雪花





 美しい。  それは掌の上で消えてしまう儚い雪のように、けして掴めないものだろうと思っていた。  降りしきる白雪の合間から現れては消える――コートに包まれた背中で踊る、プラチナブロンド。  雪上を踏みしめる度に光の軌跡を描きながら揺れる様に見蕩れるだけでは物足りず、背後をついて歩いていたロイは一息に距離を詰めた。  かじかんで赤く染まる掌を白雪の散る空へ伸ばし――指の一本一本に触れたのは、上等な絹を思わせる繊細で艶やかな感触。  ただ手を伸ばしただけで手中に納まる呆気なさに驚き、ロイは黒の双眸を見開いた。同時に、その美しさが極寒の地が見せた  幻想でないことに安堵し、薄い唇から白い吐息を漏らした。 「……何のつもりだ、マスタング」  途端――ブリッグズの芯から凍えそうな空気よりも冷ややかな声音が、ロイの酩酊めいたひとときを吹き飛した。  まるで幸せな夢から醒めたかのような物寂しい心地を味わうよりも先に、喉元に突きつけられている青白い刀身の切っ先で  答えをせかすように皮膚を撫でられ息を呑む。柔らかな肉を容赦なく突く刀身を瞳で辿った先には、頑強を誇る  極寒の城の主であるオリヴィエ・ミラ・アームストロングの姿。  茫漠とした雪原に走る鋭い緊迫感。何者をも慄然とさせる二人の間を白雪が絶え間なく舞い踊っている。  自身に突き刺さる刃のような覇気に端然と着こなしている軍服の下の肌が粟立つ。らしくないと、ロイは忸怩たる思いに駆られたが。  女王と呼ばれるに相応しい威容を誇るオリヴィエが詰問する姿に、小さな違和感を見つけた。  それはよくよく見なければ気がつかない些細なもの。  知謀を巡らせているだろうブルーアイの深奥で揺らぐ微かな人間らしい感情を見つけて、ロイは自然と口端を持上げた。 (女王様ともあろうお人が、らしくない戸惑いだな)  ただ髪を触れただけで戸惑うなど、予想外の反応だった。  午前中に行われていた東と北の合同訓練にて、何千もの軍人を纏めていたアームストロング少将とは程遠い  目の前の存在――だが、全てを飲み込まんとする白の世界に居ても尚、その存在感が霞む事の無い女性としての彼女の眩さにロイは目を細めた。 「……少将ともあろうお人が、私のような若輩者にも髪を触れさせるなんて、意外とお優しいんですね」 「阿呆なことを言うな、マスタング。何のつもりだ? 私に対する不敬罪で斬り捨ててもいんだぞ」  からかわれたことで常の顔を取り戻したオリヴィエは切っ先でロイの顎を跳ね上げた。  鋭い刃が容赦なく肉へ食い込んでくる痛みに彼女の本気を見て取ったロイは、一変して態度を改める。 「おっと、あなたならやりかねないですね。申し訳ありません、少将」  磨き上げられた業物に劣らぬ白光を帯びる眼差しへ、ロイは降参の要領で両手を挙げた。 「コレを下ろしていただけませんか? 少しでも口を動かしただけで、磨かれた刀の餌食になってしまいそうだ」  慇懃無礼に言ってのけるロイへオリヴィエは舌打ちひとつ残し、輝く軌跡を置き土産に素早く太刀を納めた。 「で?」 「……それが、私にも判らないのです」 「は……何だそれは?」  苛々と髪を掻きあげては言葉を促す剣呑な光を帯びた瞳に、再び両手をかかげてみせる。  嘘偽りなどないことを証明するかのように腰を屈めて瞳を覗き込めば、眉を顰めたオリヴィエが一歩後退った。  ロイは言葉の通り、自分自身でも何故髪に触れたのか判らなかった。  強いて言えば天上から降り注ぐ純白の雪を纏い揺れる、豊饒の秋を表したかのように輝くプラチナブロンドの髪が美しかった。  目の前の光景が夢幻か確かめたくなって触れて――鋭い刃に命をつかまれた。 「……ですが少将。あなたが本気を出せば、私が手を触れる前にお得意の腕で、愚かな手を切り落とすことも可能でしょう?」  少将の座につくだけあって、剣技の腕が優秀であることは一太刀の動きで判る。  彼女の腕ならば腕の一本を落とすくらい、容易にやってのけるだろう。 「何故、斬らなかったのです?」  重ねて問いかけながら、ロイは一歩進み出た。  強い眼差しが更なる歩みを許さないのを見て取って、これが限界の距離だとその場に踏み留まる。  尚も「何故?」としつこく問えば、睨みつける瞳が僅かに揺れた。 「……雪が邪魔で、貴様の動きを読み取れなかったんだ」  ぱらぱらと空から落ちてくる白の粒に一瞬、目の前の女性を見失う。  だが、長らく極寒の地を納める麗しの女王様には有り得ないだろう言い訳に、ロイは口元を歪めた。 「何がおかしい」  オリヴィエの眉間に深く刻まれた皺に自身の差し出がましい態度を謝罪してから、ゆっくりと天を仰いだロイは掌を差し出した。  綿のような雪が剥き出しの掌に触れた途端、その姿を水に変える。 「……雪とは美しいものですね。美しいものを、より魅力的に見せる」  ぱらぱらと掌に落ちてははかなくも消えてゆく雪に官能めいた憐憫の情が湧き上がる。  雪は人生の一分一秒に似ている。有限であるからこそ人は美しい。  不可解だと言わんばかりの表情を浮かべるオリヴィエへロイは視線を映す。  誰に媚びることのない強い女性が愛を前にすれば、どのような変化を遂げるのか。  その変貌を目にすることは彼女に隙がない限り、並大抵の努力じゃ叶わないだろう。  鋼鉄の鎧の如き心身を打ち砕き悦びに目覚めた瞬間を、ロイは想像できない。今まで付き合ってきた女達とは  どれも一線を画する、経験では太刀打ち出来ぬ存在に――深く、ソソられた。  射精のひとつで済む欲望になど興味は無い。  手に入らないからこそ求めたくなる、男性的な欲望を煽るブルーの瞳から目が離せない。 「……掌の熱であっという間に溶けてゆくこの雪のように、あなたの少将としての顔も、愛する男の前ではすぐに消え去るのでしょうか?」 「気色悪いことを言うな、阿呆が」  不快感で占められる瞳に、ロイの内なる焔が震える。 「そんなあなたを知りたいと思ったんですよ。今。……オリヴィエ・ミラ・アームストロング少将どの、あなたを愛しても宜しいでしょうか?」 「ッ……!?」  突然の言葉に、オリヴィエのブリッグズのように強固な少将としての表情が落ちた。  剥き出しになる、一人の女としての顔。――見開かれた瞳に、今はまだ読み取れぬ様々な感情が浮かんでは消えてゆく。  人間らしい一瞬の煌きをこの手にするのは、容易ではないことが改めて示される。  ロイ自身もするりと唇から出た言葉に内心驚いていた。  だが、その言葉には何の違和感もなかった。滾る感情を言葉にするには相応しい「愛している」は、オリヴィエと接するうちに  その重みが増す自信があった。これからたっぷりと肉付けをしていけばいい。  彼女の白い手袋に包まれた手を取ろうとロイが腕を伸ばしたところで、素早い白銀の一閃に動きを阻まれた。 「……寒さで気でも狂ったか? マスタングよ。冗談はよせ」  すぐに性を隠し常である少将としての顔を取り戻したオリヴィエの、間近で凄む迫力は流石、少将の位を背負おうだけのことはある。  再度両手を挙げて見せ、これ以上の無礼は働かないことをロイは示した。 「相棒を持ち出されてしまわれると焔を操る間もない。こうして麗しいあなたとずっと向きあっていたいものの、  もうじき午後の訓練が再開する知らせの音が鳴るでしょう。私達を皆が待っている。今日の所は見逃してはいただけませんか?」  ロイの長広舌が終わると同時に響いた鐘の音に、オリヴィエは舌を打ち渋々といった様子で刃を納めた。 「……昼からは容赦せんぞ。安心しろ、軍事演習でもくたばった際には二階級昇進出来る様、取り計らってやる」 「少将の女神のような御心に感謝します」 「フン。お前のようなタイプは好かん……とっととくたばれ若造が」  心底嫌そうに表情を歪めては言葉を吐き捨てて、オリヴィエは一礼で見送るロイを無視しコートを翻して自身の陣地へと向かった。  吹雪き始めた白のベールで覆われても尚、輝くプラチナブロンドの美しさに目を奪われる。  凛々しい彼女の為にあつらえたかと思うほどの堅い軍服を剥ぎ、厳しい表情をも拭い去った下にはどんな女性としての顔が、  淫らさが現れるのか、その想像は何よりも楽しい感興をロイに齎した。 「あなたの堕ちる日が、楽しみだな……」  呟き、唇を舐めあげる。  不穏な気配に振り向く事無く、颯爽と立ち去った彼女の警戒心のなさはロイにとって思わぬ収穫だった。  黒い瞳に爛々と輝く獣じみた焔をゆらし、自身の部下が待つ演習場へと足を向けた。  遅い帰還を心配してか迎えに来た有能な部下の姿を認めた頃、ロイの目はロイ・マスタング大佐のものへ戻る。  まずは職務に厳しく取り組むオリヴィエから、地に落ちたも同然な評価を少しでも上げなければならない。  ブリッグズに咲く二つとない優美な花を、自らの手で手折るために。                                                               「雪花」H21.4.23

 

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