恋=愛





 心に秘めた願望は、いつしか身体までをも支配して。  「会いたい」その一言を、口に出すことが出来なくなった。  視界の中にいないことが悲しくて、辛い。  いつも目にしていた光景を我が目に出来ないことが、こんなにも不安を生み出すなんて知らなかった。  視線は自然と彼の姿を探すように彷徨っては、落胆の色を滲ませる。  その事を、当の本人であるアルフォンスは気がつかないでいた。 無意識に瞳がうつろうのだ、彼の姿を探して。  そこに鏡があるのなら気がついただろう、金の瞳がどんなに悲壮な眼差しをしているのか。  アルフォンスは気がつかない。  彼の姿をひたすら追いかける、アルフォンスには。 「いつになったら、帰ってくるんだろう?」  冷めた食事を前に溜息をつくアルフォンスの、白い吐息が部屋に散っていった。  テーブルにずらりと並べられているのは普段の夕飯時にはまず見られない、豪勢な食事。  久しぶりに彼と過ごす晩餐のために、アルフォンスが腕によりをかけて作ったものだ。一刻前には食欲を刺激する匂いと共に  温かな湯気を立ち上らせていたそれらはとうに冷めてしまった。目の前のスープより、アルフォンスの白い吐息のほうが温かい印象を受ける。  テーブルクロスの敷かれたテーブルに肘をついて、アルフォンスは自分が座する向かい側、彼のいつもの指定席を見つめた。無論、そこには誰もいない。  彼の癖であるテーブルに頬杖をつく動作を、アルフォンスは律儀に毎回注意をした。「行儀が悪いからやめて」と。  いつも注意をする人物が逆にだらしなく頬杖をついていたら、ここぞとばかりに彼は注意をするだろう。  嬉しそうに、楽しそうに――長年アルフォンスと一緒に生きてきた人は、そういう人物だ。 「遅いよ……兄さん」  ぶすっと呟いても、アルフォンスの声に反応を返すのは規則正しく時間を刻む針の音だけ。  時計に罪はないのだが、空しさばかりを募らせるその音を止めてしまいたい衝動が身に起こる。  暴力的な感情を、だが行動に移せないのは時間の流れを感じられない空間では、世界でただ一人の兄を待つことが出来ないアルフォンスの弱さからだった。  どれくらい夜の時間を待てばいいのか、朝になれば少しは心が軽くなることを知っていたから、時計の針を止めることなど出来なかった。  アルフォンスが唯一出来ることといえば、空しさを堪えて兄のエドワードを待つことだけ……エドワードが「一週間経ったら、家に帰る」と  言ってから、もう既に一週間と三日は経っていた。  軍人である彼が戦地に赴くのはおかしくない。軍属ともなれば当たり前のことで、ここセントラルでも珍しくないことだった。  むしろ街人達は大手を振って労いの言葉をかけ、無事を祈りながら軍人たちを見送るだろう。死と隣り合わせの戦場へ行く彼等を、この平和な街で……。  頭では判っていたのに、遠い未来の事だと思っていた。  エドワードが戦場へ行くことを、気がつかないうちに拒否していたのかもしれない。 「正式に軍属することになった」と着慣れた服装で出掛けたはずのエドワードは、夕方帰宅した時には古くから知る軍人達と同じ服装をしていた。  下ろし立てだろう、糊のきいた真っ青な軍服はすらりとした長身をぴったりと包み込んで、彼自身の魅力に、皮肉にも相乗効果を生み出していた。  太陽の輝きを思わせる金髪が青に幾筋もの線を描くのが美しく、見蕩れた程だった。  エドワードの常の悪戯でない事は、表情から見て取れた。  どこか緊張した面持ちでアルフォンスを見下げる顔に、ただ申し訳なさそうな表情があった。 「なんで勝手に軍人になったの!」と、糾弾すれば軍属を取りやめてくれるかもしれない。そう思って口を開いたアルフォンスだったが、  揺るぎない眼差しの存在に気がついて、開いた口を再び閉じた。  ばか兄、横暴、死にに行くのか! ……その他もろもろ、拳付きで言いたいことは勿論あった。  昔から兄弟をしているからこそ、こうと決めた兄はてこでも動かないことを知っているアルフォンスは、黙ってエドワードの整った面持ちを見上げていた。  心のどこかの諦めの悪い部分が、彼が笑顔を浮かべて「嘘、ただのコスプレ」と、舌を出してこの雰囲気を払拭してくれることを期待していたが、叶うことはなかった。  兄の本気を感じ取ったアルフォンスには「わかった」としか言えなかった。 「悪いな」  優しげな笑みを浮かべて、俯いてしまったアルフォンスの頭を撫でたエドワード。  幾度も頭を撫でられたが、その掌がよそよそしい大人の手だと感じたのはこの時が初めてだった。  それから少しだけ、頭を撫でられることが嫌いになった。 「悪いな」と、どれだけの「罪」を認めて謝罪の言葉を口にしたのか。  けれどアルフォンスが抱くエドワードの「罪」を消すには、その一言では簡潔過ぎた。 「……兄さんが、決めたことだから」  本当に言いたかった言葉をどうにか飲み込んで。  顔には出さず、笑顔を浮かべて見上げれば、漸く彼本来の表情が戻ってきた。 「おう、この街もお前も、俺が守ってやるよ」 「牛乳も飲めないのに?」 「あんな乳臭いもん飲まなくても、こうして大きくなっただろ? ん?」  ワザとアルフォンスを見下ろして、エドワードは意地悪い笑顔を浮かべた。  妙に胸を張り、鼻高々な様子の兄にアルフォンスは吹き出してしまう。確かに、豆と呼ばれていたあの頃の兄はいない。  目の前には見事な成長を遂げ、立派な青年と化したエドワード。  錬成で再び人の身体を手に入れたアルフォンスの、齢12歳の身体では彼と大分身長差があった。小さなアルフォンスにはもう、  鎧の時つねに目にしていた兄の旋毛は見られない。 「そうだね。しっかり守ってよ、軍人さん」  にっこりと笑って言うと、エドワードは照れくさそうに「ああ」と返した。  いまだ記憶に新しいやりとりを、窓の外、黄金の葉を揺らすイチョウたちが二人を見ていた。  軍人となったエドワードを励まし、支えてきた。それは当然とも呼べる日常。  この街の為に、自分達の為に働く兄の姿はアルフォンスの目には格好良く映った。  錬成してから結構な時が経ったが、身体は一向に安定せず、体調を崩すことが多いアルフォンスは家にいる事がほとんどだった。  そんな自分に歯がゆさを覚えながらも、そのぶん家事をこなし、エドワードを心身共に癒そうと努力してきたつもりだ。  精力的な働きはエドワードを感激させながらも心配させた。 「無理するなよ」疲れた表情で諭すエドワードに申し訳なく思いつつも、アルフォンスは密かに嬉しかった。  軍人となったエドワードを、軍人の前に自分の「兄」だという事を再確認できたのだ。  青い軍服を纏う兄は、どこかアルフォンスを拒否しているように見えた。  ただ青色が冷たい印象を彼に与えているだけだと、馬鹿な妄想を一蹴したが、目にする度にちくりと胸にトゲが刺さった。  じょじょにすれ違う時間が増えていく――軍属ならば仕方のないことだ。  この街の為に、自分達の為にエドワードは働いている。 「会いたい」と、素直な感情も時にワガママになるだろう。  きっと笑って「俺も」と弟の寂しそうな言葉を、嬉しそうに受け止めてくれるのは判っていたが、優しい彼の  負担になるに違いない。アルフォンスは黙って毎日彼の帰りを待った。  離れている時間が増えるにつれ開いていく距離が、アルフォンスの兄を見る目に客観性を与えて、長年一緒だった兄の新たな一面を垣間見ることとなった。  兄弟の贔屓目なしに、エドワードは世間からも格好良く映っていることを知った。  街の女性達の、熱い視線に晒されていることも。  軍内部でも有能さが買われ、その地位を確固たるものにしていることも。  そんな「兄」が他の誰より、「弟」である自分に甘いことも――知った。  そうして不意に「会いたい」という言葉の重さに気がついた。何度も口にしていた言葉が、急に言えなくなってしまったのだ。  突然起こった感情の変化の不可解さに戸惑いつつも、すぐにその意味を悟ってしまう。  エドワードを一人の人間として「恋して」いることに。  辿り着けば、簡単な問題だった。もやが掛かっていた心と頭が一気にクリアになっていく。  いつからなのか判らない、確かな甘い感情がその胸にあることを、唐突に理解してしまった。  混乱を極める理性とは裏腹に心が幸福に包まれていく。好きとは甘く、残酷な感情だった。  実の兄に恋するなんて、知られてしまえば傍にいられなくなるかもしれない。世間体から考えたって禁忌とされる感情は、兄も嫌悪するに違いない。  兄弟の縁で繋がったエドワードに恋してしまったアルフォンスは、脅迫観念に駆られて必至で己の感情を隠そうとした。  エドワードを前に高鳴る鼓動を押し隠し、笑顔で迎えるアルフォンスに彼は「ただいま」を言う。  「寂しかったか?」とニヤりと笑う確信犯の言葉に「うん」と素直に返すことが出来なかった。  普段言っていた「寂しい」が言えなくなり、真正面から向けられる笑顔を罪悪感から直視できない。どうにか普段どおりを繕おうとも、  恋情に寄生された心は鼓動を上げて、いつこの激しい心音を聞かれてしまうのか怖かった。  その一方で、彼に抱きついて「好きだ」と言えたらどれだけの幸福が胸に寄せるのかを想像した。  大きな腕に受け止められて「俺も」とただ一言を告げられれば――甘い妄想に、それだけで身体に痺れが回った。  昂る身体を諫めるには一つしかない。身体に触れるたびに深まる自己嫌悪。だが、アルフォンスにはそうせざる得なかった。  実の兄のエドワードが、好きだったから。  膨れ上がる感情を抑えるために、罪の意識を持ち、いつかこの熱が冷めて錯覚だったと笑える日が来るように、爆発しそうな感情を堪えることはしなかったが。  恋情は冷めることなく、胸に燻ったままアルフォンスを苛み続けた。  時計の針が刻一刻と、今日の終わりのカウントダウンを刻む。「今日」はあと数分もない。  ざわつく胸をどうにか軽くしようと吐き出した息が白いもやを作ったが、アルフォンス自身あまり寒さは感じなかった。  空を漂っては消える吐息が、アルフォンスの胸の空隙を広げていく。  エドワードが約束を破ってどれくらい時計の針が回り、溜息をこぼしたか。  一週間を二日過ぎたところで数えるのをやめてしまった。空しさが募るだけだと思い知ったのだ。  それでも、悪い想像は一切しなかった。  だが、こんなことなら言えなくなった言葉を口にしていればよかったと後悔している。  さすがに三日も過ぎれば、思考が定まらない。  希望と絶望が交差する時を、一人で過ごすのは限界だった。 「会いたい」  気兼ねなく口に出来た昔がひどく懐かしく、恋しい。あの時の自分はまだ笑っていられた。  兄の「ごめんな」という言葉とは裏腹に、嬉しそうにしていた姿が遠い昔のように感じてしまう。恋情が邪魔をして  その言葉が言えなくなってしまってから、まだそんなに日は経っていない。  今は重さを感じずにすらりと出た言葉に、多大な願いを込める。  我慢なんて苦じゃない、だから兄さん、僕の傍に帰ってきて、と。 「……会いたいよ。好きなんだ、兄さん……っ」  アルフォンスの頬を伝い流れゆく雫がスープ皿に吸い込まれ、静かな部屋に小さな水音を響かせるも、時計の鐘の音がそれに被さり打ち消した。  高く鳴る鐘の音は、アルフォンスを更なる絶望へと誘い込んだ。  時計の針は四日目の時を刻み始めている。  テーブルに並べられた料理に、今宵も再び熱が加えられることはなかった。                                                     「恋=愛」H17.12.26

 

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