幸せな夜明け





「さむ……」  身体の芯から湧き上がる寒さで僕は目を覚ました。どうやら冷ややかな空気に晒された剥き出しの上半身のせいらしい。  ぶるりと身体を震わせて、臍辺りに掛かっているシーツを首元まで引き上げた。柔らかいシーツの海に身を委ねながら  サイドテーブルに設置された時計を見ると五時半――まだ起きるには大分早い時間だ。  もう少し寝よう、そう思って瞼を閉じても。 「眠れない」  一向に眠気は訪れてくれなくて、ただ無駄に時間が過ぎるだけだった。  それでも起きる気にはなれず、天井を見つめながら静かに自分の呼吸音を聞いていたら、すうすうという寝息が  それに重なった。ちらりと隣を伺うと、こちらに顔を向けて眠る兄さんの姿があった。  いつの間に帰って来たんだっけ? 寝起きでぼおっとする頭で昨晩の記憶を辿り――溜息を吐いた。  しばらく仕事で家を空けていた兄さんが連絡もなしに帰宅したと思ったら、否応なしに抱かれたんだった。  ついでにベッドでのアレコレまでをも鮮明に思い出してしまい、頬が熱くなる。  一人羞恥に襲われる僕なんて露知らずの、穏やかな寝顔の兄さんが憎らしい。 「……そういえば、おかえりって言うの忘れてた」  言葉を交わす間もなくいきなり押し倒してきたんだし、言う暇がなかったとも言える。  だけど、兄さんのせいにばかりしていられない。その後だって言おうと思えば言えたのに、僕は「おかえり」っていう  挨拶よりも、言いたくても言えなかった「好き」っていう言葉をずっと口にしていたから。  伸ばされた腕に抱き締められ、初めて無理していたんだって気がついて――寂しいって気持ちが思っていた以上に  大きかった事を知り、胸が詰まってしまった。離れていた時間は、僕の知らないうちに心に大きな空虚を作っていた。  もっとぎゅっと抱き締めて好きだって言って欲しくて、言いたかった。  求めて求められたくて、兄さんのぬくもりをすぐに身体で感じたくてたまらなかった。  心に空いた穴をすぐ様埋めるように、不意に湧き上がった欲求が簡単に感情の箍を押し流していった。  優先順位、間違ってるよね?   今まで欠かした事のなかった挨拶をスルーしたくらい、昨晩の僕は余裕がなかったんだ。  これじゃ押し倒してきた兄さんと変わらないじゃん……余裕がなかったのは、お互い様。   兄さんの頬をそっと撫で小さく囁いたって、反応はないけれど。 「……寝顔見るなんて久しぶり」  久々に拝めた寝顔は嬉しいっていうより可笑しくて、つい笑ってしまった。  口を開いて眠る兄さんの寝顔は、大尉の地位に就いてるとは到底思えないくらいマヌケな顔をしていたから。  百年の恋も醒める……とまではいかないけど、せっかくの男前が台無しだ。  落ち着いた大人の雰囲気を纏う普段とは、想像もつかないその寝顔を軍の人が見たらどんな表情をするだろう。  驚く面々を思い描いて、起こさないよう声を潜めて笑いつつ、目の前の緩いカーブを描く頬を軽く抓った。  傍目にもぐっすりと熟睡しているのが見て取れる兄さんは、そんな僕の悪戯にも気がつかない。いつもの兄さんなら  すぐ目を覚ますだろうけど、よほど疲れてるんだろうな。 「まぁ、あまり睡眠しない方だから……ここぞとばかりに眠ってもらえる方が、僕としては心配の種が減って助かるんだけどさ」  呟きながら、僕の指は艶やかな髪に戯れかかっていく。帰ってきた時にはきっちりと纏められていた髪も今は  下ろされていて、真っ白なシーツの上で無造作に広がっていた。薄闇にもどこか輝いて見える金髪を一房手に取り、 手持ち無沙汰な指先で弄る。  カーテンの隙間から覗く空にはまだ星が瞬いてはいるものの、じょじょに明るさ取り戻していて、濃い闇の  気配が漂っていた室内を苦もなく見渡せるようになっていた。  この部屋で、幾度も一人の夜明けを迎えた。僕一人では大き過ぎるベッド。シーツに染み入るのは一人分の体温だけ。  無意識にもうひとつの熱源を探る手はシーツを掻き乱すだけで、求めるものは何もなかった。 「兄さんが仕事で家を空けたの、たった二週間のことなのに……こんなにも寂しいとは思わなかったよ」  兄さんが家を空けたのは初めてじゃないし、その中には今回以上の日数も会えなかったことがあるのだ。  けど、ここまで強く寂しさを感じた事はなかった。  一緒にいるのが常だと、思い込んでしまっていたからだろうか。  身体が兄さんをひとつひとつ覚える度に、幸せを感じるのが当たり前になっていて気がつかなかった。  少し離れることが耐えられなくなっていたなんて、ね。 「……なんか兄さんを好きになっていくにつれ、弱くなってる気がす……っ!」  言い終わらないうちに、唇が温かいもので覆われた。  言葉を奪ったのが兄さんの唇だってことに気がついたのが先か、その甘さが全身を巡ったのが先か……  間近で細められた金の瞳に、驚くだけでいっぱいいっぱいだった僕には判らなかった。 「っ、兄さ……!」  すぐに自由になった唇で「起きていたの?」って問いかけようと思ったけど、驚きのあまり口を金魚みたいに  パクパクさせるしか出来なかった。吐息が絡む距離に留まる兄さんには、何を言おうか判っていたようで。 「あんな熱烈な告白まがいの独り言に、起きないはずがないだろ」  にやり、意地悪く歪められた口元に、僕の頬が急激に熱を帯びていくのを感じた。  寝ているかと思っていた目の前の男は、気がついていながらも狸寝入りを決め込んでいたのだ。  性格悪いぞ、バカ兄っ! 沸々と湧き上がる怒りに任せた僕の手が、兄さんの片頬を力いっぱい抓った。 「いっ! ぐあああっつ!!」 「起きてるなら、ちゃんと言って下さい」 「わる、かったって! マジで勘弁……いてェ!」  ばたばたと身悶えて、目尻に涙を溜めながら懇願する兄さんに満足して、頬から手を離した。  抓られていた場所を擦る兄さんの指の間から、赤い跡がくっきりと見え隠れしていた。自分がしておいて言うのも  なんだけど、今日いっぱいは消えないかもしれない。 「男前度が上がったね、兄さん」  にっこりと抓った場所をなぞれば、兄さんはがっくりと項垂れた。 「お前なぁ……兄ちゃん死ぬかと思ったぞ?」 「自業自得。って言いたい所だけど、やり過ぎたね。ごめん」  赤く腫れ上がっている頬を見ていたら、これ以上怒りを通す事も出来なくて。  素直に謝った僕は兄さんの片手を掴んで、頬に触れさせた。「これでおあいこ」あまり痛くしないでね、と  付け加えて抓るように促したけど。兄さんは、僕の行動に一瞬目を見開いてから苦笑した。 「アルにんなことするかよ……こっちで許す」  目を閉じた兄さんが「ん」と、唇を突き出してくる。これは……僕からキスしろ、ってこと?   一瞬、思考がフリーズしてしまうのは致し方ない。考えてみたら僕から口付けるなんて事は、過去を遡ってみても今までなかったように思う。  僕だって兄さんが好きだから、キスしようかな? なんて思ったことはあったけど、そのたびに兄さんから 口付けられていたから機会がなかった。  これってキスしたいタイミングが一緒、ってことだよね。それはそれで嬉しい、けど。  キスを強請られるって、恥ずかしい事だったんだ。  今この時、知ることになるとは……抓った代償は大きかったなと、目を閉じてキスを待つ兄さんを睨んだ。 「アルー、早く」 「はいはい」  キスを強請る兄さんへそうおざなりに返事をした僕の胸は、言葉とは裏腹にドキドキで満ちていた。  しない! って拒否しようかと一瞬思ったものの、強請る兄さんはちょっと可愛く見えたから、絆されたというか。  気がついたら、横になっている兄さんへゆっくりと覆い被さっていた。  目前に迫る綺麗な顔に見蕩れつつ、頬に手を添えてそっと唇を重ねる。  自分よりも若干低い熱を持つ唇は、少し乾燥していた。  これが兄さんの唇か……初めてじゃないのに改めて実感するとなんだかくすぐったくて、重ねたまま口元を歪めたら  つられたように兄さんの唇も笑みを刻んだ。 「……許してくれる?」 「勿論。……昨晩はまあ、がっついちまって、唇を堪能する間もなかったけど……やっぱ、アルとキスするのは気持ちいいな」  瞼を上げた兄さんが、はにかみながら頭を撫でてきた。  子供扱いされてるみたいでいつもは絶対頭を触らせないんだけど、この時ばかりは甘えたくなっちゃって。  その手に擦り寄れば、今度は兄さんからキスをされた。触れるだけの軽いキス。ちゅっと可愛い音を立てる唇が  僕のそこだけでなく顔中に落ちていく。こそばゆくて身を捩ると、兄さんは逃さないと言わんばかりに身体を密着させて  更に唇の雨を降らせてきた。僕の笑い声と、キスの音が部屋に散っていく。 「俺さ、ずっとアルに会いたかったんだ……」  キスの合間に、秘密を口にするかのような密やかに紡がれた言葉。 「うん」と相槌を返した僕の瞼に、形良い唇が降ってくる。 「仕事を放棄してでも、アルを抱き締めに行きたいって何度も思った」  だから昨晩は連絡する間も惜しくて家に帰って、襲っちまったんだけどな……そう続けた兄さんは頬に口付けてから、余裕のない自分が恥ずかしいと笑った。  そんなの、僕だって同じだ。  身体の至る所に残る、昨晩の名残が良い証拠。 「……もっと傍に寄っていい?」  返事を言葉を待つことすらじれったくて、言うと同時に兄さんの身体の上に乗った。恥ずかしい体勢だとか思う余地なんて  今の僕にはなくて、ただ兄さんの熱を感じたかった一心での行動だった。  シーツにくるまれていた身体はお互いに裸だから、ダイレクトに体温が伝わる。空気すら入る隙間もないくらい密着する兄さんの、  規則正しい鼓動を刻む胸は緩やかに上下していた。聞き入るように、僕は裸の胸元に頭を寄せた。 「アルフォンスさん、重たいんですが」  そう口で言いつつも、兄さんの腕は僕の背中へと回って抱き締めてくれる。  元は別の温度を孕んでいた身体に馴染んでいく互いの体温は、まるで身体が溶けて一つになったような錯覚を起こす。  それは昨晩の行為とも似通った、だけどもっと穏やかなもの。抱き合うだけで幸せな一体感に浸れるのは、大好きな兄さんだけだ。  ずっとずっと欲しかった熱がここにある、手を伸ばせば届く距離に兄さんがいる。  その事実が、たまらない幸福感をもたらしては眩暈すら起こしそうになる。 「今、重なったな」 「え?」  何のこと? と問おうとして、気がついた。 「……そうだね。同じスピードでドキドキ言ってる」 「運命共同体だな、俺達」 「何言ってんだよ、バカ兄」  片目を瞑って笑う兄さんに吹き出した。  実は僕も、兄さんと繋がっているんだなぁと思っていた所なんだけど。  笑ってしまった手前、素直に同意する事が恥ずかしくて出来なかった。笑いながら嬉しさを噛み締める。  次から次へと溢れ出る笑いに終止符を打ったのは兄さんの唇。恭しく顎を上向けられて、今日何度目かのキス。  至近距離にある瞳に、いまだ慣れない僕の胸がどくん、と一際高鳴った。  その一鳴りで、重なっていた鼓動のリズムが乱れ、それぞれの早さで鼓動を刻み始める。 「……さっきのさ、好きってやつ」  唐突に呟いた兄さんの言葉に、一瞬?が飛び交った頭だけど、すぐに思い当たった。 「好きになっていくにつれ弱い?」 「そうだ。前よりも俺が好きになったから、弱くなったって事にしちまえば気が楽になるんじゃねえ?」  包み込むように頬に触れてきた両手の、オートメイルの冷たい掌と温かい掌の感触。  温度の違う手はどちらも兄さんの手に変わりない。視線を合わせるようにそっと頬を持ち上げられた僕の双眸に、冗談めかした言葉とは  裏腹に穏やかな瞳の兄さんが映った。  兄さんの言うとおり、日々好きだって気持ちが膨らんでいるのは確かだと感じてる。  一人でも平気だった夜明けが、耐えられなくなったくらいには。 「お前には悪いけど、弱さは時に幸せの糧になる。好いてるヤツが見せる弱さは格好悪いもんじゃない。  むしろ愛しさすら感じるものなんだ。何よりも好きだっていう証にならないか?」 「幸せに不安は付き物だ」そう続けた兄さんがにっと笑って、軽く額同士をこつんとぶつけた。  兄さんの言うとおり、そう考えたら弱いって悪いことじゃないよね?   思い悩むことすら好きな人の前では愛しさに変わるなら、それは恋を手にした人が持つ事が出来る最高の切り札、かもしれない。 「……ありがと、兄さん」  お礼と共に、人生二度目となる僕からのキスを仕掛ける。  一瞬の口付けに驚きつつも、兄さんは嬉しそう笑った。 「これからも、アルを不安にしてしまうだろうけど……俺を待っていてくれないか?」  ぽつりと静かに落ちた囁きに、黙って頷く。 「俺の帰る場所は、お前の元しかないんだ」 「うん、待ってる……」  ありがとう、呟いた兄さんのオートメイルの指先が何かを描くようにくるくると頬を撫でる。  冷たかったその掌も、今では僕の体温と混じって温かい。そっと自分の手を重ねて、掌に口付けた。  またこうして不安になる日がくるだろうけど、兄さんのぬくもりさえあれば大丈夫。  ようやく手にしたぬくもりを、放さないと言わんばかりにしがみ付けば、兄さんも同じくらいの強さで抱き寄せてくれた。  いつの間にか伸びていた眩い光のラインが僕達の身体を横断していて、辿ればカーテンの隙間から夜明けを迎えたことを知る。  サイドテーブルの時計は、六時をゆうに越えていた。 「! 兄さん、忘れてたよ!!」 「なっ、なんだよアル……」  急に叫びだした僕に、驚いた兄さんの胸はバクバクと激しく鼓動を打った。  そういえばまだ、大切な言葉を言ってなかったんだ。 「兄さん、おかえり」  僕の元に帰ってきてくれて「ありがとう」という気持ちを込めて、おかえりを。  些か唐突すぎた台詞に呆気に取られていた兄さんもすぐに察したようで、苦笑いを浮かべた。 「悪いな、忘れてた……ただいま、俺の大切なアルフォンス」  甘さを滲ませた囁きにもう一度「おかえり」を口にして、胸に頭を預ける。  もう少しだけ、この幸せな夜明けに浸れるようにと――祈った。                                                                        「幸せな夜明け」H.17.10.20

 

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