見上げた空は





 両手をいっぱいに掲げてもけして届かない真っ青な空。あの綺麗な空を自在に飛ぶ鳥が羨ましかった。  僕は昔、空を飛べると本気で思っていた。だから屋根から飛び降りることに躊躇いはなかったし、そうするのが当然だと思っていて。  下から見上げる兄さんが驚いた顔をしたのは、僕が飛んでるのを見てビックリしていたんだと思っていた。  ふわり。風と一体化したかのような不思議な浮遊感は一瞬だけ。  結果、ボールと同じように僕も例に漏れず重力に従い不恰好に落ちた。 「にんげんにはねがないのは、なんでもできるかみさまとにんげんをわけるためなんだ。 そらをとべなくても、おれとかあさんがいるんだから、アルはしあわせだろ?」  本気で空を飛ぼうと落下した僕のベッドの横で、怒ってるのか泣いているのか判らない表情で話した兄さんの姿は、いつまで経っても頭に残っている。  あれから僕は、もう兄さんを心配させたり泣かせないと決めたんだ。  でも、空を飛びたいって願いだけは消えなかった。いつの時代だって人は願う事をやめないでしょう?  ここから自由に羽ばたける翼が欲しいと願うのは、駄目なこと?  貪欲に自由を追い求めるのは、何かが足りないから。  僕が不完全な人間だから――欲しくなるのに。  足裏が地面にぶつかるたび響く重たい足音。  音を立てず歩くには少々コツがいるけど、長年鎧を身体として生きてきた僕には容易いことだ。  今は特に静かに歩かなくちゃいけないわけじゃないから、意識することなく歩みを進める。音はここに僕がいると示し実感できる少ない手段だ。  頭上に広がる青空がやけに青く見えて、ひどく懐かしく感じた。それはここが故郷であるリゼンブールだからだろう。  僕は一人、前に住んでいた場所に立っている。生身だったらじくじく痛むだろう、始まりの場所だ。  こういう時は鎧で良かったと思う。あまりの痛さに泣き叫んでいただろうから。  不本意ながら昔よりも大分高い位置から見下ろすこの土地には、思い出がありすぎる。  次から次へと、泉のように湧き出るそれらに懐かしくも悲しかった。思い出の中にいる僕は温かい人間だった。 「ここに、いたのかアル」 「兄さん……」  突然背後から声をかけられて鎧が甲高い音を立てる。  深く追想していた為か、草踏みしめる足音すらまったく気がつかなかった。  「過剰に反応しすぎ」と笑って鎧の腰部分を叩く兄さんに、少々ムッとしてしまう。 「笑い過ぎ。考え事してたんだから仕方ないでしょ」 「そうだな……ここに来たら考えるだけになっちまう」  すぐに笑いを納めた兄さんが隣に並んで、口を噤み視線を巡らす。  思い出に捧げる沈黙がゆらゆらと記憶を運んでくるのを、拒否する事無く受け入れる。  子供の頃の事、母親の事、覚えのない父親の事、幼馴染の事……全て、魂が刻んでいる記憶。  身体は消えても残っているそれらに、改めて生きているんだ、という実感が持てる。  作られたんじゃないかという疑惑に駆られた事もあったけど、今は信じることが出来る。それも全て、兄さんのおかげだ。 「そういえば」  どれくらい二人黙って立ち尽くしていただろう、不意に静けさを破った兄さんは空を見上げた。  つられて見上げれば、先刻と変わらない青空が映る。 「お前、昔空飛ぶっつって、屋根から落ちた事あったな」 「無駄に覚えてるね……」  空を飛べるんだと、空を飛ぼうとして屋根から落ちた記憶は、僕にとって恥かしい黒歴史だ。  あの時、母さんと兄さんの二人がかりで怒られたっけ……今だからこそ、笑えるけれど。 「あんな高さから落ちたんだ、アルフォンスが死んだかと思って心臓止まったぞ」 「兄さん泣いて僕に縋ってたよね?」 「泣いてねえし、縋ってねえ!」  手繰り寄せた記憶の中、怒っているのか泣いているのか判別つかない表情を浮かべた兄さんを思い出してからかえば、カッと赤くなって怒り散らし始めた。  その場で地団駄を踏む兄さんのあまりの子供っぽい様相に笑いながらも、  そこまで心配させた僕が悪いのは明らかだし、誰よりも優しい兄さんに頭を下げる。 「心配させてごめんね」 「ちっ……謝るならもうすんなよ」  「勿論、しないよ」  したくてもこの身体じゃ出来ないから、続いて出そうになった言葉を飲み込む。  あの頃はただ単に空が飛びたいと思っていた。頭上に広がる空を飛べたらどれだけ気分がいいだろう、楽しいだろうって  深く考えることなく、空への夢を膨らませていた。  今は、自由になりたいとあの青い空に願う。  空っぽの目で自由の象徴である空を望み続けた。  刻印は現実へと僕を繋ぐ鎖。  生きている大切な人の側にいる。かけがいのない温かさを与えてくれる。でも、それが全ての幸せとは限らない。  そっと刻印に触れた。子供の頃から欲しかった翼のありかに、僕は密やかに笑う。唯一、翼を手に入れる方法は自分の手の中。  ぐいと力を込めれば、魂が震えた気がした。  確かに、手の中には自由がある――そのきっかけは自分自身だ。 「何、してるんだよ」 「……兄さん」  鎧の手を力いっぱい握り締めるその力は半端じゃない、生身だったら折れていたかもしれない程に強く。  睨みつける双眸に、自分が今何をしていたかようやく気がついた。 「ごめん」  手から力を抜いて、窓の外を見つめた。今日も憎いくらいの晴天に、心を奪われる。あそこへ行きたいと願わせる。  多分きっと、あのまま指に力を入れていれば、あそこへ行けたはずだ。  腕を掴む兄さんの手は、熱いのかな? 熱を持たない、無機質でがらんどうな空洞の腕は、兄さんの体温すら感じ取ることができない。縋ることも、出来ない。 「アルは……生きてるんだ。自ら命を投げ出すことはするな」  聞いたことがない低い声に窓から兄さんへ視線を移してみると、金の髪から垣間見える瞳は怒りを含み強い色をしていた。  僕の行動に怒りを露にしている兄さんに対して、申し訳ないなんて殊勝な感情は湧いてこなかった。  ただ胸に強く押し寄せたのは、瞳一つでこんなにも生命を感じさせる生への憧れだった。  兄さんにはわからないだろう。この空虚な身体は本当に生を全うしていると言えないことを。  腕の一本、指先ですら兄さんの熱を感じる事が出来ない。求めても求めても、叶わない。金の瞳を見る度に憧れの裏で増長していく憎さ。  光の大きさに比例して、影も大きくなっていく――手が付けられない程に。 「……うん。ごめん」  しばらく視線を通わせて、小さく呟いた。  大好きな兄さんにはこの真っ黒な感情をぶちまけたくない。自身の心から逃れるようにまた空を見上げた。この空だけは、いつも平等だった。  一定の距離は人間、兄と変わらない。鎧だからなんて関係ない。そう、人だった幼少時代から、変わらないものなのだ。 「そうやっていつも空を見る……死ぬことは自由じゃないぞ。生きてなきゃ自由なんて感じないんだ」 「ん、兄さんの言うとおりだよね……」  僕の腕を掴みながら怒りから一変し縋るように見つめる金の瞳に、頷いてみせる。その言葉に僕の心が晴れることはないけれど。  ねえ、兄さん。命をかけて取り戻してくれたあなたには絶対に言えないことがある。  だって感謝をしているから。こうしてまた兄さんと話が出来て側にいられることは、凄く幸せなんだ。  でも、苦しい。空虚な体で、魂だけの存在な癖に苦しい。  人は贅沢だというだろう。  なんて愚かで恩知らずだと罵るだろう。  ――自由になりたい、それは大層な望みかな? 「アル?」  心配そうに覗き込む兄さんに、僕は努めて明るく振舞う。 「僕を助けてくれて、ありがとう」  助けて。助けて。一人の夜はもう嫌だ――言葉とは裏腹な心を誤魔化すには具合のいい鎧の身体が、きしむ。  僕の身勝手な言葉で兄さんを傷つけたくない。彼はとても優しくて強くて、弱いんだ。 「早く戻ろうね」 「ああ。絶対にお前を戻してやるからな」  やっと笑った兄さんの表情は、日に日に大人びていく。  置いてかないで、けして声にはだせぬ願いを空に向かって呟いた。  どこまでも澄んだあの青なら、汚い心も綺麗になるかな。  僕は空が好きだ。  見上げた先に、世界中の誰よりも優しく包み込んでけして手には届かない残酷な青があるといい。  兄さんには内緒で、自由を願わせて。                                            「お題SS:見上げた空は」H20.10.2

 

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