明日往く者へ





 ドアの隙間から顔を覗かせたアルフォンスの目にまず飛び込んできたのは、軍服に包まれた背中だった。  均整の取れた長身を覆うそれの、鮮やかな青さはさっき見上げた空の色に似ている。  だが、色に抱く感情は空を見上げた時に湧き上がるものとは違っていた――不安を煽る、青だ。  エドワードさえ着ていなければ、すぐさま奪い取り燃やしていただろう。  兄のエドワードが正式に軍属することになってからいつかは来るだろうと思っていた。戦場へ行くことを。  雄々しい彼に視線を奪われながらも、心は穏やかではない。  何かを押し潰すようにアルフォンスは手を握った。掌がうすく湿り気を帯びていた。 「おはよう、アル」  声もなく視線を向けていたアルフォンスに、エドワードが振り返って笑った。  反射的に「おはよう、兄さん」と返して疑問が頭を巡る。 (なんで、僕がここにいるってことが判ったんだろ)   アルフォンスにしてみれば当然の疑問もすぐに解消されることになる。  エドワードの笑顔の向こう、アルフォンスが驚いた表情をして鏡の中で立ち尽くしていた。 「気付いているのならさっさと声掛けろよ、バカ兄!」と内心で悪態をつきながら、うっかり見蕩れてしまっていた自分に羞恥を覚え、  頬に熱が上昇していくのを止められない。燦々と窓から降り注ぐ朝日の中では誤魔化しようもない頬の赤さに、みるみるうちにエドワードの表情が緩んでいく。  長年、彼の弟として傍にいたアルフォンスには、エドワードがこれから何を言おうとするかなんて容易に想像がつく。  その証拠に、ニマニマと笑みを浮かべたエドワードが何か言いたげに手招きをしてこちらを見ていた。  彼が口を開く前に、アルフォンスは強く地面を蹴って室内に足を踏み入れ、鏡の前のエドワードの傍に立った。  見下げる金の瞳に、睨みつける自分の姿が映る。  通った視線をすぐに逸らし、行き着いた先は青の制服。一寸の隙や乱れのないエドワードの着こなしに流石だと思う反面、寂しさが胸を過ぎった。  ……触れるきっかけが、つかめなかった。 「……似合ってるよ」  思わずむすっとした声で呟いたアルフォンスに、エドワードは上機嫌に口を開く。 「惚れ直したか?」 「それとこれとは別」 「さっきは見蕩れてたくせに、手厳しいな。お前らしいけど」  苦笑いをして、だが嬉しそうに微笑みながらエドワードは頬に口付けてきた。  少しだけ乾いた感触が何度も頬をくすぐる。自然と口元からこぼれる笑みが彼にもうつり、静かな部屋に二人分の笑いが響く。  普段と変わらない様子のエドワードの頬にキスを返しながら、アルフォンスは内心ひとりごちる。  自分が思ってるよりも、兄にとって戦場へ行くことは何でもないことなのだろうか、と。 「あー、こう朝からラブラブ出来るってのは、幸せだな」 「兄さんの幸せは、案外安いんだね?」 「って、お前安くないぞ! 何年我慢したと思ってるんだ!」  いきり立つエドワードに、アルフォンスは「ごめん」とからからと笑って、もう一度頬に口付けた。  それだけじゃ足りない、と大人気なく拗ねたエドワードが自分の唇を指差して、とんとんと強請る。  らしくない子供っぽさがまた笑いを誘い、だがそんな兄が可愛らしくて、程なくアルフォンスは強請られるがままに唇を寄せた。  若干背伸びをして、エドワードの肩に手を添えながらちゅっと、音を響かせてキスをする。少しかさついた唇が、確かな弾力を持ってアルフォンスの唇を受け止めた。  一瞬のキス……離れる間際、交わるエドワードの視線の中に物足りなさを見つけて、再び唇を重ねた。  先程よりも少しだけ長く唇を塞いで、エドワードと空気の繋がりをしばし絶つ。妙な優越感がアルフォンスの心と身体に、ひそやかな熱を沸き立たせていく。  背に回る腕の感触を感じて、アルフォンスもエドワードの背に腕を回して抱き締めた。合さる唇が、少しだけ深くなった。 「……今日はサービスいいんだな」  僅か離れた唇が甘く囁く。「ただの気のせい」――アルフォンスはそっけなく返して、空いた距離を再び埋める。重なった唇が笑まれるのが判った。  今のアルフォンスにとって、この口付けはただの愛情表現ではない。  今言葉を交わせば、きっと兄を責める言葉が出てしまう。心にある不安に揺さぶられ、そのまま感情に任せて言葉を発すれば、  エドワードを困らせてしまうだろう。口を塞ぐのなら、大切な相手の唇がいい。  二人の唇から、小さな水音が部屋に満ちていく。  朝には相応しくない空気も、今はアルフォンスを心地よく包み込んでくれた。 「もう、これ以上は俺がヤバイ……」  唇を離し、呟いた声は上擦っていた。アルフォンスは腕の中でエドワードを見上げた。  しっとりと熱を孕んだ金色の双眸がアルフォンスを映す。自分の瞳も、同じように濡れて相手を欲しているのだろう。  今ここで求めるわけにはいかない。滾る熱情を鎮めようと、唾液で濡れているエドワードの唇を指先で拭い、舐め取っていく。 「……寄越せ」  アルフォンスの指先を捕え、エドワードはその指先を口に含んだ。  ざらついた舌先が指先に絡んでは吸い上げられる――かすかな快楽に身が震えた。   (……綺麗、としか言いようがないよね)  朝陽に曝け出された、丹念に舌を這わせる姿にはどこにもいやらしさがない。むしろ著名な画家の描いた、美しい絵画の一場面を思わせる。  多分に身内の欲目も混じっているだろうことは否定しないが……こうして過ごす朝は、あとどれくらいなのだろうかと、ぼんやりと見やりながら考えた。 「鋼の錬金術師」とほうほうへと名だたせた兄を信じていないわけではない。  強く、雄雄しい獅子のようなエドワードの力は、彼の傍にずっと寄り添ってきたアルフォンスは誰よりもよく知っている。  鋼、と呼ばれる所以である腕と足――同時に、精悍な肉体に宿るのもまた鋼の強さを秘めた魂。  エドワード自身の強さを間近で見てきたアルフォンスは、信じる要因が多すぎて、信じないわけにはいかない。  戦場へと赴いても、その有能さを発揮するだろう。――人殺しの功績を褒め称えるその場所に、彼は往く。  どくん、と心臓が嫌な音を立てた。  そのあまりの大きさに思考が途切れ。エドワードが意地悪げに微笑みながら見下ろしていることに気が付いた。 「……感じたのか?」  一瞬、何を言っているのか判らなかった。  だが、兄の手にあったはずの自分の手が胸元に寄せられているのを見て「ちょっと」と言葉を濁した。  笑みを潜めて怪訝そうに表情を歪ませたエドワードだったが、結局は何も言わなかった。  代わりに「おかしい所があったら直してくれ」と言って、数分前と変わらずに隙も乱れもない軍服を指差した。  これ以上言葉を重ねるよりはと、アルフォンスは軍服へと手を伸ばした。  アルフォンスが軍服に触れる間、エドワードは視線を窓の向こうに広がる青空へと向けていた。  鋭い彼の気遣いを有り難く思いながら手を動かしていく。元から着崩されていないそれは、幾度手を入れても何も変わらなかった。  人を殺してでも、生きて帰ってきて――何度も飲み込んで口にはしなかった言葉。  だが、思わずにはいられない。口にしたくてたまらない。愛する人の生を望んで何が悪い?   他人が死んでも構わない、生きて帰ってくるのなら。  そんなことを考える自分が、嫌だった。だが、エドワードがいなくなるのはもっと嫌だった。  生きて帰って来ても、人を殺して帰って来ても――この心にはもう、平穏は戻ってこないだろう。  軍人になって戦場へ行くと、エドワードが決めてからアルフォンスの胸に、そんなものはない。 「どうしたんだ、アルフォンス?」  エドワードの驚いた声に、自分が彼に抱きついていたことを知った。  離れろ、と頭のどこかで警告にも似た声が響く。このまま抱きついていたら、飲み込んできた言葉を口にしてしまう。何より、エドワードを困らせるのは本位ではない。  強く強く思う反面、身体は構わずエドワードを抱き締める力を強めていく。  服越しに伝わる体温が、頑なに押し留めようとしていた枷をゆっくり溶かし……エドワードを困らせたくないと思う気持ちより  不安がふくらんで、口にするまいと潜めていた言葉をもう、我慢する事ができなかった。 「……死なないで」  エドワードが「軍属することになった」と言ってから、初めて口にした願いだった。  生きて戻ってきて欲しい。殺さないで、とは言えなかった――戦場に行くのだ、この言葉はきっと兄を苦悩させ、一瞬の迷いから命を奪われかねない。  他の人の命よりも、ただ腕の中にある彼だけが大切な存在。世界を敵に回した気持ちだった。  頭を撫でる掌の優しい動き。  その手は、心に巣くう不安を宥めるには足りない。 「……甘えてくれるのは嬉しいけどさ。なんだったら昨晩甘えてくれると嬉しかったな」  苦笑して首筋にキスを落とすエドワードに、アルフォンスの言葉への返事はなかった。  ただ、抱き返す腕の力は強くて密着する胸は、アルフォンスのそれよりも大きく鼓動を打っていた。 「今度は、そうする……」  アルフォンスもそんなエドワードに合わせて返し、凭れかかる。  心音を聞くように胸元へ耳元を寄せて、生きている証にひたすら聞き入った。この力強く生を刻む鼓動を、また聞くことが出来るようにと祈りながら。   「お前が早く起こしてくれたおかげで、実は結構時間あるんだよな……アル?」  時計をちらりと伺ったエドワードが、アルフォンスの耳元でそっと囁いた。  頷いたのを見届けて、上着を脱ごうとしたエドワードの手を阻む。 「そのままで抱いて。早く、僕に兄さんを感じさせ……」  アルフォンスの呟きを、エドワードは口付けで奪った。 「俺は、いつでもお前のものだから。何も心配しなくていいんだ」 「うん」 「愛してる」 「うん……」  不安の消えない胸ごと大きな腕で抱き締めて、幸せと切なさが混じる波へとエドワードは導いていく。  微熱のような揺らめきも、すぐにはっきりとした熱情へと変わる。  曖昧になっていく意識の中で、燻る熱に浸るアルフォンスはエドワードをしっかりと抱き締めた。  不安と覚悟を抱きながら、けしてその熱を忘れないように。   「死なない」  その言葉を口にしなかったのは、エドワードの優しさだとアルフォンスは信じている。  生きるか死ぬか、どちらに転ぶか判らない。無駄な優しさは、お互いを傷つけるだけだ。  命の灯火の確かな保証は、どこにもない。  アルフォンスに出来ることはただ一つ――願いを込めて「いってらっしゃい」と、兄の後姿を見送るだけだった。                                                                 「明日を往く者へ」H18.10.26

 

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