おはようございます」 「おはよう、アルフォンス」 背中に回された腕に力が込められて、自然と近づく距離に瞼を閉じた。 瞼を閉じる瞬間まで浮かんでいたロイさんの綺麗な笑顔は、視界が失われても消えることはなかった。 吐息が唇を撫でて、次いで柔らかな感触がそっと触れてくる。ふんわりと優しいキスは、ロイさんみたいに温かくて心地がよくて。 二度、三度続けて交わされたキスの余韻に浸っていたら、いつの間にか移動していた唇が僕の耳で囁いた。 くすぐったいけど幸せな睦言に、僕の頬は緩んで仕方がない。 「……僕も、ロイさんの「おはよう」で朝を迎えられたら、その日は記念日になりそうなくらい幸せになれそうです」 「なら、来年の今頃からは毎日花を贈らないといけないな」 「毎日が記念日だからね」と笑いながら続けた冗談は、望めばきっと実現するんだろう。 優しくて、僕をとても大切にしてくれるロイさんの事だから。 温かい腕の中で幸せに浸りながら、そんな毎日も楽しいかもしれないと考えて。 その冗談を未来の予言にすべく、僕はキスと共にお願いの言葉をロイさんに送った。 「おはよう」H17.9.4