恋+愛





   日々募りゆく幸せに潜む感情が、ゆっくりとその姿を露にしていく。  それは、恋の形をしていた。  この気持ちは、想い人を不幸にする禁じられた感情。  戦場を我が家にして遠ざかることで、大切な弟を幸せに出来ると思っていた。  戦場を選んだことに後悔はしていない。これで互いに「兄弟」としての安寧が訪れると思っていたのだ。  しかし、現実は頭で考えるよりも上手くはいかないものだった。  彼の幸せを願うと誓い、遠ざけた自分の身勝手を彼は「わかった」と寛大な心で受け止めてくれたのに――物理的な距離が広がれば広がる程に意識が、  心がアルフォンスに支配され捕らわれていく。気がつけば、何も手がつけられないくらいに心がアルフォンスで占められている現状に陥っていた。 「……会いたいな」  とめどなく溢れる感情は枯れることを知らず、エドワードの胸を願いで満たしていく。  安っぽい誓いを立てたつもりはなかった。だが実際は、溢れる感情を止めることも出来ない誓いの軟さに、エドワードは自嘲した。  吐き出された息が、満足に上昇しないうちに闇へ溶ける。  月のない真っ暗な闇に覆われた夜。ぽつぽつと物寂しく浮かぶ明かりの中の一つに、エドワードの家がある。  腕時計の針があと半周もすれば、新たな一日の時を刻み始める時間帯――街は消灯が早く明かりは少ない。  家の方向へと視線を移せば、光ひとつ。闇に浮かぶ白い電光の明かりは暖かさをイメージさせるのに、今は胸の内を切なくさせる。 「アル……」  思わず呟く。彼はあの灯りの下で一人、帰らぬ兄を待っているのだろう。  どんな気持ちでいるのだろう……離れたこの地からは、計り知ることは出来ない。  いつからアルフォンスが好きだったのか当のエドワードすらはっきりと判らなかったが、胸に抱く感情はそう最近のものではないと  漠然とした確信を持っている。本人すら見知らぬ深い場所で、彼を想っていたのだろう。日の下に出ることを望みながら、そっと静かに。  エドワードがその事実に気付いた時は驚き、悩んだ。  世界でただ一人の肉親であり、弟に恋愛感情を持つなんて許されるべきことではないのだ。あの時の爆発しそうな鼓動と、  目の前が真っ暗になる絶望、混乱する思考は昨日のように思い出せる。  反面、胸に染みゆく感情はエドワードを幸せにした。それが禁忌だとはいえ、恋する気持ちに変わりはなかった。  この兄弟にあるまじき感情をアルフォンスが知れば、きっと嫌悪するに違いない。今まで無条件で向けられていた親愛の情や信頼を失ってしまう。  たった一言の「好き」が、二人の世界を一瞬で破壊してしまうのだ。隠すためには、アルフォンスから離れるしかなかった。  その手段に、エドワードは正式に軍の狗になることを選んだ。  地位も金も、ましてや街の為でもない。誰でもないアルフォンスの為に、軍属を希望したのだ。  軍属を希望した日、軍服に身を包んで帰宅したエドワードに、アルフォンスは大きな瞳に怒りを隠そうともせず睨みつけてきたが、  結局彼は怒声を発することはなかった。「兄さんが決めたことだから」と、身勝手さを許して笑った。  身体の横できつく握られた拳の中には、激しい感情が握られていただろう。  小さな拳で頬を殴りつける権利が彼にはあったのに――アルフォンスは「皆を守ってね、軍人さん」と言って笑ったのだ。  愛しくていじらしくて可哀相なアルフォンス。最愛の弟に無理をさせた己がひどく憎くかった。  同時に、この選択が将来への幸せに繋がることを切に願った。  そうでなければ彼に無理をさせた意味がない。「兄弟」の絆を守ろうとした、意味が、ない――。  昨日まではなかった雪の感触をブーツの足裏で踏みしめ一歩一歩、確実にアルフォンスの元へと近づいていく。  ゆっくりと昂る鼓動。道端の電灯を頼りに、家路を辿る。 「……恋人としてじゃなく、兄弟としてい続けるのもまた「愛する」ということ、か……」  戦場で言われた台詞を、もう何度呟いたか。同時に、脳裏に気に食わない男の笑顔が浮かぶ。  男はらしくなく自分を心配に思って口にしたのだろうが、もう「兄弟」の関係では満足出来ない自分には辛い言葉だった。 (こんなにもお前に会いたくて仕方ないのに――今日もまた、俺はドアを叩くことが出来ないのかもしれない)  会えますようにと心で願い、「会いたい」と呟いた。  奇跡を願うエドワードの言葉は吐息と共に、天へ聞き入れられる前に消えていった。  願いは叶わないと、神様から見放された気分だった。  躊躇いを雪に刻みながら愛しい人を目指して歩く。暗い世界、一つの明かりを目指すエドワードの足は止まることはなかった。 「死ぬぞ、鋼の」  直属の上司であるロイ・マスタング准将から、「死ぬぞ」と言われたのはこれで何度目だったか。  急ごしらえの狭く簡素な作りのテントの中ではどんな小さな音でも拾うことが出来る。時間つぶしに銃の手入れをしつつ、  深考していたエドワードは突然掛けられた言葉に一瞬目を見開き、言われた内容を理解するとともにこちらを見下ろすロイを睨みつけた。  軍人としての自負を持つ者としては、少々腹の立つ言葉だった。  鋭く細められた双眸を前に、ロイはうろたえることなく無言で見返している。普段通りの泰然とした雰囲気は、更にエドワードを腹立たしくさせた。  交差する視線。張り詰めていく空気にぴりぴりと肌が粟立ち始め、静寂が二人を包み込む。睨み合う時間を計る時計はここにはない。  永遠にも感じる時をこの男と共有しているという事実が、エドワードの機嫌を急降下させた。  どれくらいの時が流れたのか。じっと、何かを見定めるようなロイの眼差しに晒されて、次第にエドワードの内心に焦りが生まれ始める。  (――こいつと対峙するとき、いつもこうだ)  ロイ自身に原因がない事は判っていた。己の心に暴かれたくない部分があるからだろう。  心を暴こうとするような黒い眼差しから逃げてしまいたいと、睨みつける瞳が揺らぐ。だが、エドワードの負けず嫌いな心がそれを拒否して、  ひたすらにロイを睨むのをやめない。ロイもまた、視線を外そうとしなかった。  ……ロイはエドワードの内に気がついているのだ、心に潜む闇を。  この尖った眼差しも見せ掛けの他愛無いものだということに気がついて、いる。 「……いつまで経っても子供だな」 「あ? 誰がガキだよ!」  張り詰めていた空気を破ったのは、ロイだった。  打破するきっかけを与えられたことに悔しく思いながらも、エドワードはここぞとばかりに椅子から乱暴に立ち上がり  見上げる立場から見下げる立場へと代わった。見せ付けるように勝ち誇った色を浮かべるエドワードに向けられる視線は、  多少からかいの色を滲ませながらも冷ややかなままだった。 「図体ばかりデカくなっても、中身が伴っていなければ成長の意味もないな? 鋼の」 「ちっ……俺が死ぬかよ」  見下げた視線の先、黒の瞳に映った己の表情が子供に見え、逸らした後にまた腰を下ろした。  頭上から落とされるワザとらしい大きな溜息に、エドワードは黙って息を吐いた。  エドワードが立つ場所は紛れもない戦場だ。遊びに来ているわけではない。  人間同士が争い果てる、死を多く臨む場所。生半可な動機では、目先に横たわるグリーンのカバーが掛かられた亡骸を同じ道を辿ることになる。  自分と背格好の似た、人懐っこい笑顔を浮かべる青年の姿を脳裏に浮かべて、唇を噛んだ。  エドワードの視線の先を辿ったロイが、眉を顰めて口を開いた。 「……そこの彼も、君と同じように「死なない」と言ってすぐ、亡くなった。君は、ここに何をしに来ているんだ?   誰よりも皆を守ろうと必死だった彼を、命を落とした者を羨ましいと妬みに来ているのか?」 「!」  ロイの言葉に肩を震わせたはエドワードは、激昂を秘めた眼差しを黒髪の上司へと向けた。  ばくばくと激しく鼓動を打つ胸の存在を感じながら、まっすぐに視線を向けるその先――腕を組み、瞼を伏せたロイは  体躯を壁に寄りかからせて、エドワードの言葉を待っている。  この男の言うとおり、だ。言葉がないからと、ただ睨みつけて、これでは子供と変わりない。  己の身に潜むものを見透かされて、暴かれて……当てはまるから、何も言えなくなる。  言葉を失い、物言わぬ人と化したエドワードに、ロイは瞼を上げて彼を瞳に映した。冷ややかな視線ではない、どこか心配げな色を浮かべて、静かに話し始める。 「判っているのなら構わない。……君には、君の帰りを待ってくれる家族がいるだろう? 鋼の、君の身体は自分だけのものじゃないんだ。  アルフォンスの為にも、自分を大切にしろ。そうでなければ、ここで死ぬぞ。大切な人を守れずに、君は犬死だ」 「わかっている!」と、叫びたい衝動をどうにか堪えた。エドワード自身、言われなくても判っているのだ。  この男が言うように、アルフォンスの為にここに来た。彼の生活を守るために、兄弟の絆を守るために来たのだ。  だが、実際はどうだろう? 大義名分を持ち戦場に駆け込んだ自分の働きは、けして悪くはない。  無鉄砲すぎると、彼は言いたいのだ。死を恐れぬ戦人に成り果てて、無謀に立ち向かっていく。  軍には有り難い限りの人材だろう、生きることを考えないで戦う人間なんてこの世にはいないのだから。  このまま大切な人と結ばれぬ運命ならば、命を捨てたって構わない。アルフォンスを守って死ねるのなら、それはそれで幸せだ。  無意識下に潜む生きることに対する諦めを、ロイは見抜いていたのだろう。  傍で戦闘を見ていたら、エドワードの気持ちなど、この男が見抜くのは容易いはずだ。 「この世に神が定めた運命とやらがあるのなら、それは一つではないと私は考える。広げられた数々の運命の中、選び取る  権利くらいはこちらにあってもいいと思わないか?」 「運命を、選ぶ?」 「運命という言葉で片がつく程、安い人生を歩んできたつもりはないが、もし運命とやらが存在するのなら、という話だ。  目に見えない糸で引っ張られている人生なんて、御免だからな」  胸に、小さな希望が灯る。  目の前の男の話だと、兄弟だからと結ばれない悲観な運命もあれば結ばれる運命もまた、あるということだ。 (愛しても、いいのか?)  そうして気がついた。彼は、自分を慰めていると。  再び眼差しを鋭くしたエドワードに、ロイはどこか満足げに瞳を細めた。 「無駄な死は望んでいない。このままだと、ここから追い払うことも考える。軍人は、生きるために戦う。死ぬために戦うんじゃない。  君は誰かを愛する前に、この場に立った以上は軍人だ。考え――」  爆風が、ロイの言葉を無理矢理打ち消した。耳の傍で、次々と音が爆発する。  巻き起こる砂嵐が視界を奪い、地を揺るがす振動が足を蹴倒そうとしていた。腕で顔を庇いつつ、咄嗟に掌を打ち鳴らした。  地に着いた掌から光が溢れた後、大きな壁が現れそれ以上の爆撃から身を守る。 「……俺は、用無しか?」  視線だけを背後へ移し、地面に片膝をつく相手に声をかける。  突然起こった爆発に、さっきまであったテーブルと机が吹き飛ばされていた。後に残るのは、テントにいたエドワードとロイだけだ。  素早く視線を辺りへ巡らせると、二人よりも少しはなれた所に盛り上がったグリーンシートを見つけた。  盛大に砂を被ってはいたものの、そこにある事にほっとしながら立ち上がった。軽く軍服をはたきつつ、身体に異常がないか確認する。  一応上司であるロイも伺ったが、同じく特に異常は見られなかった。 「優秀な部下は、無下には出来んな」  笑って、ロイはすぐさま立ち上がり辺りを見渡した。様子を伺う黒い瞳は先程と違い鋭く細められている。  切り替えの早さは、流石准将の座に着くだけはある。  通り過ぎ様、ロイは耳打ちをしてきた。 「兄弟としてそばに居続けることもまた、愛するということじゃないか? 形を気にするのも結構なことだが、その根本にある大切にしたい、  という気持ちは変わらないのではないのかと思う。思い悩む暇など、ここにはないぞ」  おい、と言う間もなく既にその背は遠く、エドワードは一人立ち尽くした。  急な襲撃を受けた事により、周辺が慌しい。砂埃にまみれ視界は不十分ではあるが、仲間の叫び声や時折ロイの 指示が飛び交い、銃の甲高い音も微かに届く現状は、けして良いものではない。 (似合わねえ真似、しやがって)  ロイなりに心配していたのだろう。あの男はまだエドワードを子供扱いしている。  それが悔しく、拳を作った。  運命を選び取ることが出来るのなら、兄弟では終わらせることはしない。  ただ、ロイが言ったようにどちらにせよ根本はきっと一緒だ。大切にしたい気持ちは変わらない。 (じゃあ、どうしたらいいんだよ……)  今のエドワードの内に、それに対する答えなど持ち得てはいなかった。  アルフォンスは大切な弟であり、一人の人間として愛している。  だが、もう内に秘められた感情は兄弟として愛するだけじゃ足りない。  恋という名で、一人の人間を愛したいのだ。   「周りが見えていない、アルフォンスの気持ちすら考えていない……俺は、大馬鹿野郎だな」  独りよがりの感情は紛れもなく恋だった。  自嘲気味に歪められた唇のまま、エドワードは歩き出した。  ここは戦場だ、悩む暇はない。   アルフォンス、一言小さく呟いたエドワードは駆け出した。一瞬でも感情から逃れるように。  腰に収められた銃を手に取る――軍人だと知らしめる重さは、手によく馴染んだ。  脳裏にあった過去の映像を打ち消し、エドワードは歩みを止めた。 「今日で一週間と、三日だったか……」  アルフォンスと交わす約束を、エドワードはけして破らなかった。  初めて約束を破ってから今日で三日も経つ。あと数分で、四日目になろうとしていた。  このドアの向こう、律儀で「兄」思いの「弟」は、テーブルに豪勢な料理を並べて自分の帰りを待っているだろうことは想像に難くない。  温かな湯気の向こうから見るアルフォンスの笑顔を想像して、エドワードは口元を歪ませた。  この家には幸せがあり過ぎる。兄弟としての幸せは、今のエドワードには耐えられなかった。  いつ爆発してもおかしくない感情は、恋の形をしている。  凛とした眼差しさえも、恋の色を纏っていることを自覚していた。あれでいてエドワードのことになると聡い彼は、すぐに気がつくだろう。  だったら、このまま顔を合わさないほうが、自分達の、アルフォンスのためになる。  兄として一人の男としても、守りたいのは、弟のアルフォンスだけ。その存在がある限り、愛し続けるだろう。 「アルフォンスの幸せが、自分にとっての幸せ、か……」  エドワードはドアの前、振り上げていた拳を下ろした。衝撃を免れたドアが、急に自分を重く拒否している感じがした。  白い手袋にシワを作る掌は、アルフォンスへの気持ちと感情を咎める最後の箍。  このままドアを叩いて開かれれば、きっともう「兄弟」ではいられない。よかれと思って離れたが故に、一層募ってしまった気持ち。  アルフォンスの笑顔を見たらきっと、自分はあっけなく兄弟のラインを飛び越えてしまう。  小さな身体を抱き締めて「兄さん」と禁忌を証明する言葉が紡がれる前に口を塞ぎ、愛する人の呼吸を奪い、身体に己を打ちこみ、全てを手にしたい……! 「アルフォンス……お前が、好きだ」  白い吐息と共に零れ出る告白も、妄想の中でしかアルフォンスは笑って受け止めてくれない。この身に流れる気持ちが、くるおしい妄想を掻き立てる。  数秒前と変わらず暖かな光を漏らす窓に、一人の人影が微塵も動かずにただ俯いている姿があった。  カーテンに映し出される小さな姿に、胸が締め付けられる。軍服の上から、胸元を無意識に握った。 「ごめん……まだ、お前の元に戻れそうにない」  戻れば、お前の世界を壊してしまうから……小さく呟いて、青い背中は翻った。  しんしんと降り始めた雪が、エドワードの来訪を印す足跡の上に、残酷な白さをもって静かに埋める。  足音さえも残さずにエドワードの存在は、白雪の中に消えていった。    アルフォンスの夢を見た。  幼さを残した顔で泣きながら、手を握り締めてくれている。  何度も兄さん、兄さんと呼んでくるアルフォンスに、「どうした?」と問いかけようとしたが何故か口は動かなかった。  久しぶりに声を聞いた気がする、もう何年も会っていないような感じさえした。 「愛して、いるんだ……兄さんを。好き……」  好きと繰り返し呟くアルフォンスの、涙で濡れる金の瞳はとても綺麗だった。  夢は願望の現われだという。なんて自分にとって都合の良い夢なのだろうか。 「俺も愛している」と返したかったが、やはり声が出ることはなく、代わりに温かい手を握り返した。  途端、驚いた表情をしたアルフォンスの顔がみるみるうちに、今まで見た事のないような本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。  その鮮やかな変化が、愛しくてたまらなかった。望みに望んだ、瞬間だった。  自由を得られない現実よりも、甘く温かい夢の方がどれだけ幸せでいられるだろう。  ゆっくり目を閉じた。  愛しい人を夢の世界に閉じ込めて、愛せるように。  深く、深く夢の中へ――沈み込んだ。                                                             「恋+愛」H19.2.1

 

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