秘密





 何気ない視線が気になった。  何気ない触れ合いに、胸が高鳴った。  何気ない「好き」が、どうしょうもない気持ちに拍車をかける。  こんな僕を、あなたはどう思うだろう? 「好きだ」  隣で交わされていた会話の何気ないその言葉が、僕の意識を一瞬にして彼――兄さんの所へと攫ってゆく。  手にしている書類の表面に押された「重要」という印の内容が、一切頭に入らなくなってしまった。  「重要なんだ」と、ロイ・マスタング准将から直々に書類を手渡されるほど、けして短いとは言えない時間を軍で過ごして来たけれど。  いまだに馴染まない軍服の裾を握り、集中を切らした自分をこっそりと戒める。 「アル、もう読んだのか?」  ちょっと耳、良すぎるんじゃない?   突然声を掛けられ、書類を持つ手に力が入る。裾を握った際に立った微かな衣擦れの音をキャッチした耳には感服するしかない。  流石将来有望なエドワード・エルリック大尉、と言うべきか。  仕方なく書類から視界を上げて兄さんを見ると、思いのほか鋭い視線が向けられていた。  金色の瞳だけでなく表情も不機嫌めいて見えるのは、これが兄さんの職場での顔だからだ。 「……申し訳ありません。大尉、もうしばらく時間を下さい」  両手を身体の横に添え腰を折れば、頭と視線は自然と落ちる。  上質なものと一目で分かる真紅の絨毯は普段自分のいる職場の床とは違い、どこまでも兄さんとの距離や立場の違いを見せつけられる。  ……ああ、こうやって上下の立場を弁える為に、床も立派なものにしているのかもしれない。 「頭を上げなさいアルフォンス。急ぎではないんでな、ゆっくり読みたまえ」 「なんでアンタが話すんだ。……ほら、頭上げろよ」  忌々しそうにマスタング准将へ舌打ちをした兄さんの、幾分和らいだ声が頭上に落とされる。  肩に触れた大きな掌に促されるがまま、頭を上げれば。 「……大尉」  昨晩読んだ、錬金術の本一冊分程度の距離、だろうか?   バクバクする心臓とは裏腹に、しょうもない事を考えるあたり意外と思考は冷静だった。  思ったよりすぐ側にある整った顔は見慣れているのに、心臓は毎回同じように慌しく鼓動を打った。  大尉、とあまり慣れない呼び名をのせた声が平坦で済んだのは幸いだった。  掌から伝わる自分とは違う熱が更に鼓動に鞭打って、近くにいる兄さんに聞こえてしまいそうに煩い。  静まれと思えば思う程、鼓動は早く頬が熱くなってゆく。 「アル、別に大尉と呼ばなくてもいいんだぜ? ここには俺と無能しかいねえし」 「……無のっ?!」  覗き込んでくる瞳にどこか複雑な色を滲ませながら、兄さんは本一冊分だった距離をずいっと縮めてきた。  その兄さんの背後で「無能」と呼ばれたマスタング准将は傷付いた表情で、その場にしゃがみ込んだ。  失礼だよ、といつもなら窘める所だけど、今は自分の事で精一杯。  早く兄さんから離れなければ、おかしい自分に気付かれてしまう。  恋する顔を晒したらきっと、言葉より雄弁に気持ちを語ってしまうだろうから――ちらりと書類に目を走らせて。 「ありがとうございます、大尉」 「大尉」とワザと強調しニコリと微笑んで、手にしていた書類を宙に放った。  数枚の紙が舞う合間に、兄さんのどこか傷付いているような表情が見え隠れしていたけど、見ない振りをした。  急な行動で呆気に取られ立ち尽くしているうちに、兄さんとの間に距離を作って准将に目配せをした。  これだけで、若い身でありながら准将の立場に着いた彼には僕の意図が伝わるだろう。 「ああ」  思った通り、咄嗟のお願いに驚く事なくマスタング准将はいじけた姿勢のまま返事と同時に指を鳴らした。  ひらひらと下降を始めた紙が空中で赤い炎を纏い、勢いよく燃え上がる。  揺らめく炎は生き物のように書類に絡みついては絨毯に灰をも残さず消えていった。 「……燃やして良かったのかな?」 「はい、もう読みましたから。非礼をお詫びすると共に感謝します」   はるかに下っ端である僕のお願いに眉を顰める事なく、穏やかな笑顔を浮かべる准将に頭を下げた。 「アル……」 「それでは失礼致します、准将、大尉」  本日何回目かの敬礼のポーズを取って、ドアへと足を向けた。兄さんの声を遮り、言葉を挟む余地を与えないよう力強く地を蹴ってドアへ向かう。  上質な絨毯は革靴の衝撃に派手な音を立てる事無く、柔らかく受け止めてくれた。  去り際、一瞬目にした兄さんの寂しそうな表情は、一日中視界をチラついて消えなかった。  ……そんな顔をさせたいわけじゃないのに。後悔ばかりが胸を寄せる。 「遅い」  これでも一応、仕事が終わってからすぐ帰宅したんですけど。  そう言いたい口を必死に噛み締めて、怖い表情を浮かべる兄さんをまっすぐ見つめた。  ドアを開いた途端兄さんにぶつかり、後方へと倒れそうになった身体をどうにか左足で支えたから、尻餅をつく事は免れたけど。  驚かすなよ! と文句をぶつけようとしたら怖い顔のオプション付きで「遅い」と言われ、文句もぐうも言 えなくなった。  続けようとした言い訳だって、噛み締めるしかない。  ドアノブを握り見下ろす兄さんと、それを見上げる僕。交差する眼差しの応酬はしばらく続いた。  二十四時間の内、見つめ合っていたのはたった数十秒という時間なのに重く、拷問に等しい。  言葉も、視線も逸らすことを許さない態度にどう切り抜けようかと、沈みかけた夕日に照らされつつ途方にくれるしかなかったが。  拷問のような時間を破ったのは作り出した張本人の兄さんだった。  帰ってくるなり「遅い」と睨んだのは、さすがに理不尽だという自覚があったのか、黙って半開きだったドアを開いてくれた。  態度は変わらないけど、とりあえずは入れてくれるみたいなので安堵する。 「……おかえり」  兄さんの横をすり抜けたと同時に呟かれた一言。 「……うん。ただいま、兄さん」  振り返って言葉を返せば、兄さんは明らかにほっとした表情になった。こんな時でもしっかりと挨拶をしてくれる律儀さに少し笑ってしまう。  僕らの帰宅時に交わされる挨拶には、言葉通りの挨拶とはまた違った意味がある。  兄さんによって練成された僕の無事を「ただいま」と「おかえり」で確認しているのだ。今日も何事もなく過ごせて良かったと、  その挨拶で感謝と未来のへの願いが込められている。だから忘れると兄さんはひどく僕を叱った。当たり前の言葉が、  いつのまにか二人の絶対的なルールになっていた。――兄さんの練成は完璧だ。この身体で生活している僕が言うんだから間違いはないのに。 「今日は早かったんだね。お腹空いたでしょ?すぐにご飯作るから」  もういつもの夕飯時間はとっくに過ぎているはずだ。軍服を脱ぐ時間すらも惜しい気がして、このまま料理しようと袖を肘まで捲り上げる。  何を作ろうかと、晩御飯のメニューを考えながら廊下を行こうとした矢先、剥き出しの手首を掴まれた。  骨が軋むほどに強い力を込められ、唇を噛み締める。 「アルは、俺の事が嫌いなのか?」  思いも寄らぬ言葉に振り返ってみれば、俯いている兄さんとぶつかった。  強い力で手首を捕えている人だとは思えぬほどの覇気の無さに内心驚いてしまう。  まるで叱られた子供のような姿に、昼間の出来事が重なる。 「……なんでそう思うの?」  あえて問いに問いを返した。昼間避けたのは他ならぬ兄さんの為なのに。そうした意趣返しだった。  ――だけど意地は十秒も経たなかった。好きという気持ちが、僕にはあるから。  昼間に感じた後悔を思い出したら、貫き通すことなんか出来るわけないじゃないか。 「……兄さんは僕に、また世界を感じることが出来る身体を与えてくれた。すごく感謝してるんだよ。  そんな大切な人を嫌いになんて、なれるわけないでしょ」  たった一人の家族なんだから、寂しいこと言わないで……と続けた僕を、兄さんは突然抱きしめてきた。  昔は兄さんより大きかった背も、今は兄さんのほうが高くて自然にすっぽりと収まる形になる。僅かに震えてる背を撫でようと  腕を伸ばしても、まともに回せない小さな身体が歯痒かった。  本当に兄さんは、僕の事を大切に想ってくれている。昼間少し避けただけでこうも弱くなり、脆くなる。  僕の前でだけ、こうして縋って、ぬくもりを求めてくる。  そんな兄さんの気持ちは嬉しい、僕だって兄さんを大切に想ってるんだ。  それ以上に、僕はあなたが大好きなんだ。実の兄であるあなたが好きでたまらない。 「俺を拒否しないでくれよ、アルフォンス。それだけで俺は狂いそうになる……!」  傍からみたらどんな熱烈な告白になってるか、気がついていないんだろうな。  その言葉一つで僕をどんなに幸せにして、絶望させるか……この恋心が邪魔をして「家族」という幸せだけに浸る事ができない。  あなたが求めているのは弟としてのアルフォンス、ただそれだけでしょう?  僕は、そんな願いに応えなくてはならない――大切な、あなたの弟だから。 「僕も、兄さんの事を大切に思ってるよ」  いつの間にか、少年特有の丸みを帯びていた頬は大人のそれになっていて。凛々しい輪郭の、それでも柔らかい感触の頬に触れる。  俯いた兄さんの顔を恭しく持ち上げて視線を合わせれば、強い光を放つ金色の瞳と出会った。  脆いと思った割に輝きが失われていない瞳。やっぱり兄さんだと誇りに思うと同時に、悔しかった。  この人にはまだ世界がある。僕みたいに、兄さんだけしかいない世界じゃない……。  闇に引きずられそうな気持ちを押し隠し、口元を歪ませて微笑みを作る。  自分を嘲笑する笑顔が、あなたの笑顔を作る引き金になるなんて、これ以上の皮肉はない。 「作った」笑顔の先で、兄さんは泣きそうながらも笑みを浮かべて、再び抱き締めてくる。 「アル、お前が大切なんだ」  そっと囁かれて、どうしようもなく胸が歓喜に鼓動を打った。  力強い腕に抱き寄せられるまま自分とは違う広い胸に顔を埋める。昔から変わらない兄さんの匂いとぬくもりは、深い安堵を与えてくれた。  同時に「もっと」と僕を貪欲にさせる腕でもあった。  兄さんの胸に手を這わせ命の鼓動を刻むその場所で、ぎゅっと握る。  兄さんを自分のモノにしたという錯覚が、僕を僅かな間、幸せにした。 「大好きだよ、兄さん」  勘違いしないでね、僕の大好きは、一人の人間として愛してるって事なんだ。  僕の告白があなたにとって安寧をもたらすものなら、何度だって言うよ。 「アルフォンス、俺の大切な弟……」  包み込むような温かい腕と愛しさの溢れた言葉。僕にとっては鋭い刃でしかないそれらに切りつけられたって、痛みくらい我慢できる。  こうして、あなたに作られた身体であなたを感じることが出来るのだから。  だから、禁忌を秘めた身体を今しばらく離さないで。  僕の気持ちは胸にあるだけで罪となる、秘密。  この気持ちを言葉にすれば、あなたはどんな表情をするだろう?  僕は、自分に都合の良い答えを想像するだけで満足で――いや、この世界にいる限り「満足」としか言わせてくれない。  禁断に染まった心の逝き場所を、僕はいつも探している。 「好き」――願わくば、あなたの心に届きますように。                                                           お題SS「秘密」H17.9.4

 

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