happiness―黒の幸福





「寒いな……」  言葉通りに身体を震わせ、エドワードはコートに手を突っ込んだ。 「うん」  簡潔に相槌を打ったアルフォンスは、自分の吐いた真っ白な吐息をなんとはなしに視線で追った。  上へ上へと上昇しふわりと消えたその向こうは、黒を背景に無造作に散りばめられたように広がる星々が輝く夜空。  星座を判別するのに一苦労なくらいの星量と輝きは、冬の澄んだ空気がもたらしたちょっとした天体ショーのようだ。大気で揺らめく星の瞬きがはっきりと確認できる。  アルフォンスは思わず軽く目を見開いた。こんなにたくさんの星を見るのは久しぶりだった。街灯すらない真っ暗な夜道を歩く足取りまで軽くなる。  エドワードにもこの空を見てもらおうとアルフォンスは兄を見上げたが、端正な横顔に滲む濃い疲労を見て取って口をつぐんだ。  兄から視線を外したアルフォンスは再び夜空へと視線を向けた。  星は瞬きながら、アルフォンスを見下ろしている。 (ずっと仕事だったし、疲れてるよね)  そういえば、今日は軍部を出てからまともな会話をしてないことに気が付く。  普段なら共に歩む帰路で会話が耐えることはないのだが、「疲れたな」「うん」「寒いな」「うん」と、星を探すよりも容易く思い出せる言葉のやり取りしかしていない。  ただ、アルフォンスもそれに対してどうこう思うことはなかった。今は会話が億劫でならなかった。  常にない忙しさに見舞われたせいで、今日は共に仕事が長引き残業になってしまったのだ。 『もう遅ぇし、このまま仮眠室に泊まらないか?』  定時を大幅に超え、翌日まで一時間を切った時計を見て、暗く寒い夜道を歩くよりはマシだとエドワードは提案した。  兄の提案は、すぐにでも休みたいと訴える身体にはとても魅力的だった。  しばらく考えた末に、アルフォンスは「家に帰りたい」と言った。  軍から家まで大した距離はないものの、疲労で重たい身体を引きずって家路を辿るのも重労働で、提案を呑んでこのまま休んでしまいたいとも思った。  けれど、家でゆっくりと休みたかった。どこよりも家は落ち着くし、仮眠室とはいえ仕事場で休むのは気が引ける。  僅かばかり、身体の欲求よりも理性が勝った。  エドワードはアルフォンスの言葉に少し顔を顰めただけで、何も言わずすぐに帰宅準備にかかり今に至る。  時間に追われた反動か、会話のない無言の時が心地よかった。  相変わらず街灯もなく、月すらない夜道。ぽつぽつと建つ家も、もうじき日付が変わる時間帯になると、明かりを付けている家は見当たらない。  まったく光源のない暗闇の中、この世界に二人しかいないような気がして不思議な気分だった。 「さぶ」  手袋すらつけず、外気に晒され続けた手がじんと痛んで、アルフォンスはコートのポケットに両手を突っ込んだ。 (ん? 何だこれ)  ポケットへ突っ込んだ右の指先が、奥への侵入を邪魔するように鎮座する物体にぶつかった。  指先で、手の平でおそるおそる触れてみる。それは手の平で包み込めるサイズの、角のある固い箱だった。  確かめるように触れながら記憶を探るうちに、アルフォンスの脳裏に一つのシーンが浮かび上がる。 (これ、この前店で買ったチョコレートだ。あれ、そういえば今日って……) 「あ!!」  唐突に思い当たったアルフォンスは大きな声を上げ、慌てて腕時計を見た。  隣で「うわっ!?」と驚いた声を出すエドワードを気にせず、文字盤に表示されている時間に目を見開く。 「十一時半……」  アルフォンスは安堵の息を吐き出した。  まだ「今日」には十分時間がある。 「おい、いきなりなんだよ」  急に叫んで立ち止まったアルフォンスを、エドワードが不愉快そうに咎める。 「ごめん」と返してから、コートのポケットから箱を取り出し、エドワードの前へと突き出す。手の平に乗るのは、赤いリボンのかかる正方形の箱。  眉を潜めてこちらを見ているエドワードに、アルフォンスが笑いかける。 「今日バレンタインデーだったこと、忘れてた。遅くなったけど、兄さんに」 「は、バレンタイン? ……あ!」  今度はアルフォンスが驚く番だった。  先程アルフォンスとと同じように声を上げたエドワードが、持っていた鞄を漁り始めた。  よほどいろんな物が入っているのだろう「ないない」と口にしながら探す兄の姿に苦笑する。   しばらくして、エドワードが鞄から抜いた手の平には、アルフォンスが手にしている箱と同じくらいの大きさで青いリボンが巻かれた長方形の箱が乗っていた。 「もしかして、兄さんも?」 「ああ。忙しくて忘れてたけど、俺もチョコレート用意してたんだ」  恥かしそうに笑うエドワードと手の平を交互に見つめる。  イベントに疎そうな兄がチョコレートを用意していてくれたことが、アルフォンスには意外だった。  基本器用だが、あまり料理もせず仕事に忙しいエドワードのこと、きっとお店で買ったに違いない。  アルフォンス自身も店で買った物だが、あの女性ばかりの一角に突撃するのは本当に骨の折れる行動だった。  アレを兄も体験したのか……どんな顔して可愛いラッピングの施されたチョコレートを買ったのか気になったが、  それを口にすると拗ねてしまいそうだったので心にしまっておく。 「兄さんからくれるなんて、有り得ないって思ってた」  アルフォンスの言葉に、エドワードは苦く笑った。  細められた視線が、自ら手にする箱へと移動する。 「これでも渡そうってずっと前から考えてたんだぞ。……俺達さ、他所には言えない付き合いしているだろう?」  一瞬向けられた視線が、言外に「兄弟」を含んでいることを知らしめる。  あえて口にしないその言葉に、アルフォンスも「そうだね」と返すだけに留めた。今更判りきったことで、自らを苛み悩むことはしたくなかった。  それでもちくりと胸が、罪悪感で痛む。だが、どれだけ苦しみを味わっても兄とのことは、手放したくない確かな幸せだった。  エドワードはアルフォンスの頭に手を置いて、撫でるように触れた。  アルフォンスの心を見透かしたように、金の瞳には深い優しさが見えた。 「普段は恥かしくてあまり言えねぇけどさ。この機会を借りて感謝の気持ちと、何よりもお前が大切なんだっていう気持ちを伝えたかったんだ」  エドワードの言葉の一言一言が、胸に染みてゆく。それらは嬉しくもあり重くもあり――幸せだった。  目の前の、同じ色の瞳を持つ男も、後悔はしていないんだとアルフォンスはほっとした。  兄弟であるが故の罪悪感はいつまでも拭われることはないだろう、死ぬまでずっと。  しかし愛する故の苦しさは厭うものではなかった。この世界にひとつだけの幸せに、絶望なんてないのだ。  エドワードの手の平を、片手で箱ごと包み込んでアルフォンスは口を開いた。 「僕も、同じ気持ち。……両思いでよかった」  ありがとう、と呟いて青い箱を受け取った。空いた手の平に、持っていた赤い箱を置く。  目が合うと、同時に少し笑った。 「ね、早く帰って食べよう? バレンタインデーのうち……」  アルフォンスの言葉は、エドワードの唇によって奪われた。  驚いたのも束の間、軽く唇を吸われたのを合図に目を閉じ、キスに浸る。  外でキスをしたのは初めてかもしれないと、アルフォンスは思う。  恋を守るために、家の外では徹底して兄弟を演じて過ごしてきた。人の目に触れれば終わる関係を、安易に晒すことはしてこなかった。   ゆっくりとぬくもりが離れていく気配に思考を中断して目を開けると、今度は柔らかく抱き締められた。 「アルフォンス。あとどれぐらいで明日になる?」 「え? ……あと二十分くらい、だけど」 「そうか。ちゃんと今日中に家で食べるから、もうしばらくこのままでいさせてくれ……」 「いいよ……」  切実じみた囁きに、アルフォンスは頷く。  肩口に顔を埋めながら「ありがとう」と囁いたエドワードの髪を、梳くように指先で触れた。  胸に顔を押し付けるふりをして、左の胸元へ軍服越しにキスをする。  家以外でキスをするのも、恋人として抱き合うのも今日が初めてだった。人目を避けて来たアルフォンスの胸に今あるのは恐れではなく、安らぎだった。  ――二人を包み込むように広がる真黒の闇が、優しいものに思えた。  身体を包み込む温かで愛しい熱を強く抱き締めて、アルフォンスはエドワードの鼓動にまた、キスをした。 「好きだよ、兄さん」 「俺もアルフォンスだけを、愛してる……」  闇に溶け込んだ蜜言が、チョコレートよりも甘かったことを、そう遠くない未来に知るだろう。  暗闇に紛れている間だけ、この世界で堂々と愛しい兄を想う事をお許し下さいと、アルフォンスは祈った。  頭上でひとつの星が鈍く瞬き一つの軌跡を描いたことに、この世界で愛を肯定する二人には気が付かなかった。                                                            「happiness―黒の幸福」H19.2.16

 

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