恋人





 暗闇の中、抱き締めてくれた腕は暖かい。  初めて愛した人の腕の中で愛を囁き受け止める幸せを知る。  この部屋は神すらも見ることが出来ない、二人だけの秘密。 「兄さん、今晩……するんだよね?」  前をゆく兄さんの背中に問いかけた声は震えていた。薄いパジャマ越しの心臓がバクバクとうるさい。  宥めるように当てた掌から伝わる鼓動が、血の繋がった兄弟なのに、と警鐘を鳴らしているような気さえしてくる。  僕たちは兄弟だ。それが世に生れ落ちた時からの決まりごと。決定的な血の繋がりは幾度年を重ねても消えることはない、一生変わらない繋がりだ。  廊下に二人分の足音が響く。  歩幅の違う僕たちの間には、手を伸ばしても触れられない距離が空いていた。 「……お前はどうしたいんだ?」  こちらを向くことなく、兄さんは問い返してきた。  問われて、自分の口を覆った。聞いてはいけない問いをした事に気が付いて、小さく「ごめん」と謝った。  この「世界」では、僕たちは兄妹でいなければならない。こんな会話をしていいはずがないのだ。  黙ってついていく僕の頭を、足を止めた兄さんがぽんぽんと撫でてくれた。  見上げた表情はどこか寂しげで苦しげでもあって、声をかけるタイミングを失い僕たちは無言で先を急いだ。  月のない真っ暗な夜。この前、ここを二人で歩いた時もこんな静かな夜だった。  廊下の奥にある扉が近づいてくる、ごく普通の木製の扉の向こうは物置として使っている部屋だ。  特に高価なモノがしまってあるわけではないけれど、鍵がついている。  普段閉じられたままのその部屋は真っ暗な闇夜、新月の晩にのみこうして二人で向かい扉を開く。  ――世の理を忘れ、心のまま愛に溺れるために。  部屋の前で立ち止まった兄さんが、ちらりと僕を見た。軽く頷いて、パジャマのポケットから鍵を取り出す。  銀色の小さな鍵は光のない廊下でも鈍く輝いて見えるのは、この世の中に一つだけある僕たちの希望、だからだろうか。 「おい、アルフォンス」  少々の苛立ちを含んだ声に押されて手の上にある鍵を慌てて渡すと、兄さんは慣れた動作で素早く鍵穴へと差し込んだ。  開錠を示す音が密やかに響き、この世界とさよならする瞬間が訪れる。  ゆっくりと開かれる扉の先は、廊下以上に真っ暗だった。 「入れ」  「うん」  兄さんに促され先に室内へ進む。  窓もランプなどの光源も一切ない部屋は真っ暗で四方の壁すらも見えず、どこまでも広い闇の中にいるような錯覚を起こす。  躓くことのないよう慎重に足を踏み入れていく背後で、ドアの閉まる音がした。 「アルフォンス」  自分を呼ぶ声と同時に、腕が身体に絡みつく。  ぎゅっと力を込めて抱き締められ背に温かな熱を感じる。 「兄……さん……」  体重をかけて凭れかかっても揺るがない力強い腕に安堵の吐息を漏らすと、目を閉じた。  この闇の中には二人以外の存在はない。神すら知らない秘密の部屋。  二人で決めた、神はいないのだと信じたい唯一つの場所だ。  僕がこの世で愛した人は、同じ男である血の繋がった兄だった。世界中で探してもきっと兄さん以上の人はいない。  求めてやまない存在は兄さんだけ。兄さんも、同じ気持ちでいてくれた。  僕たちは兄弟という絆に縛られている以上、一人の人間として愛し受け止めることは許されない存在だ。  身も心も欲しているのに、僕達はただ互いに見ていることしか出来なかった。  でも感情を押し殺すなど、長く続くはずはなくて。  すぐ側にいる人を抱き締めることすら出来ない状況に耐え切れず、僕達はこの秘密の部屋を作った。  世の理を扉一枚で否定し、愛を肯定する場所として。一歩部屋に足を踏み入れれば、外の人と同じように人を愛し愛されることが出来るように、と。  まるで子供のような理論だなと微笑んだ兄さんの笑顔は、まだ鮮やかな記憶として残っている。  そう、本当に子供じみた馬鹿な話だ。笑ってしまうほどに、滑稽で愚かな行動。  けれど僕達には必要だった。気持ちを押し隠して兄弟を続けることに、幾度も気が狂ってしまいそうになるほどにもう、限界だったから。  ここには神様がいないんだと真っ暗闇の中で無邪気に笑って身体を寄せ合い、初めて互いの暖かさを知った。  外の世界で恋人達が堂々と手を繋いだり抱き合ったりしている姿を、常日頃羨ましいと思っていた僕に気が付いていたのか、  憧れていた行動を実践しては、純情な恋人同士のように照れ合って。時に熱情をぶつけ合い、濃厚な快楽を共有した。  二人しか知らない、神様すら見えないこの部屋で、愛を交わし戯れる度に疑問に思う。  人に満遍なく与えられる愛するという行為を、何故僕達には許されないのかと。   僕は兄弟という繋がりを恨んだ。でも血の繋がりがなければ、兄さんと出会わなかったかもしれない。  せめぎ合う感情は互いに譲り合うことはなく、複雑な螺旋を描いて胸に居座っている。  きっとこれから先も変わらないのだろう――兄弟なのだから。   「神様に見られたら、天罰が下るな」  冗談じみた言葉に僕は何も無言でただ何度も頷いていた。心地よい熱に包まれて僕の中にある複雑な感情が溶けて、  残ったのは兄さんに対する愛情だけ。この部屋では許された感情。  背後を振り返り暗闇にも煌いて見える金の瞳を見上げ、一言一言に愛をこめるように囁く。 「……愛してる」 「俺も。この世界でお前だけが欲しくてたまらない」  熱っぽい声と共に近づいてきた顔に瞼を閉じて、少しでも早く触れたいと自らも兄さんを迎えにいくように顔を寄せて。  すぐに重なった柔らかな唇は熱く蕩けそうなほどに甘く、夢中になって貪るのも時間の問題だった。  新月の日にだけ開かれる扉の向こうは二人の秘密、神様のいない唯一の場所。  闇に吐息を溶かして何度も囁き合う。 「愛してる」  声が枯れるまで、ずっと。                                                                    エドアルお題SS「恋人」H20.1.29

 

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