僕は君のための僕





 音を極力立てないように気をつけながらドアを開いて、静かに部屋へ入る。  カーテンの隙間から漏れる白銀の光に、はじめて今晩は月夜だということを知った。  薄暗闇の中、ベッドには一人分の山が出来ている。穏やかに上下する胸を見て、ほっと胸を撫で下ろした。  アルフォンスが一人で眠れるようになったのはつい最近の事だ。  長き鎧時代を経て元の身体に戻る事が出来たアルは、酷く闇を怖がるようになっていた。  夜を越え朝を迎えれば、自分はまた鎧に戻っているんじゃないか、と確かな錬金術を一晩で解けてしまう儚い魔法だと思うほどに。  ――眠る事に対して、恐怖していた。  練成から二日目の晩、俺の部屋の入り口でアルは立ち尽くしていた。  ただでさえ大きな瞳をめいっぱい開き唇を噛んでいた弟はけして泣き叫ぶような真似はしなかった。  優しいアルの事だから、練成した俺を気遣ったのだろう。「怖い」その一言が、俺を傷つけてしまうかもしれないと思ったからだろうか。  涙で滲む金色の瞳を黙ってこちらに向けているアルは、身じろぎすらしない。……いや、それは俺の見間違いだった。  アルの細い肩は小刻みに震え、その様子が月光の前に曝け出されていた。白い光に照らされたアルの、光よりも白い頬が、痛々しく見えた。  腕を伸ばしてこちらに来るように合図すれば、すぐに小さな身体は飛び込んできた。  けして広くはない腕で必至に俺にしがみ付き、胸に顔を押し付けてくる。――元に戻って初めての抱擁だった。  思った以上に子供の身体は小さく、柔らかで。大人の域を超えた自分の腕で抱えてもあり余る、力を入れれば壊れてしまいそうな儚い存在だと思った。  そこでようやく、アルの感じている恐怖を理解した。  今晩、抱き締めた身体が翌朝には固い冷たい鎧になっていたら。  眠りについたまま、どこかのおとぎ話のように眠りから覚めなくなってしまったら。  アルがいなくなる……もう、たくさんだった。  だがそれ以上に、今日いた自分が明日にはいなくなる……アルの感じている恐怖は、計り知れない。 「アル、一緒に寝るか」  声が震えてしまいそうになるのを堪えて、何でもないように声をかけた。  こくりと頷いたのを確認して、自らのベッドへ招き入れる。二つの身体を受け止めたベッドは盛大に軋むも、十分な広さで苦に思うことも無かった。  シーツの中でも俺は腕を外すことをせずに片方をアルの頭の下へ、もう片方でアルを引き寄せた。明日には腕枕をしている腕が  痺れているんだろうな、とうっすら考えたがすぐに思考の中から消える。このぬくもりを手放せ、というこ とよりも耐えられる事だ。 「寒く、ないか?」  まだ寒い時期が訪れるには早かったが、アルは生まれたばかりの身体で、俺と違うものを感じている可能性もある。  ……きちんと、機能しているのかも気になった。 「……大丈夫」  いまだ胸に張り付いたままだったアルが腕の中でもそもそと答えて、ゆっくりと顔を上げた。  暗闇に溶け込んでしまいそうな白い頬が、闇に慣れた目には赤く染まっているように見えた。  上目に伺うアルの瞳に見つめられて、知らず胸が鳴った。 「ごめんね。いきなり来た上に、一緒に寝ちゃって」 「構わないさ」  腕枕をしている腕を曲げて、そっとアルの頭を撫でる。蜂蜜色した柔らかな髪を指に絡めてかき混ぜれば、くすぐったそうに笑った。  間近で見たアルの笑顔はあの頃のままで懐かしく思う。求めていた存在がすぐ側にある、これ以上の幸せはここ数年、本当に久しい。  ようやく辿り着く事が出来た安穏の生活。それまでの道程はとても長かった。 「ありがとう。身体は十歳だけど、僕は兄さんと一つしか変わらないから結構いい歳なんだよね……  大の男がまだ兄さんと寝てるなんて、情けないね」  恥ずかしそうに伏せた瞼を彩る金の睫が、丸いラインを描く頬に影を作る。  その頬に更に朱が散って、なんとも言えない色彩に目を奪われた。 「……なら、俺のが情けないって事になるな」  自嘲するような響きに、アルが再び瞼を押し上げてそんな俺を不思議そうな瞳の中に閉じ込める。  囚われた俺の顔は、どこか嬉しそうな表情をしていた。 「アルと一緒にベッド入ったら、思いのほか気持ちよくてもう一人で眠れなくなりそうだからな」  ニヤッと茶目っ気を利かせて言った言葉で吹いたアルに、ちょっと後悔した。  兄の威厳無しというか、少々台詞が幼なかったというか。せめてアルの前では格好いい兄貴でいたいっていう変なプライドに、確実にひびがいった。 「僕もね、こうやって人の体温を感じて横になるの、気持ちいいなって思った。出来るなら、もっと一緒に寝たいって」  俺を映していた瞳の輪郭が急にぼやける。アルは涙を流していた。  あっという間に溢れ出した涙が頬を伝い、剥き出しの腕に零れ落ちて皮膚を濡らす。 「怖いんだ。眠るなんて久しぶりだし、眠ったまま起きなかったら……とかっ、今はこうして兄さんの体温を感じられるけど、  朝になれば体温を感じられない身体になっていたらって考えて、眠れなくなる……!」 「アルっ」   アルの悲痛な言葉に胸が詰まった。もうこれ以上言わせて、アルに涙を流させたくなかった。  衝動的にぎゅっと抱き締めた腕の力加減なんてあってないようなもので、それでも何も言わずしがみ付いてきた身体を一層強く引き寄せる。  胸に押し付けているためにくぐもった嗚咽を漏らし、声を上げずに泣き続けた。  アルは最初の晩をどんな思いで過ごしていたんだろう。真っ暗な室内で、腕の中で吐露したような気持ちを持って、  一人ベッドに潜りこんでいたのだろうか。叫びそうになる自分を叱咤して、小さい唇をかみ締めて堪えて……過ごしていたんだろうか?  自分の愚かさに吐き気がした。すぐにでも判るようなことじゃないか、長年連れ添った、誰よりも大切な弟の事なのに。  弟の胸に潜んでいた不安の存在に、気がついてやれなかった。「一人で寝られるか?」と冗談めかした最初の晩、  「大丈夫だから」と言ったアルの笑顔に、俺は甘えてしまったんだ――。 「アル、気がついてやれなくてごめん。誰よりも側にいた俺が気がつけなかった……」 「兄、さん?」  涙声交じりに名を呼ぶアルの柔らかな頬に触れ、そっと持ち上げる。  片手に収まる小さな顔は涙に濡れて、目の前でまた一筋の涙が流れていった。 「アルの顔が見られて嬉しくて、そればっかり考えて、肝心のアルの不安に気がつけなかった。本当にごめん……」  謝罪を口にした唇で、アルの濡れた眦に口付けた。驚いたのかぴくりと動いた身体を抱き締めて、残っていた雫を吸えば口内に涙の味が広がった。  そのままスライドさせた唇で、もう片方の眦も同じように吸い上げる。  目を閉じてされるがままのアルの身体がゆっくりと弛緩していき、その表情も幾分落ち着きを取り戻していた。 「……兄さんは悪くないよ。こうして抱き締めてくれる、それだけで僕は幸せ。また兄さんを感じさせてくれてありがとう」  笑んだ瞳から、またぽろりと落ちた涙の雫が新たに頬を辿っていく。これが最後の涙だった。  頬に触れている俺の手に小さな掌を置き、あやすようにぽんぽんと軽く叩かれて、どっちが兄なんだかと内心笑ってしまった。  アルの言葉や笑顔にどれだけ救われただろう。  アルは自分の痛みを抱えながらもなお、他人の痛みを感じて一緒に背負おうとしてくれる。  もうアルにばかり背負わせるわけにはいかない、これからは俺が支え守って生きていく。  たった二人の、大切な大切な兄弟なんだ。 「ありがとうアルフォンス、これからは俺がお前を守るから」 「僕だって。あったかい腕で兄さんに触る事が出来るしね」  涙の軌跡をそのまま頬に残し笑ったアルの笑顔は、何よりも綺麗で、どくんと大きく胸が高鳴った。  一気に溢れ出る愛しさが何に起因しているか、など考える暇もなかった。  そこからは何も考えられずに、込み上げる気持ちに従う身体の動きを止めることもしないで、顔を寄せていった。  ただ、小さな唇に己のそれが重なるのはどんな感じなんだろうかと、近くなる距離のあいだに漠然と考えた――が。 「ぶっ」  唇に当たったのは、柔らかいには柔らかいが想像よりは固い、アルの掌だった。  アルの手では俺の顔なんて覆えるはずも無く、細い指から覗くアルの表情は綺麗な笑顔を形作ったまま。 「兄さん」  少年特有の高い声で名を呼ばれて、自分の仕出かした行動にはたと気がついた。 「おわっ、すまんアルっ……ぐえっ」  頬に熱が集るのを感じながら、慌てて引こうとした俺の頬をがっしりと小さな両手で押さえられて、情けない声を上げてしまった。  そんな俺を笑い飛ばすでもなく、アルは真っ赤な顔でこちらを見ている。 「嫌なわけじゃないんだ」 「え?」  それは、今俺がしでかそうとした事が、か?  今まで感じていたような、懐かしく思う感情がゆらりと心の中で揺れた。  胸を甘く響かせて、無性に愛しさが募る――今まで知らなかったはずなのに、しっくりくる、ふいに湧いてでた感情はなんて名前だったか。 「僕は兄さんの事を大切に思ってるけど、兄さんは?」  頬を撫でる指先が唇の上を、言葉を求めるようにして辿っていく。  挑発的ともとれる指先の戯れを裏切る、不安に翳る瞳がアルの本気を示していた。   判りきった事を聞くなぁ、と苦笑するのは簡単だ。でも時に、言葉が足りないが為にコミュニケーションが疎かになることもある。  わかっていたとしても言葉にしなきゃ、不安で押し潰されそうな時だってあるのだ。 「俺もアルフォンスが大切だ。昔も今もこれから先もそれは変わらない。大切なんだ」 「良かった。兄さん、大好き」  嬉しそうに笑うアルの力を緩めた掌を、今度はこちらから包み込むように触れた。  ゆっくりと顔を寄せれば、軽く見開いた目がすぐに閉じられる。  僅かに開いた唇は小さな赤い花のようで、触れれば柔らかそうなイメージをかきたてる。  もう、二人の間を隔てるものはない。スムーズに重なった唇は思った以上に柔らかくて温かだった。  これがどういう行為か、勿論知っている。でも、今その口付けにはそういう概念なんてなかった。  ただお互いが大切で、その口付けに違和感はまったくなかった。何故かしっくりきて、すぐに馴染んだ体温におぼれてしまいそうになる。  胸にざわめく感情は不快なものじゃない。  それに従えばきっとこの口付けはもっと甘さが増すんだろうな、と確信めいた予感を感じていた。  まだこの感情の名前は知らない。  だが二人には違和感のない事で、そんな二人の距離を表すのにぴったりな行為だと思った。  少し前の自分にはなかった、いや、確かにあったけど気がつかなかった想いは、お前が気付かせてくれたんだ。  俺はもう、アルフォンスを兄弟以上の感情で見ている。 「アル」  そっと呟き、ベッドへ腰を下ろしても起きる気配はない。  一人で眠るようになってから、こうして毎晩様子を見に来るのが日課になっていた。  最初の頃はどんなに気配を消しても、眠りが浅いのか眠れなかったのか、すぐに気がついた。  それがここ最近は音を立てても起きないくらい、熟睡できるようになっていた。少しくらい触れても、だ。  練成したての頃に比べたらアルの不安が薄れてきて良い傾向だが、ちょっぴり寂しく思ってしまう。  一緒に眠った、あのぬくもりに慣れてしまったようで、今度は自分がすぐには眠れなくなってしまっていた。  さすがになければ眠れない! というわけではないが、もう少し一緒に寝たかった、というのはワガママだろうか。  まぁ、一人で眠るようになったアルへ本音を隠して「おやすみ」と言うのも、慣れたしいいか……なんて考えて声を立てずに笑った。  これが世に言うブラコンというヤツ、か? 「アル、いい夢見てるか?」  穏やかな寝息を立てるその頬を撫でる。その感触に身じろぎしながらも、起きる気配はない。  良い夢を見ているのか、たまに緩む口元に笑顔を誘われる。閉じられた瞼に口付けて、おやすみと囁いた。  視線が瞼から下降していき一箇所に止まる――唇、だ。  俺達はよっぽどの事がない限りは、昔から隠し事なんてしていない。でも俺にはアルに言えない一つの秘密がある。  顔を近づけても起きないのは自分的に本当に幸いだった。  この胸に潜むアルへの想いの裏に気がついてからは……卑怯だと知りつつも、忘れられないあの晩の口付けを、眠るアルに求めていた。  気がつかなかった想いに気がついて、それがどんな名前かはもう知っている。  昔からずっと心にあって知っていたはずなのに、芽を出したばかりのその想いは、もう引き返せない深い所まで根を広げている。 「俺さ、お前が好きみたいなんだ」  一世一代の告白も寝ているアルには届かない。  聞いて欲しいけれど、まだ勇気が持てず口に出来ない……そんなジレンマには当分悩まされるのだろう。 「明日もアルにとって幸せでありますように、ってか」  どこにいるかも判らない神に祈るわけではないが、言わずにはいられない。  そうしないとこの口付けの大義名分=言い訳が出来やしない。起きてもいいようにワザと、少し大きめに囁いて。  小さな唇に己のそれを近づけて、重ねる。幸せを願いながらも、自身の少々の欲望を混ぜた口付けは、複雑に絡み合いながらも甘く柔らかだった。 「もう少しだけ卑怯な兄貴でいさせてくれ。必ず伝えると約束する。俺がお前の事を大切に思う気持ちは変わらないんだ。   幸せを願うのは兄弟や恋やらで変わらないからさ……」  僕は君のための僕だから――大切なお前の為なら、喜んで幸せの犠牲になってやる。  だからアルフォンス。兄貴の顔だけでなく、たまには男としての顔もさせてくれよな。  報酬は甘くて柔らかな、一方的なキス。今はただ、それだけでいい。                                           お題SS「僕は君のための僕」H17.9.11

 

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