庭を散歩しているだけでじんわりと軍服の下が汗ばんでくる。たまに吹く風がとても気持ち良い。 色彩鮮やかな春は立ち去り、新緑豊かで真っ青な空が一段と眩しく見える季節。少し前にたくさんの黄色い花を咲かせていた場所は今や緑一色になっていた。 お昼を食べた後、残りの時間で庭を散歩する事が、僕の日課だった。 僕以外にも、庭でのんびり過ごす人は多い。広い軍部だけに顔も名前も知らない人ばかりだけど、思い思いに過ごす人達の顔は、 心なしかリラックスした表情を浮かべている。散歩をしていたり芝生に転がって昼寝したりと様々だ。 ふわりと鼻先を掠めた匂いに歩みを止めた。 それは好き嫌いが綺麗に分かれる、嗜好品の匂い。 「煙草……」 くん、とよくよく嗅いでみると、煙草は煙草でも見知った匂いだった。 匂いだけじゃない、銘柄もパッケージも吸っている人まですぐ頭に思い浮かべることが出来る。 「ハボック、さん……?」 無意識に呟いた言葉が風に攫われていく。 匂いを辿るように視線を彷徨わせた途端、唐突に吹いた風により前髪が視界を邪魔して思わず目を瞑った。 ちくちくと肌を刺す毛先を感じながら悪戯な風が去るのを待ち、ゆっくりと瞼を開いた先にくゆる紫煙を見つけた。 ここから少し離れた場所に設置された、陽当たりの良いベンチに腰掛ける男の後ろ姿に、ぎゅっと胸が締め付けられる。 短く刈られた髪、大柄な肢体、煙草を口元へ運ぶ仕草……脳裏に、こちらまで笑顔になるような、明るい笑顔が浮かぶ。 別の方向へ向かおうとしていた僕の足が、自然とベンチへ向かっていく。 とくんとくんと早まる鼓動につられて足の運びも早まり、最早歩いているのか走っているのか判別つかない。 前へ進んでいくたびに全貌が明らかになり高鳴る鼓動が耳を支配する。 葉が重なり合う音や鳥のさえずりさえも意識の外へ消えて。 もう少しで手が届く、胸の鼓動も頂点に達したところで――僕はピタリと足を止めた。 冷水を一気に被ったかのように昂っていた心が瞬時に冷えて、はは、と渇いた笑いが漏れた。 「……人違い、か」 求めていた人はそこにはいなかった。煙草を咥えて空を仰ぐ横顔に似た要素なんてない、まるっきりの別人だ。 かろうじて当たっていたのは大柄な体格だけで、髪なんかは陽に透けて金に見えていただけの茶髪。 完全に僕の勘違いだ。バカみたい。会いたいからって幻まで見ちゃうなんて。 勝手に勘違いしたくせに酷くがっかりしている心に叱咤する。僕にとって勘違いは「有り難い」のに、と。 ベンチからそっと離れて手近にあった建物の壁に凭れ、空を見上げた。 青空の頂点で輝く太陽を直接目にしてしまい、眩しさから逃れるように手を掲げた。 それでも光は隙間を縫って僕の目に届く。 「ハボックさんみたい……」 けして独り占めできない明るい人はまるで太陽のよう。届きそうで届かないこの距離感も本当にそっくり。 実は僕がこの身体で初めて見た人は、ハボックさんだ。 漸く見つけた錬成法により兄さんは手足を、僕は身体を取り戻すことが出来た。 ただ、身体を取り戻した僕は一向に目が覚める気配がなかったみたいで、兄さんが慌てて大佐へ連絡してすぐに駆けつけ病院へ運んでくれたのが彼だった。 病室の染みひとつない白い天井をバックに僕の顔を覗き込んだハボックさんは、涙で顔をベタベタにして何度も名前を呼んでくれた。 まだ曖昧だった意識をこの世界に繋ぎとめるように、アルフォンス、アルフォンスって。 目覚めたとき、くしゃくしゃな笑顔で「おはよう」と言ってくれたハボックさんに、僕は一瞬で恋に堕ちてしまった。 その時の僕は男同士っていう概念なんてなく、心から心配してくれた優しいひとに純粋に惹かれたんだ。 意外と世話好きらしいハボックさんは自宅療養になってからもちょくちょくと会いに来てくれて、慣れない身体で 四苦八苦する僕をいつも助けてくれた。鎧の期間が長かったから歩くという些細な行動すらも違和感で戸惑う僕に、 手を差し出して一緒に歩いてくれたり、上手くいかない苛立ちを散らしてしまっても嫌な顔をせずニコニコと笑って側にいてくれた。 早く慣れようと焦る僕に「ゆっくりでいいからな」と目を細めて頭を撫でてくれるハボックさんの手は見た目以上に大きくて温かかった。 ……撫でられたくて、ワザと焦るフリをした事があるのは一生の秘密だ。 益々惹き寄せられていく日常の中、気が付いたことがある。 ハボックさんの笑顔は兄さんと同じモノだったって――そう、弟を見る目だってことに。 正直、気が付きたくなかった事実が、僕の胸に突き刺さる。 ここまで良くしてくれるんだからもしや……っていう思いがあった僕は、自分にとって都合のいい目で現実を見ていたらしい。 そりゃ男同士なんだから恋仲になる、なんて運命を悪戯されなきゃ結ばれないことで。 ひどく落胆したけどこれが普通、なんだ。 なんて頭で考えても気持ちでは納得出来ず諦めきれない僕は、煙草の似合うハボックさんにずっと好意を寄せている。 尊敬でも友情でもない、恋ごころを。 でも男同士という壁を越えて付き合いたいなんて大層なことは望まない。 ハボックさんの側にいられるだけで満足。だと思っていたのに。 「日に日に好きになっていくんだよね……」 綺麗な女性の前で照れた表情を見せた彼に、僕を見て欲しいと強く思うようになった。 ハボックさんにも同じ気持ちであって欲しいと、願うようになってしまった。 いつ噴出すか判らない程に成長した強い気持ちは、顔を合わせるたびに口をついて出そうになる。 自分でも持て余す爆弾のような想いを抱えてるのならばいっそ、会わないでいるほうがいい。 バレて側に置いてもらえなくなるよりは顔を合わせない方が、ずっとずっといいかもしれない。 狂おしい感情は嫌われることを恐れ逃げに転じ、かれこれ一ヶ月ほど僕はハボックさんと顔を合わせていなかった。 職場が違うから元から会う機会もあまりなかったけれど、意識して避けてみると面白いくらいに遭遇しない。 会えない分どんどん膨らむ気持ちと寂しさはあれど、会わないほうが互いの為になる。 自分に言い聞かせながら苦しさを覚える胸に右手を添えて、深呼吸――いくら呼吸しても、求めるものがある限り、この胸は晴れそうにない。 影を帯びる心とは正反対に青空は高く澄んで、ふんわりと柔らかそうな白い雲が太陽に向かって流れていく。 「いいなぁ、自由で」 雲がゆったりとマイペースに太陽へ向かうのが、何だか羨ましい。 僕の気持ちの向かう先にも、ハボックさんが待っててくれたらいいのに。 あの太陽みたいに明るい笑顔で受け止めてくれたら、どれだけ幸せなんだろう。 肌を撫でる風があまりに暖かいから、療養中に何度も支えてくれた優しい腕を思い出してしまった。 ひと一人を抱えてもびくともしない、ハボックさんの逞しい腕がとても恋しかった。記憶の中にある温かく大きな腕を 更に思い出そうと、ゆっくりと瞼を下ろそうとして。不意にコンコン、と壁を叩くような音が聞こえた。 背後から届いた音に、何気なく振り返った先には――。 「ハボックさん……!」 声をあげるよりも早く心臓がどくん、と大きな音を立てた。 僕がもたれる壁のすぐ隣にある窓ガラスの向こう、ハボックさんがひらひらと手を振っていた。僕と視線が合うとにかっと笑う。 関係を守ろうと避け続けたとはいえ久しぶりに顔を見られて嬉しくないはずもなく、単純な僕の心はすぐに浮き立ってしまった。 自然と浮かぶ笑顔で手を振り返そうとして、留まる。アルフォンスと形作った唇は今、一本の煙草が独占していた。 彼のトレードマークでもあるその嗜好品が、僕の心に思わぬ波を呼び寄せる。 心が黒く塗りつぶされていくような感情はよく知る、嫉妬。 ハボックさんの大好きな煙草に嫉妬するなんて馬鹿みたいだと思う反面、側にいることの叶わない僕からしたら 煙草すら恋敵のように見えた。我ながらなんて狭い恋心なんだろう。 「久しぶりだな、アルフォンス」 煙草を食みながら器用に話す声は窓ガラスを挟んでいる為に聞き辛いけど、しっかり届いたことを証明すべく ハボックさんの言葉に軽く頷いた。すぐ目の前の窓には鍵が付いてないことから、開かない仕組みになっているらしい。 窓越しで会話する妙な展開に「久しぶりですね」と少し大きめな声で口にしつつぎこちなく笑う。 どうしてた? やら今日は一人なのか? 矢継ぎ早に問いかけるハボックさんの顔には、一ヶ月前と同じ笑顔が広がっていて、 普段通りの彼が僕を迎えてくれる。なんだかそれが少し物足りなかった。 こんなにも苦しくて切ないのにハボックさんは普通なんだ。改めて僕の片思いだと思い知らされて、寂しい。 この手に掴めない太陽のようなひと。 手に入らないからこそ、余計に膨らむ気持ちは人の性だろうか 「……好き」 思わず漏らしてしまった声にゾクリと冷たいものが背を這い、心臓が恐怖で押し潰されそうになる。 いくら優しいハボックさんでも男が好きだなんて言ったら困らせてしまう、嫌われてしまう――最悪な展開の到来に身体が強張った。 でも、ハボックさんの様子に変わりはなく、幸いなことに窓越しでは届かなかったよう。 僕はまだ、彼の側にいられるんだ……ハボックさんに悟られぬように若干視線を逸らし、こっそりと安堵の息を吐いた。 知られるわけにはいかない、側にいるためにはハボックさんに嫌われることだけは避けなくては。 改めて視線を上げた先、窓の向こうに佇むもう一人の存在に気がついた。 「後ろ、大佐いますよ?」 指を差すと、ハボックさんはそれに釣られて振り返った。 「大佐!? さ、サボってるわけじゃないっスよ念のため!」 お昼休憩中なのにしどろもどろに言い訳をし始めるハボックさんに、普段の勤務態度が透けて見えた気がして小さく笑みを零した。 「残業だな」と冗談めかした大佐に「残業!?」とがっくり項垂れるハボックさんの口元から、まだ長い煙草がぽろりと落ちてゆく。 「あっ!! まだ火ィつけたばっかなのに勿体ねぇ……っ!!」 悲鳴を上げ慌てて拾い上げようとするハボックさんが視界から消え、僕は思わず表情を緩めた。 煙草に勝ったんだ、と。 ハボックさんの最愛でありながらいとも簡単に離れた煙草へ、心のなかで「ざまあみろ」と舌を出した。 「君もなかなか、いい性格をしているな」 いつの間にか窓際までやってきた大佐が、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。 全てを見透かしているような理知的な黒い瞳へ、口元に指を持っていき秘密の合図を作る。 「ハボックさんに知られなければ、いいんです」 知られたら側にいられない恐怖に比べれば、大佐に作る貸しなんて安いもの。 「了解」と茶目っ気たっぷりに肩を竦めた大佐へ頭を下げた。 空へと移した視線の先には、今まさに太陽へキスしようとする白い雲ひとつ。 一足先にめでたく両思いになった太陽と雲を祝福できるほど、僕の心には余裕なんて無い。 「あれがハボックさんと僕だったらな……」 「面白いことを言うんだな、アルフォンス。あれはあと三分もしたら破局を迎えるんだぞ」 「……こっちは妄想、三秒で終わったんですけど」 睨み上げた先で、大佐が吹き出す。 少しくらい夢を見て心を甘やかしても、罰は当たらないだろう。 妬みを秘めた視線の先、雲は止まることなく流れ続ける――三分も両思いでいられるなんて、片思いの僕からすれば紛れもなく幸せなことだった。 「太陽と雲のロンド」H20.2.9