人の命の上に成り立っている人生に、何度後悔しただろう。 何度、幸せを感じてきただろう? 貴方が側にいるから、罪も倖へとすり替わる。 だから、繋いだ手を離さないで。 神様の前でも、けして。 昼間の街は活気に満ち溢れ、宿の中までそのざわめきは届いている。 客を呼び込む店主のがなり声、女性の楽しげな笑い声、はしゃぐ子供の声……比較的大きな規模のうちに入るこの街には、 どこへ行っても人々の騒がしさに出会えた。これから眠るには少々難をきたすだろうそれらは、昼間の、特に賑う時間帯だから仕方がない。 爛々と輝く太陽の下で、人々は当たり前のように生きている。 僕にはもう、あの暖かい陽射しを肌に浴びた日の事が遠すぎて、思い出せない――そうなった経緯は、昨日の事のように鮮明な記憶として蘇るのに。 その当たり前がどんなに恵まれた事だったのか、こうしてカーテンの隙間から見下ろしていると思い知らされる。 もうじき冬を迎えるこの季節には向かない、薄いシャツ一枚羽織っただけの我が身を抱くようにして長いこと窓辺に立ち尽くしていた。 忘れ去られたぬくもりを思い出すように抱き締めたって、失われた熱は戻ってくるはずがない。 わかっているのに、求めずにはいられなかった。あの明るい太陽のぬくもりを。 「いた……」 ぬくもりを求めるように窓へ顔を近づけたら、久しぶりに浴びた陽の光が目に入り痛んだ。いつもならまだ眠っている時間。 ほんの少し窓から入り込む程度の光も、闇に慣れた自分の目にはひどく眩しすぎた。 それでもカーテンを閉めず陽に照らされた明るい街並みを眺めるのは、再び光溢れるあの場所へ戻れればと、願っての事かもしれない。 闇に徹しきれない自分に、唇を噛んだ。柔らかな肉が裂ける程に強く噛み締める。 求めることすら罪となる、愚かな自分が光をも願うのは傲慢以外のなんでもない。 あの日以降、求める事は禁じてきた。 でも、こうして太陽を見ては条件反射のように求めてしまうのを止められないんだ。 「アル?」 背後から名を呼ばれたと思ったら抱きすくめられた。同時にソープと、それに混じって嗅ぎなれた男の匂いがふんわりと鼻先を掠める。 それは優しい腕に負けず劣らず、僕をそっと包み込んだ。 背中に張り付く、自分よりも大きな身体へ力を抜いてもたれかかる。 「……兄さん」 街路を見下ろしていた視線を上げると、窓に兄さんが映り込んでいた。 僕の後にシャワーを浴びていた兄さんは、上半身裸の首元にタオルを掛けた格好で背後に立っている。 窓越しに目が合うと微笑んで、更に力を込めて抱き締めてきた。 「くすぐったいって」 ついでに頬ずりをしてくる兄さんに苦笑を漏らす。 いつもの僕なら「うっとうしい」と追い払う所だけど、常にない甘えた様子が可愛いく思えて出来ない。 と好き勝手にさせていたら、密着する兄さんの髪が首筋に当たった。 見事な金色をした髪は水分を多分に含んでいて、何とも気持ち悪い。逃げるように首を竦める。 「兄さん……きちんと髪拭いてから出てきてよ」 冷たいんだから……と身じろぎしても、兄さんは離れる気がないのか腕の力を弱めたりはしなかった。 むしろ離れないぞ、という意思表示のごとく回している腕を強める始末。 溜息をひとつ吐いて。仕方がないから、自分の身体に絡みつく腕の中でくるりと方向転換する。 向き合う形になり、斜め45度の角度で兄さんを見上げた。 向き合えば嫌でも子供の身体を持つ自分と、既に大人に達した兄さんとの体格差を見せ付けられる。 しょうがない事だとは言え、鎧の時は自分が見下ろす立場だったので、何となく腑に落ちない気持ちになる。 兄さんが自分よりも大きいというのは、まだ慣れないからだろうか? こっそり悔しく思いながら眉を顰めた僕に、兄さんは年甲斐もなく唇を尖らせてから、今度は前から抱き締めてきた。 「すぐにアルのところに戻りたかったんだよ、悪いか」 「悪くないけど。だからって、おろそかにしちゃ駄目だよ? 風邪引くから」 子供っぽい言葉に笑って、首に掛かっているタオルを手に取った。 「いい歳こいて子供なんだから」と口では文句を言いつつも、髪を拭く作業は好きだから内心嬉しかったりする。 形良い頭の上にタオルを置いて、拭こうとした手を突然掴まれた。 「兄さん?」 何事だろうと見上げた兄さんの表情は、さっきまでの和やかな雰囲気が嘘のように真摯で……それでいて、どこか艶っぽさを纏った眼差しをしていた。 金の瞳にゆらめく、密やかな情炎は単なる見間違いか、現実か。 ……先程まで交わしていた行為を思い出させるその瞳に、否応なく身体の奥底が疼いた気がした。 「アル……」 低い囁きが耳を掠めると共に、端正な顔がゆっくりと近づいてくる。見慣れた顔なのに、この一瞬は何度でも見蕩れてしまう。 同じカラーの瞳の中には自分と、背後にある風景と、差し込む陽光が入り込んでいた。 普段よりも煌きが増した視線は、空で存在を主張する太陽に負けず劣らず輝いているように見える。 目が痛い。あまりに眩しくて、光を避けるために目を細めた。 それを合図に、視界に収まる距離だった兄さんは、あっという間にその輪郭がぼやける距離まで近づいてきた。 吐息が肌をくすぐり、形良い唇が僕のそれに触れる――。 「駄目」 直前、手に持っていたタオルで、あと数ミリの距離にあった兄さんの唇を覆った。 キスを妨げられた兄さんは「ぶっ」と変な声を上げた後、恨みがましい視線を僕へと送る。 「……なんでだよ」 「キスだけじゃ止まらないでしょ? 今は髪を拭くのが先」 たった一回の口付けで、兄さんはキス以上も致してしまうだろう事は目に見えている。 既に何度もお互いを求めて抱き合ったのに、まだする体力が残っているらしい兄さんに呆れた。……でも、兄さんのせいばっかにも出来ないんだ。 僕自身も、一度熱い口付けを受けてしまったらなり振り構わず求めてしまうに違いない。 どれだけ身体が疲弊していても、一度熱を灯されれば兄さんに負けず劣らず、満足するまで求めてしまうだろう。 甘い言葉を紡ぐ唇は柔らかく肌に吸い付き、意外と繊細な動きをする指先は的確に熱源を探し当て、僕の理性を ぐちゃぐちゃに攪拌して……何よりも熱い灼熱が身を貫く。甘美で激しい快楽の伴うひとときを生々しく頭に描いてしまい、慌てて頭を振った。 考えるだけでも熱を上げる、そんな身体になったのは他ならぬ兄さんのせいだ。拒めない自分自身にも、罪はあるけれど。 「……」 「……わかったよ、頼む」 文句は受け付けません、と言外に含ませた笑みを無言で向けると、渋々といった様子の兄さんが頭を差し出した。 早速タオルで触れて、柔らかい金髪が傷まないよう、ゆっくりと丁寧に水気を拭っていく。 普段気にしない兄さんに代わり、僕が髪の手入れをする事が多い。こうして髪を拭いたり、髪を梳かしたり――大好きな兄さんの 髪の一本でも大切にしたいという弟の意向は、持ち主である兄さん自身守ったことはない。そういう事には無頓着だった。 カーテンからはまだ、陽光の輝きがある。 窓辺に立つ僕達に、平等に降り注いでいた。 「……アル、さ」 黙って拭かれている兄さんの呟きは、結構真剣に拭いていたものだから、もう少しで聞き逃してしまいそうだった。 「何?」と拭う手を止めずに言葉を促す。 そんな僕の手の動きを、兄の手が留めた。 また? と訝しく思って見やると、柔らかいタオルの向こう、真剣な眼差しにぶつかった。 「どうしたの?」 「……いつになったら俺を取るんだ?」 突拍子もない、というのはこのこと。兄さんの言葉に、一瞬疑問符が頭の中にいっぱい飛んだけど。 すぐにやっぱり兄さんだな……と内心溜息をついた。口付けを避けただけで、こうもあっさりと心の中を見破ってしまうのだ。 本当は、兄の瞳に入り込んでいた光から逃げたということに――背負う罪が光の元で暴かれるのを恐れ、口付けを避けたことに気がつかれた。 「……いつだって兄さんだけだよ」 自分でも驚くくらいに感情の起伏がない声だった。嘘偽りのない本心をただ伝えただけで、タオルを掴む手が震えた。 その些細な震えは、兄さんに疑う余地を与えてしまう。 「んな曖昧な言葉が欲しいんじゃねえ。お前は俺が好きだよな、自惚れじゃないな?」 「勿論、好きに決まってる」 少しの間も空けないで否定したら、兄さんはほっとした表情を見せ、またすぐに表情を引き締めた。 「なら何で迷ってるんだ? 罪と……俺の間で」 ずきり、と心に刺さる言葉。手がタオルから滑り落ち、力なく両脇に垂れる。 一番見られたくなかった心内だった。どんな言いつくろっても、目の前の大切な人を傷つけてしまうから隠していたのに。 罪の重さに押し潰されそうになって……幸せな日々の一瞬でも、錬成されなければ良かったと、一度でも思った事がないと言い切れなかったから。 黙ったまま地面を見つめる僕に向けられていた、兄の眼差しが不意に逸らされる。 オートメイルの手がきつく拳を握るのが見えた。 「俺が練成した事、後悔してるのか?」 ドクン! と心臓が鳴った。それを引き金に、視界が真っ赤に塗りつぶされるような錯覚に陥る。 赤い、赤い波が打ち寄せては浮上するあの時の記憶。 赤い水溜りから這い上がった自分に、まとわりついていたのはただの赤い水じゃない、何十人もの人達の、命の証――血。 自らの意思を持って纏わりついてくる液体に、もがいたって逃げられやしない。 水面に映る恐怖の表情を浮かべた僕に、次々と苦悶の表情を浮かべる人々が重なる。 人殺し、と刻む口元。 生きたかった、と言う瞳。 幸せを掴んでいただろう、掌。 僕達は、失われたモノを取り返しただけ……でも、本当に僕達のした事は、それだけ? 「……ただ僕達は……」 兄さんの言葉を、怖くて否定も肯定も出来なかった。 その事にたいして、兄さんも結論を求めようとしなかったのは、同じ恐怖を感じていたからだろうか。 中途半端な形で言葉を切った僕の頬に、兄さんは包み込むように手の平で触れ、目線を合わせて屈み込む。 「……俺達は平等にあるだろう幸せを求めただけだ」 幸せになりたかっただけ――世界中の誰もが願う事を、僕達も願った。 そのために、罪のない人の命を奪い、賢者の石を作った。けして許される事じゃない、エゴに満ちた僕達の罪。 「錬成されなければ良かった」……なんて贅沢な言い分だろう。今更亡くなった人に対して思ったって、生き返るわけじゃない。 その言葉一つで大切な兄さんの行動も、気持ちも、否定してして傷つけてしまう。 それを兄さんに言わせる なんて、どれだけ自分勝手で醜く愚かか……こんな僕は錬成されて良かった存在? 価値などこの世にあるの? 「その為には必要だったんだ、俺にはアルが必要なんだよ。こうしてまたお前に触れられる幸せに比べたら……」 「人を殺める事も、厭わない」……耳元に落とされた言葉は、ふとすれば甘い囁きと酷似していた。 だが身体に走る痺れよりも早く、胸が引き裂かれてしまいそうな痛みに襲われて、ただ都合の良い勘違いだという事を知る。 優しい兄さんを、また傷つけた。こんなにも僕を思って、欲してくれるかけがいのない存在に……自らを切りつける言葉を、言わせてしまった。 すがるように兄さんの二の腕を掴んだ指が、しなやかな筋肉を覆う皮膚に食い込んでいく。 「ぼく、僕……」 「お前の事は誰よりも判ってるよ、アルフォンス」 だからもういい、と宥める手付きで、頭を撫でる……そんな兄さんが陽光よりも眩しく映った。 天に輝く太陽は僕を抱き締めてくれたりしない、近くにある大切な人が僕にぬくもりをくれる事を忘れていた。 心にある罪ごと包み込んで愛してくれる、きっと神様すら出来ない事を兄さんはやってのける。 「……こうしたら、見えないだろ?」 しばらく頭を撫でながら無言だった兄さんが、ぽつりと呟いた。 見上げると、タオルを深く被った顔が近づけられていた。その目の中にはもう、風景も陽光もない。 金の瞳には、ただ泣きそうな自分自身の顔があった。 うっすらと笑う兄さんに、頷いて目を閉じる。冷めた唇が触れた。 どんなに心が罪悪に囚われようとも、それの甘さは初めて口付けた時から変わらなかった。 いや、だからこそ甘く感じるのかもしれない。現実から目を逸らしたい、そう強く思うほど甘さが増す。 優しく抱き締めてくる腕にならい、僕も首元に腕を回した。深くなる口付けは、酒に酔った時の感覚に似ている。 互いの存在を身体で感じ欲に溺れれば、強制的に世界とのつながりを遮断させて、ただ兄さんがいるだけの世界になった。 肉体を手に入れた悦びを実感し、愛する人の重みを受け止める……罪から逃げる瞬間は、確かな幸せを感じる瞬間でもあった。 いつになったら、俺を取る? 後悔しているのか? 兄さんの言葉が繰り返し繰り返し頭に響くも、もう考える余裕などなかった。 今の自分に出来るのは、目の前の温かい存在にしがみ付き、熱を貪るだけだ。 もう、太陽なんていらない。 この手に掴めるぬくもりがあれば。 闇に紛れての行動には慣れていた。 秘密の練成をした日から人の目を避ける為、夜に行動し、昼には太陽の光から逃げるように眠る。 もう何度も繰り返してきた日々に辛いなどと思わなくなっていた。僕達にとって夜ほど安らげる時間はなかった。 夜の闇は罪を暴こうとせず、包み込んで覆い隠してくれる優しい腕のようだったから。 いつもより濃厚な闇が広がる月のない今宵。なんの気配すらも感じられない深夜、辺りは恐ろしく静かだった。 黙って歩く兄さんの背中をついていく僕の頬に、ポツリと冷たい雫が当たった。 「ん?」 「何だ?」 僕の声に兄さんが振り向いた。それを合図に雫が頬だけでなく、色んな場所に落ちてきた――雨だ。 さっきまでの静けさが嘘みたいに、ざああっと急に降りだした雨脚は強く激しい音を立てる。容赦ない水の猛攻が、地面を、僕達を打ち付けた。 顔を見合わせてから頷き、駆け出す。どこかに雨宿りが出来る場所があればいい。 暗闇の中、雨の音と二人の足音が響く。ばしゃばしゃと地に溜まり始めた水を蹴って、ひたすらに走った。 「あの建物に入るか!」 先を行く兄さんの指を指す方向へと視線を向けると、闇の中にぼんやりと白く浮かび上がる十字を掲げた大きな建物――教会が目に入った。 走っているからだけでない、嫌な鼓動が胸を打つ。 行きたくない……行く事を拒みつつも、止まらない足はあっという間に教会へと辿りついた。 一足先に扉で待つ兄の元へ駆けていけば、微妙な面持ちをして立っていた。兄さんも教会へ入る事を躊躇っているのかもしれない。 元から神とは無縁に生きてきた僕達は、昔からあまり教会に足を運ぶことはなかった。 錬成後は無意識に避けていたこともあって、生身で訪れるのは初めてだ。 綺麗な白壁だっただろう外観もくすみ所々崩れている。とても信仰を捧げられる場所には見えないが、もう長いこと誰も訪れていない寂れた雰囲気があった。 「……ここでいいか?」 こうしている間にも、大粒の雨は僕達を濡らしては芯を冷やしていく。 こういう生活をしている僕達だから特に体調には気を遣う……仕方がなかった。 こくりと頷けば、兄さんは木彫り細工の美しいドアへと手をかけた。軋んだ音を立てながらがゆっくりとドアが開き、兄さんに続いてするりと身を忍ばせた。 埃臭さが鼻をつく。外から見た通り、本当に誰も訪れていないようだった。 そのわりに、中の空気は清純な気がした。通路の中央、入り口から真正面に向かって伸びる赤絨毯の先には、神様をモチーフにした石膏の像がある。 暗闇でもどこか輝いて見えるそれに、朽ちてなおこの教会にはまだ神の存在がある事を知った。 その背後には見事なステンドグラスがあった。闇一色に染まるこの教会、唯一の色彩。 昔ならステンドグラスを綺麗だと、無邪気に言ってのけただろう。だが、今の自分達には、眩しすぎて……苦しい。 教会全体が、自分達を拒んでいるような気さえしてくる。 この空間に怖気づいた僕の足は、ドアの前から一歩も動こうとしない。 「……少しの間だ、止んだらすぐに出る」 立ち尽くす僕に気付いた兄さんは、手を掴んで入り口近くの席へと促された。 ゆっくりと、重たい足を引きずって誘われるままに腰を下ろす。……一番神像から遠い場所だった。 肩を並べて座る長椅子に、黙って腰掛けていた。ここの空気に呑まれていると、遠くに聞こえる雨音すらも現実が失われていく。 別世界に切り取られたような、自分の存在が曖昧になっていく錯覚にとらわれた。急に恐怖が湧き上がり、咄嗟に隣に座る兄さんの手を握る。 僕の震えが指先から伝わったのか、僕の力以上にぎゅっと握ってくれる兄さんの力強さにほっとした。 でも、居難いのは変わらない。静謐な空間はどこまでも澄んで、静かに苛む。 罪を犯した自分達には、ふさわしくない場所。 「俺は後悔していないからな」 どれくらい雨の音と、互いの呼吸音を聞いていたのか。 しばらく黙って座していた兄の言葉が教会内に響いた。それはいつかの昼間に投げかけられた言葉。 自分よりも高い位置にある肩にもたれて、口を開く。 「……僕はこれから何度も後悔すると思う」 この前は否定も肯定も出来なかったのに、今は躊躇うことなく口にできた。 頬を押し付けている肩がかすかに震えた。 「でも、後悔のぶんだけ何度も幸せを感じてるんだ……その事には、後悔してないつもりだよ」 自分達は禁断の術で、人の命を代価にして練成を行った。 ひっそりと、成功してからは誰にも知られない所で、二人で生きてきた。幼馴染にも話さずに、日の下を避けて生きた。 それがお互いを手に入れた、十分に足ないだろう代価の生き方。足がつかないよう入念に証拠を消したが、いつ感付かれるか判らない。 いつこの時間が終焉を迎えるか判らない。永遠などない刹那の時を過ごし、一つの所に留まることなく旅を続けている。 何十人もの命を費やして出来た幸せに、罪悪感は勿論ある。 押し潰されて、消えてなくなった方が良いとも思う。世界から見たら、僕達は罪悪の印を押されるだろう。 でも、その中には一握りの幸せがある。それだけで生きていけた。 一人じゃない、何もかも分かち合える、お互いの存在があるから。 「神様なんていなければいいのにね」 呟いた僕の真正面には、神様がいる。神の前では、その一握りの幸せさえも罪の証。 不意に、肩に預けていた頭をそっと押しどけられた。 どうしたの? と問う前に、兄さんは立ち上がって歩き出していた。 「……お前を縛り付けているのは、あれなんだな」 「兄さん?」 赤い絨毯を辿り、行き着いた場所はステンドグラスの輝きに縁取られた神像。僅かに明るい周辺が、闇から浮いて見える。 神々しい彼の像を前にしても引けを取らない兄さんの姿は美しく、雄雄しい存在に映った。 「俺達がしてきた事はけして許されることじゃねえ。それを正当化するつもりもないが、俺達はただ取り戻したかった。 ……忘れずに、生きていく。罪を背負ってな」 パン、と両手を叩く音が静謐な空間を破る。 一瞬広がった閃光の中、一本の刃が現れた。錬金術によって、オートメイルの腕が鋭い刃と化していた。 「慈悲だなんだ抜かすヤツが何で禁忌を作って、人間の愛を否定する? 偶像の神を崇めるんなら、俺は迷わず確かなぬくもりを取る。 生半可な気持ちで錬成したんじゃないんだ」 振り返った兄さんが、座っている僕へと笑いかけた。 この一瞬で、覚悟が決まった。 僕には兄さんだけがいればいい。世界なんていらない、と。 「お前を手に入れるためなら、神殺しくらいやってやるよ」 はっ! と短く息を吐いた兄さんは、一気に像との間を詰めて、右腕の刃を石膏の腹をめがけて打ち付けた。 刃と像のぶつかる甲高い音が響いて、次いでごとっという重たい音が地をかすかに揺らした。 砕け散る像の粉塵が、埃と一緒に舞った。 「兄……さん」 神様を殺した――怖い、なんて思わなかった。僕の胸を占めたのは悦び、だった。 呆然としながらおぼつかない足取りで、兄さんの元まで歩いた。 うっすらと輝く虹色の光の下、足元には無残にも胴体と切り離された上半身が転がっていた。 何も映さない石の瞳が、僕達を哀れむように見つめている気がした。 「錬成しようと決めた時に、全てを背負おうと決めたんだ。今更、神なんか気にするな」 伸びてきた腕が、そっと抱き寄せる。神を殺した腕の中は、変わらずに温かだった。 冷たい感触しか伝わらない像よりも、何よりも大切な存在。 そう、あの時確かに決めたのだ。 赤い輝きに照らされながら、兄さんと鎧の自分が最後に交わした口付け。 無条件に手にしていた「幸せ」を放棄すると、それらを記憶の中に沈めてこれからは罪人として、二人で生きていこうと。 「もう遅いんだ、アル」 そう、全てはもう遅い。 錬成をした時から――神から背いた兄弟が、今更神を殺したって知れたことだ。 罪が一つ二つ増えた所で、大罪を背負うのは変わりない。 罪悪の匂い漂う幸せが、今の僕らの生きる糧。 常に寄り添う罪悪感に押し潰されようと、兄さんが傍にいれば背負って生きていける。 例えそれのもたらす終焉が、どれだけ苦しいものになろうともけして後悔はしない。僕達は罪を犯したんだ、何でも受け入れる。 見詰め合う距離を埋めるように、兄さんへと口付けた。もう迷わない、決心を込めた口付けは甘い罪の始まり。 確かなものにしたくて、深い口付けを求めた。 兄さんが側にいるから、怖くない、そう伝えられればと思う。 求めに応じた、自分よりも少し大きな唇に翻弄される。うっすら開いた目に、無残な姿となった神様の瞳が映った。 誓いのキスを半分になった神様の前で交わし、禁忌を犯す。 言いようのない高揚感が、一層口付けを深く熱いものにしていった。 「神様なんて怖くない」 息継ぎの合間に呟いた唇は、またすぐに塞がれる。 止まらない口付けに震える手で兄のそれに触れ、震えを消すかのように力強く握った。 「ああ」 まだ続いている雨の音はもう、遥か遠く。 ステンドグラスを通して差し込む虹色の光が、僕達と床に転がった像を照らしていた。 石膏の眼はどこか哀れむように僕達を見ている。 断罪を、尊い愛を問う役目を終えたも同然の神は、ただの石と化していた。 罪を糾弾する神の存在はもういない。 僕達が殺したんだから。 大いなる存在の庇護下を離れた僕達は、もう太陽の光すら当たらぬ所まで堕ちた。 清い手を離れて自らの足で歩き出す――この先の道には、僕達だけがいれば十分だ。 かすかに響いた世界の壊れた音に、僕は気がつかないフリをした。 お題SS「神様なんて怖くない!」H17.10.02